『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
2 動乱の地中海
3 イスラムの西進
東ローマ帝国は、小アジア半島とバルカン半島を、やっとのことで守りとおした。
だが、ユスティニアヌス帝の夢が残した北アフリカの東ローマ領には、半月旗(イスラム)が高くひるがえったのである。
七世紀のなかばにチュニジアを占拠したアラブ勢は、ウマイア朝の初代カリフ、ムアーウィアの代に、カルタゴの南にカイルワーン市を建設し、ここを基地として、さらに西に進んだ。
東ローマ帝国の最後の拠点カルタゴは、六九七年に陥ち、だいたい七〇〇年ごろまでに、半月旗は北アフリカの大西洋岸に到達した。
やがて、第六代のカリフ、ワリード一世(七〇五~七一五)の代に、イスラム勢はヨーロッパの一角、イベリア半島にとりついた。
ベルペル族の解放奴隷出身のターリク・ビン・ジヤードのひきいる軍勢が、七一一年に、ジブラルタル海峡を渡ったのである。
ジブラルタルという呼称は「ターリクの山」を意味する「ジャバル・ターリク」から出たものであり、ターリクのひきいる軍勢が渡りついたイベリア半島側の地点の呼称である。
当時、イベリア半島に国を建てていたゲルマン部族の西ゴートは、ヘレスの一戦に敗れて、この年のうちに半月旗のもとに屈服した。
西北部のガリシア山地をのぞくイベリア半島全域が数年間のうちに、イスラム勢の支配下に入った。
なおも前進するイスラムの旗は、七二〇年ごろ、ピレネー山脈を越えて、フランス王国領のアキタニアに入った。
小規模な侵冦をくりかえしたのち、七三二年総力をあげて侵入したイスラム軍は、ボルドーを荒らしたのち、ボワチエを過ぎてツール方面に向かった。
ここにフランク王国の危機を救ったのが、メロビング王家の宮宰(家令にあたる)カール・マルテル(鉄槌)である。
彼は、それまでよくイスラム勢の侵冦を撃退していたアキタニアの豪族エウドの要請に応じ、重装騎兵を中核とする軍勢をひきいて南下し、ツールの手前でイスラム軍をむかえ討ち、敵将アブズル・ラフマンを倒して、イスラム勢を後退せしめることに成功した。
ここに半月旗の西進はくいとめられた。
「ユスティニアヌスの再征服」に古代ローマ帝国の夢をふたたび追おうとした東ローマ帝国であったが、ランゴバルド族のイタリア半島侵入と、それにつづいたイスラムの西進とが、その夢を無残にうちくだいた。
ランゴバルド族に対するイタリアのローマ人同様、シリア、エジプト、北アフリカの住民たちの半月旗に対する抵抗は、意外に弱かった。
ユスティニアヌス以後の苛酷な徴税と、かたくなな宗教政策とが、どこの地域でも、東ローマ帝国の統制に対する反感を醸成していたからだった。
地中海世界は、東ローマ帝国が期待したほど「ローマ帝国」としての一体感、連帯意識をもはやもってはいなかったのだ。 そのうえアラブ人の支配は、たいそうゆるやかなものであった。
イスラム教に改宗したものは、その呼称こそ「解放奴隷」と暗いイメージをふくんでいたが、そのじつ、支配者層であるアラブ人と原理上は同等の身分を構成するものとして、政治上の発言権をあたえられた。
改宗をうけいれない異教徒たちは、被保護民として、政治上は無権利であったが、ともかくも、人頭税を支払えば、彼らは、おのれの信仰に忠実であることができたのである。
従来いい古されたキャッチ・フレース、「剣か、コーラン(イスラム教の聖典)か」、つまり、イスラムの征服者は、征服地の住民に改宗をせまり、これが拒否されると武力弾圧を加えたというみかたは、歴史の真実をゆがめているといわなければならない。
この「剣」を「人頭税」という意味に解するとしても、この二者択一は、原地人にとって、けっして苛酷なものではなかった。
実際、自発的に改宗し、積極的にイスラムの支配体制に協力する傾向が、各地でみられたのである。
もちろん特権階級として、社会的、経済的に最優位にあったアラブ人に対する被征服民の不満は、つねにくすぶっていた。
七五○年、ウマイヤ家が倒されて、アッバース家がカリフの位をにぎった革命は、とくにシリアのイラン(ペルシァ)系「解放奴隷」層の反アラブ運動を背景としたものであった。
したがって、アッバース側の統治の開始された八世紀後半以降、ウマイヤ朝の征服活動によって東西にひろがったサラセン帝国の領土を横につないでいたアラブ人相互間の団結が弱まり、各地域の非アラブ系イスラム教徒の力が相対的に強まった。
その結果、各地域でアッバース朝の統制から離反し、ひいては自立する傾向が顕著になり、八世紀末までにチュニジアとモロッコが独立し、九世紀なかば過ぎにはエジプトも自立するにいたった。
東方のイラン高原の方面でも事情は同じであった。
さて、こういうわけで、地中海世界の古代ローマ的な一体構造は、ここに終局的に破壊されたのである。
西部地中海上の島々は、すべてイスラム勢の手中にはいり、イタリア半島から西の世界は、東方の世界から遮断された。
東部地中海では、九世紀にはいってもなおシチリア、クレタをめぐる攻防が、東ローマとイスラム勢とのあいだにつづけられていたが、大局的にみて、地中海は「イスラムの湖」と化した。
あるイスラムの歴史家は、[いまやキリスト教徒は、地中海上に板きれ一枚うかべることもできなくなった]と述べた。
この言葉は、九世紀の地中海世界の実情を、きわめて端的に伝えているということができよう。
このイスラムによる海上封鎖の体制は、西ヨーロッパ世界に、深刻な影響をあたえた。
エジプトのパピルスをはじめ、香辛料、絹などの東方産物の輸入がとだえた。
東方との交易に従事していた商人たちが姿を消し、都市経済は衰えた。
都市経済の盛んであった南フランスは衰退し、フランク王国の政治の重心は、ロワール川以北にうつった。
西ヨーロッパは地中海との、ひいては東方世界との接触を失い、内陸に閉じこめられた。
もちろん、ヨーロッパ内陸からアルプスを越えて、イタリア、東ローマをむすぶ道は、イェルサレム巡礼路と一致し、ユダヤ人商人を介してともかくも保たれ、さらにイベリア半島のイスラム教徒との取り引きも小規模ながらみられたが。
しかし、古代の地中海世界の商業の盛況は、ここにはもうみられない。
けっきょくイスラムの西進は、地中海世界の古代を否定したといえよう。
東ローマ帝国も、西ヨーロッパも、このときはじめて異質の状況下におかれたのである。
古代から中世への転換がそこにみられた
2 動乱の地中海
3 イスラムの西進
東ローマ帝国は、小アジア半島とバルカン半島を、やっとのことで守りとおした。
だが、ユスティニアヌス帝の夢が残した北アフリカの東ローマ領には、半月旗(イスラム)が高くひるがえったのである。
七世紀のなかばにチュニジアを占拠したアラブ勢は、ウマイア朝の初代カリフ、ムアーウィアの代に、カルタゴの南にカイルワーン市を建設し、ここを基地として、さらに西に進んだ。
東ローマ帝国の最後の拠点カルタゴは、六九七年に陥ち、だいたい七〇〇年ごろまでに、半月旗は北アフリカの大西洋岸に到達した。
やがて、第六代のカリフ、ワリード一世(七〇五~七一五)の代に、イスラム勢はヨーロッパの一角、イベリア半島にとりついた。
ベルペル族の解放奴隷出身のターリク・ビン・ジヤードのひきいる軍勢が、七一一年に、ジブラルタル海峡を渡ったのである。
ジブラルタルという呼称は「ターリクの山」を意味する「ジャバル・ターリク」から出たものであり、ターリクのひきいる軍勢が渡りついたイベリア半島側の地点の呼称である。
当時、イベリア半島に国を建てていたゲルマン部族の西ゴートは、ヘレスの一戦に敗れて、この年のうちに半月旗のもとに屈服した。
西北部のガリシア山地をのぞくイベリア半島全域が数年間のうちに、イスラム勢の支配下に入った。
なおも前進するイスラムの旗は、七二〇年ごろ、ピレネー山脈を越えて、フランス王国領のアキタニアに入った。
小規模な侵冦をくりかえしたのち、七三二年総力をあげて侵入したイスラム軍は、ボルドーを荒らしたのち、ボワチエを過ぎてツール方面に向かった。
ここにフランク王国の危機を救ったのが、メロビング王家の宮宰(家令にあたる)カール・マルテル(鉄槌)である。
彼は、それまでよくイスラム勢の侵冦を撃退していたアキタニアの豪族エウドの要請に応じ、重装騎兵を中核とする軍勢をひきいて南下し、ツールの手前でイスラム軍をむかえ討ち、敵将アブズル・ラフマンを倒して、イスラム勢を後退せしめることに成功した。
ここに半月旗の西進はくいとめられた。
「ユスティニアヌスの再征服」に古代ローマ帝国の夢をふたたび追おうとした東ローマ帝国であったが、ランゴバルド族のイタリア半島侵入と、それにつづいたイスラムの西進とが、その夢を無残にうちくだいた。
ランゴバルド族に対するイタリアのローマ人同様、シリア、エジプト、北アフリカの住民たちの半月旗に対する抵抗は、意外に弱かった。
ユスティニアヌス以後の苛酷な徴税と、かたくなな宗教政策とが、どこの地域でも、東ローマ帝国の統制に対する反感を醸成していたからだった。
地中海世界は、東ローマ帝国が期待したほど「ローマ帝国」としての一体感、連帯意識をもはやもってはいなかったのだ。 そのうえアラブ人の支配は、たいそうゆるやかなものであった。
イスラム教に改宗したものは、その呼称こそ「解放奴隷」と暗いイメージをふくんでいたが、そのじつ、支配者層であるアラブ人と原理上は同等の身分を構成するものとして、政治上の発言権をあたえられた。
改宗をうけいれない異教徒たちは、被保護民として、政治上は無権利であったが、ともかくも、人頭税を支払えば、彼らは、おのれの信仰に忠実であることができたのである。
従来いい古されたキャッチ・フレース、「剣か、コーラン(イスラム教の聖典)か」、つまり、イスラムの征服者は、征服地の住民に改宗をせまり、これが拒否されると武力弾圧を加えたというみかたは、歴史の真実をゆがめているといわなければならない。
この「剣」を「人頭税」という意味に解するとしても、この二者択一は、原地人にとって、けっして苛酷なものではなかった。
実際、自発的に改宗し、積極的にイスラムの支配体制に協力する傾向が、各地でみられたのである。
もちろん特権階級として、社会的、経済的に最優位にあったアラブ人に対する被征服民の不満は、つねにくすぶっていた。
七五○年、ウマイヤ家が倒されて、アッバース家がカリフの位をにぎった革命は、とくにシリアのイラン(ペルシァ)系「解放奴隷」層の反アラブ運動を背景としたものであった。
したがって、アッバース側の統治の開始された八世紀後半以降、ウマイヤ朝の征服活動によって東西にひろがったサラセン帝国の領土を横につないでいたアラブ人相互間の団結が弱まり、各地域の非アラブ系イスラム教徒の力が相対的に強まった。
その結果、各地域でアッバース朝の統制から離反し、ひいては自立する傾向が顕著になり、八世紀末までにチュニジアとモロッコが独立し、九世紀なかば過ぎにはエジプトも自立するにいたった。
東方のイラン高原の方面でも事情は同じであった。
さて、こういうわけで、地中海世界の古代ローマ的な一体構造は、ここに終局的に破壊されたのである。
西部地中海上の島々は、すべてイスラム勢の手中にはいり、イタリア半島から西の世界は、東方の世界から遮断された。
東部地中海では、九世紀にはいってもなおシチリア、クレタをめぐる攻防が、東ローマとイスラム勢とのあいだにつづけられていたが、大局的にみて、地中海は「イスラムの湖」と化した。
あるイスラムの歴史家は、[いまやキリスト教徒は、地中海上に板きれ一枚うかべることもできなくなった]と述べた。
この言葉は、九世紀の地中海世界の実情を、きわめて端的に伝えているということができよう。
このイスラムによる海上封鎖の体制は、西ヨーロッパ世界に、深刻な影響をあたえた。
エジプトのパピルスをはじめ、香辛料、絹などの東方産物の輸入がとだえた。
東方との交易に従事していた商人たちが姿を消し、都市経済は衰えた。
都市経済の盛んであった南フランスは衰退し、フランク王国の政治の重心は、ロワール川以北にうつった。
西ヨーロッパは地中海との、ひいては東方世界との接触を失い、内陸に閉じこめられた。
もちろん、ヨーロッパ内陸からアルプスを越えて、イタリア、東ローマをむすぶ道は、イェルサレム巡礼路と一致し、ユダヤ人商人を介してともかくも保たれ、さらにイベリア半島のイスラム教徒との取り引きも小規模ながらみられたが。
しかし、古代の地中海世界の商業の盛況は、ここにはもうみられない。
けっきょくイスラムの西進は、地中海世界の古代を否定したといえよう。
東ローマ帝国も、西ヨーロッパも、このときはじめて異質の状況下におかれたのである。
古代から中世への転換がそこにみられた