聖ラジスラオ王 St. Ladislaus C. 記念日 6月27日
中世の初め聖教は、非常な勢いで欧州の北部諸国に広まったが、それはアイルランド、イングランド等から来た宣教師等の献身的努力と共に当時輩出した諸国の聖王たちの好意ある援助による所もすこぶる多かった。その最も顕著な例はハンガリー国王ステファノ、その子聖エンメリックに見られるが、このステファノ王が崩ぜられた頃は国民の間にまだまだ異教の風習が沢山に残っていたのである。
彼の孫アンドレア一世が崩じた1065年、その太子サロモンが王位に即いた、しかし彼は苛斂誅求を事として人民の膏血を絞り、身は金殿玉楼に豪奢な生活を誇るという、目に余る所行が多かったので、国家の元老達は彼を廃し、代わりにその従弟に当たるラジスラオを擁立して国王と仰ぐに至った。
所がこのラジスラオ王は先のサロモンとは事変わり、生まれつき万民の上に立つ数々の英資を備えている上に、わけても仁慈の心と信仰の念とに篤く、己が光栄よりは人民の安寧幸福を重んずる天晴れな名君で、退位した従弟に対しても更に他意なかったのに、サロモンの方では自分非を棚にあげてラジスラオを怨み、他の民族の力を借りて突然ハンガリーに攻め込んだから、ラジスラオもやむなく応戦し、遂にこれを撃破したのであった。
その後ラジスラオは聖王ステファノの跡に倣って益々徳を磨くに努め、身は一天万乗の君として壮麗な宮中にありながらさながら一介の修道者の如く厳格な生活を営み、毎朝欠かさずミサ聖祭にあずかり、しばしば天使のパンを拝領し、善政を布く聖寵を求めて鋭意天主の思し召しの実現を計ったから、その国は吹く風も枝を鳴らさぬほど平和に治まり、人民いずれも鼓腹撃壌してこの稀世の英主を称えぬはなかった。
彼はまた禁酒し、その身も天主の聖殿とする事を心がけてあらゆる危うい快楽を避け、臣下に立派な模範を垂れた外、なお国内に見いだされる異教時代の風習の根絶にも大いに力を尽くした。されば時の教皇グレゴリオ7世も厚く彼をよみされその報いとして特に国王ステファノ、その子エンメリック両聖人の遺骨をその聖堂の祭壇上に安置し、一般信者の崇敬に宛てる事を許可された。聖王ステファノの右手がいささかも腐敗せず存しているのを発見されたのもその時のことである。
ラジスラオ王はこの奇跡を見て一層その遺徳にあずからんとの決意を固め、いよいよ善業を事とし、数多の修院を造り、壮麗な聖堂を建立し、二教区を新設したのみならず、度々司教司祭大修院長等の会議を召集し、内は信者達の信仰道徳を奨励し、外は教勢の発展を計った。
ラジスラオ王は聖旨をわが心として国を統べ治める事18年、あたかも教皇ウルバノ2世の飛檄によって、全欧州は聖地エルサレムをサラセン人の手から奪還すべく決起し、十字軍を結成する快挙あり、彼も天主と聖会との為に心ゆくまで戦わんものと聖なる功名心に燃えて、1095年勇躍征途についた。しかるにこれも天主の御摂理か、道半ばにして病に罹り、遂に再起の機会を得ず、立派な覚悟を以て同年6月29日帰天したのであった。
教訓
聖ラジスラオは身帝王の位にありながら心傲らず、いよいよ謙遜に天主の聖旨を実現すべく努めた。我等も彼に倣いこの世の名利に心を奪われず、唯一期の大事なる救霊を目指して一路邁進すべきである。
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中世の初め聖教は、非常な勢いで欧州の北部諸国に広まったが、それはアイルランド、イングランド等から来た宣教師等の献身的努力と共に当時輩出した諸国の聖王たちの好意ある援助による所もすこぶる多かった。その最も顕著な例はハンガリー国王ステファノ、その子聖エンメリックに見られるが、このステファノ王が崩ぜられた頃は国民の間にまだまだ異教の風習が沢山に残っていたのである。
彼の孫アンドレア一世が崩じた1065年、その太子サロモンが王位に即いた、しかし彼は苛斂誅求を事として人民の膏血を絞り、身は金殿玉楼に豪奢な生活を誇るという、目に余る所行が多かったので、国家の元老達は彼を廃し、代わりにその従弟に当たるラジスラオを擁立して国王と仰ぐに至った。
所がこのラジスラオ王は先のサロモンとは事変わり、生まれつき万民の上に立つ数々の英資を備えている上に、わけても仁慈の心と信仰の念とに篤く、己が光栄よりは人民の安寧幸福を重んずる天晴れな名君で、退位した従弟に対しても更に他意なかったのに、サロモンの方では自分非を棚にあげてラジスラオを怨み、他の民族の力を借りて突然ハンガリーに攻め込んだから、ラジスラオもやむなく応戦し、遂にこれを撃破したのであった。
その後ラジスラオは聖王ステファノの跡に倣って益々徳を磨くに努め、身は一天万乗の君として壮麗な宮中にありながらさながら一介の修道者の如く厳格な生活を営み、毎朝欠かさずミサ聖祭にあずかり、しばしば天使のパンを拝領し、善政を布く聖寵を求めて鋭意天主の思し召しの実現を計ったから、その国は吹く風も枝を鳴らさぬほど平和に治まり、人民いずれも鼓腹撃壌してこの稀世の英主を称えぬはなかった。
彼はまた禁酒し、その身も天主の聖殿とする事を心がけてあらゆる危うい快楽を避け、臣下に立派な模範を垂れた外、なお国内に見いだされる異教時代の風習の根絶にも大いに力を尽くした。されば時の教皇グレゴリオ7世も厚く彼をよみされその報いとして特に国王ステファノ、その子エンメリック両聖人の遺骨をその聖堂の祭壇上に安置し、一般信者の崇敬に宛てる事を許可された。聖王ステファノの右手がいささかも腐敗せず存しているのを発見されたのもその時のことである。
ラジスラオ王はこの奇跡を見て一層その遺徳にあずからんとの決意を固め、いよいよ善業を事とし、数多の修院を造り、壮麗な聖堂を建立し、二教区を新設したのみならず、度々司教司祭大修院長等の会議を召集し、内は信者達の信仰道徳を奨励し、外は教勢の発展を計った。
ラジスラオ王は聖旨をわが心として国を統べ治める事18年、あたかも教皇ウルバノ2世の飛檄によって、全欧州は聖地エルサレムをサラセン人の手から奪還すべく決起し、十字軍を結成する快挙あり、彼も天主と聖会との為に心ゆくまで戦わんものと聖なる功名心に燃えて、1095年勇躍征途についた。しかるにこれも天主の御摂理か、道半ばにして病に罹り、遂に再起の機会を得ず、立派な覚悟を以て同年6月29日帰天したのであった。
教訓
聖ラジスラオは身帝王の位にありながら心傲らず、いよいよ謙遜に天主の聖旨を実現すべく努めた。我等も彼に倣いこの世の名利に心を奪われず、唯一期の大事なる救霊を目指して一路邁進すべきである。
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