『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
4 モンゴルの復興
1 捕われた皇帝
一四四九年といえば、永楽帝が世を去ってから二十五年、洪煕(こうき)・宣徳(せんとく)の二代をへて、英宗の正統十四年になっている。
英宗すなわち正統帝は、まだ二十歳のわかさであり、その側近にあって権力をふるっていたのは、宦官の王振であった。
このころ明朝にとって、もっとも大きな問題は北辺にあった。
モンゴルに英雄エセンがあらわれて、東は中国の東北地方(満州)から、西はトルキスタンにおよぶ大版図をひらき、しばしば明の辺境にも入冦(にゅうこう=侵入)していた。
これに対して明朝は、むしろエセンを挑発する態度をとる。
怒ったエセンは、正統十四年の七月、大軍を四手にわけて、明の北境一帯に進攻した。
エセンのひきいる本軍は、大同にむかった。
大同が侵された、との報に接するや、正統帝と王振は、群臣の反対をしりぞけて、ただちに親征を決する。
こうして五十万の大軍は皇帝をいただいて、七月十七日に北京を発した。
宣府をへて、八月二日には大同に達する。
エセンの軍はすでに引きあげていた。
しかし大同の被害は、あまりにも大きい。
敵状をさぐると、その勢いはすこぶるさかんである。
おそれをなした王振は、いま来た道を退却することにした。
こうして宣府をすぎたところでモンゴル兵の迫撃にあう。
明軍は何万輌という車をつらねた大部隊である。
モンゴル軍は軽装の騎馬部隊である。
たちまち明軍は数万の死者をだした。
皇帝は八月十五日、ようやく土木堡につく。
そこを二万のモンゴル軍が包囲した。もはや動くこともできない。
モンゴル軍の猛攻のまえに、数十万の明軍はことごとく倒された。
王振をはじめ軍にしたがっていた大官たちはみな戦死した。
正統帝は捕えられた。
思いもかけぬ敗報に、北京は震駭(しんがい)した。
皇帝は連れ去られ、大軍は覆滅している。
南京に遷都しようとの議論もでた。
しかし兵部(へいぶ)の責任者たる干謙(うけん)は、あくまで北京を固守することを主張し、正統帝の弟を立てて、皇帝とした。
これが代宗・景泰帝である。
十月にいたり、エセンは皇帝を返還すると称して、北京へせまった。
干謙らは城外にでて、これを防ぐ。
エセンは北京をかこむこと五日、その守りの固いことを知って引きあげた。
正統帝は北京を見ながら帰ることができず、モンゴルの地へともなわれた。
エセンとしては、正統帝を有利な取引の材料にしようとしたのである。
しかし明朝では、その手に乗らなかった。
エセンは正統帝の処置にこまった。とうとう翌年の八月、無条件で正統帝をかえしてしまう。
ここで困ったのは、かえって明の朝廷である。
すでに正統帝は上皇ということになっているが、譲位したわけではない。
弟の景泰帝は、その地位が不安定になることをおそれて、兄の帰国をかならずしも歓迎してはいなかった。
当然の結果として、朝廷には二派が生じた。
もちろん皇帝派と上皇派であり、上皇派は正統帝の復位をはかったのであった。
景泰七年(一四五六)末、景泰帝が病気にかかると、ただちに上皇派は動いた。
そして翌年の正月、上皇の復位が実現された。
年号は天順と改められ、干謙らの功臣は殺された。
この間に、モンゴルの情勢も大きく変わっている。