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ポルトガルの聖エリザベト王妃   St. Elisabeth Portugalliae Vid.

2024-07-04 00:00:05 | 聖人伝
ポルトガルの聖エリザベト王妃   St. Elisabeth Portugalliae Vid.   記念日 7月 4日


 ポルトガルは今でこそ共和国になっているが、しばらく前までは王国で、その王妃の中から本日語らんとするエリザベトの如き聖女を出だした。これは同国に取って大いなる名誉と言わねばならぬ。
 彼女は1271年スペイン、アラゴニア王ペトロ3世と、シシリア王女にてその妃となったコンスタンチアとの間に生まれた。世に名高いツリンギアの聖女の甥に当たる父は、わが娘も伯母の高徳にあやからしめたいと、その名をとってエリザベトと命名した。
 当時彼女の祖父は、長男なるペトロと戦っていたが、エリザベトが誕生するや、たちまち両者の間に和解が成立したので大いに喜び、自ら彼女の教育を引き受けたいと申し出た。この祖父が没したとき、彼女はまだ僅かに8歳であったが、その頃の習慣により早くもポルトガル王ヂオニジオのいいなずけとされ、その宮廷生活に慣れるようリスボン市に連れ行かれた。彼女の夫たるべき国王はあまり徳のある人物でもなかった。しかし若い王妃はよく彼に仕え、その満足を買う一方、霊魂に危険な宮廷の豪奢華美を避け、我が身に規矩峻厳な生活を望んだ。それで彼女は大伯母聖エリザベトに倣ってフランシスコ第三会に入り、その聖い戒律を厳守するばかりか、進んで断食等の苦行にさえ精励した。
 1288年彼女は一人の王女をもうけた。この王女は名をコンスタンチアと呼び、後にカスチリアの王妃となったが、間もなく1313年にこの世を去った。1301年には王子が生まれた。これはその後父のあとを継いでポルトガルの王位に登った人である。
 エリザベトの夫ヂオニジオ王は終始変わらぬ愛情を彼女に注いだ訳ではなかった。それ故に彼女は一方ならず苦しんだ。しかし一切を天主に委せて忍耐し、やさしい愛情を以て夫に尽くした。その内に王も彼女の誠心に感じ深い尊敬を抱くようになり、彼女の望むままに信心や慈善の業をして差し支えないと許可を与えた。王妃は喜んで病人や貧民を見舞い、その救済に努めると共に、信心にも精を出し、多く祈り、司祭同様聖務日課を唱え、毎週三度パンと水だけの粗食を摂った。
 かような感ずべき彼女の日常が天主の思し召しに適ったのであろう、度々彼女によって奇跡の起こることもあった。例えば彼女がある憐れむべき盲目の小児の目に手を触れると、たちまちそれがひらいたり、ある病人向かって十字架の印をするとその病がたちどころに平癒したりしたなどである。
 エリザベトはまた臣下の貴族達に対して隣人愛を示した。というのは他でもない、彼等殊に彼女の親戚に当たる人々がしばしば相争い、戦さえしかねる有様であったのを、彼女はいつも調停に奔走して事なきを得させたのである。ある時などは両軍相対峙して今にも干戈を交えようという危機に、王妃が馳せつけ身を挺して大事を未然に防いだのであった。
 1325年、夫ヂオニジオ王が崩ずるや、エリザベトはコインブラなるクララ会の修道院に入り、修女の服を受けたが、今まで国母と仰がれた我が身を一院の下婢の如く考え、完徳の道に精進した。彼女の本来の望みは生涯院内に閉じこもり、全く世間との交わりを絶って修道生活をすることであった。けれども長上の勧告もあり、それまでは厳しい隠遁をせぬ事とし、時々はしばらく宮殿に帰って後事を配慮することもあったのである。彼女が他の和解に努力斡旋したことはその後もう一度あった。が、その疲労は彼女の体力を根こそぎ奪ってしまった。エリザベトは重き病の床に伏す身となったのである。しかし彼女はその激しい病苦をもよく耐え忍んで、かりそめにも人に呟き訴えるようなことはなかった。
 ある日我が子の妃がその枕元に付き添っているとエリザベトが突然「すまないがお前は立って、そこへおいでになった女の方に席をお譲りしておくれ・・・」と言い出した。
 「どの方でございますの?どなたもお見えになりませんが・・・」妃が訝しげにそう尋ねると、エリザベトは「それ、そこに白い衣を着た方がおいでになるではないか?」と答えたが、彼女の目にのみ映じたその方は、恐らく日頃から彼女が深く尊敬していた童貞聖マリアで、彼女を天国に迎える為においでになったのであろう。実際それから数分たつかたたぬに、エリザベトは「聖寵の母、憐れみの母なる聖マリアよ、仇の手より我を守り、臨終の時我等を救いとり給え!」と呟いたと思うと、眠るが如く息絶えたのであった。
 彼女の列聖が行われたのは1625年教皇ウルバノ8世の御代のことであった。

教訓

 聖女エリザベトに倣って隣人と親しむがよい。また特に自分の家庭あるいは親戚間に不和が生じた場合には及ぶ限りその和解調停に努めるべきである。











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