『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
6 雷帝後の動乱のロシア
2 偽者ツァーリ
ロシア史における「動乱」時代の特色は、「皇子ディミートリー」を名のる謎の人物が、あいついで登場することである。
彼らが何者であったかは、いまだに不明である。
一説によると最初にポーランドに出現する「偽ディミートリー」は、もと大貴族ロマノフ家の家内奴隷であり、のちに修道僧となり、グレゴリーを名のった。
この男が、やがてロシアの帝位を要求する「僭称者(せんしょうしゃ)」として登場するのは、実はポリス・ゴズノフの政敵ロマノフ家(ゴズノフの迫害を受け、ポーランドへ亡命)の陰謀であったといわれる。
また、別の説によれば、ポーランドにあらわれた「ディミートリー」は、このグレゴリーとはまったく別人であるという。
いずれにせよ、このえたいの知れない青年の人相は、当時の記録によると、「身の丈はふつう以下、顔は不細工で美男とはいえないが、憂いにみちた表情」であった。
しかしこのディミートリーの出現が、一方では、ロシアの国教であるギリシア正教に対抗し、カトリック教会の勢力振興をはかるローマ教皇と、これと結託して領土拡大をねらうポーランド王、他方では、ポリスの独裁に不満な国内の大貴族たちとむすびつく、国際的な「大陰謀」、「大賭博」であったことほまちがいない。
そのうえ、十年前には、いわゆる「ウグリチ事件」(皇子ディミートリーが一五九一年五月ウグリチで変死)の調査団長をつとめた大貴族のワシリー・シュイスキーが、いまや前言をとり消して、「皇子生存説」に加担したから、混乱はなおさらであった。
飢饉に苦しむ農民や冒険好きのコサックは、「新しいツァーリ」を救世主として歓迎した。
一六〇五年、ポリスが死んでまだ四ヵ月もたたないうぢに、ポーランド兵を先頭として偽ディミートリーは、モスクワにはいり、大貴族や市民の歓呼のうちに帝位につぃた。
これがロシア史上、いわゆる「偽ディミートリー一世」である。
彼は統治者として意外に有能であり、毎日のように「大貴族会議」に出席して政務を聞き、民心の掌握にも意をもちいた。
そして奇怪にも、イワン雷帝の未亡人(殺された皇子ディミートリーの実母)までが、この偽者を実子であると証言している。
ゴズノフ時代には、国外追放のうきめをなめていたロマノフ家の人びともよびもどされ、なかには要職につくものもあった。
しかし偽ディミートリーの治世は、けっきょく一年とつづかなかった。
シュイスキーが偽ディミートリーを承認したのは、ポリス・ゴズノフをたおすのが目的であった。
「こんどは僭称者を追っぱらう番だ」と私語したというが、ここでまた例のごとく、大貴族の陰謀がめぐらされる。
彼らはまずモスクワの群衆を煽動し、不満の目をモスクワ宮廷で野蛮な振舞をしているポーランド兵にむけさせた。
一方、僞ディミートリーは重大な失策をおかした。
かねてからの恋人、ポーランド貴族の娘マリーナを正式に妃にむかえたことである。しかも彼女は、ロシア人が異教徒として忌(い)みきらうカトリック教徒であった。
偽ディミートリー即位の翌年(一六〇六)の春、このマリーナは、多数のポーランド貴族や軍隊にまもられてモスクワに到着し、クレムリンで盛大な結婚式があげられた。
これにつづく、連日連夜の底抜けの祝賀大宴会で、酔いしれたポーランド貴族や兵士が街に流れだし、市民に乱暴狼藉(ろうぜき)をはたらいた。
好機いたれりとシュイスキー以下の大貴族たちは、ポーランド人にたいする市民の不満をあおりたてる。
五月十七日の夜、教会の鐘の音を合図に暴動が起こり、群衆は「ポーランドの犬どもをやっつけろ」と叫びながらクレムリンに殺到する。
おどろいた偽ディミートリーは、逃げようとして窓からとびおり、頭と胸をうち、足を骨折して気絶した。
怒り狂った群衆は、石や棍棒や剣などで彼をところきらわずめった打ちし、土足で踏みにじり、その死体は「赤の広場」でさらしものにされた。
さらに死体は煤やタールをぬりつけられ、切りきざまれたうえ焼かれ、その灰は大砲につめられて、彼がやってきたポーランド方向の天空に発射されたという。
もってその憎しみのほどが知られる。