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『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
5 アテネの民主政とソフィスト(賢者)―ソクラテス―
3 アテネの民主化
アテネの国ができたころは、王政だった。
そして伝説に近いが、アイゲウスやテセウスなどの王の名が伝わっている。
王政はやがて、貴族たちの政治にとってかわられた。
貴族たちは政治の権を、自分たちだけで独占したばかりでなく、裁判権も彼らだけが持っていた。
このため貴族と一般の人々とのあいだに争いが起こると、貴族たちは自分たちに有利なように裁判を勝手にとりしきった。
平民たちはこのことに強い不満を持っていた。
ヘシオドスという叙事詩人が、彼の作品『仕事と日々(エルガ・カイ・ヘメライ)』のなかで、鷲(わし)とうぐいすの物語にたとえて、強い者が弱い者をいじめ、力が正義のように見えることを強く怒り、裁判の不正に強い怒りを向けている。
ヘシオドスの歌ったのは、アテネより北のボイオティアの農民の生活だが、貴族が勝手に不正な裁判をするのはアテネでも同じことだった。
そのうえそのころは、文字に書いた法文はなく、慣習法が行なわれていた。
法律が文字にはっきり書かれていないので、そのあいまいさを利用して、貴族はこれが慣習だと勝手な判決をし、一度そういう判決が行なわれると、それは慣習になってしまい、貴族にはしだいに有利に、平民にはしだいに不利になる傾向があった。
民衆の不満はしたがって裁判に集中した。
貴族と民衆の争いは絶えず、民衆の不満はますます強まるばかりだったので、アテネではドラコンが紀元前六二一年に、とうとう成文法を作ることになった。
このドラコンの法律はたいへんきびしい法律で、たいていのことが死刑になることになっていた。
そのため「血で書かれた」といわれたほどだった。
また貴族に有利で、今までよりも民衆に特別に有利になったような規則があったわけではなかった。
しかしとにかく書かれた法文ができたので、あいまいさを利用して、むやみなことはしにくくなった。
一応成文はできたが、これでアテネの政治・経済状態が改善されたわけではなかった。
土地は少数の貴族の手にしだいに集中した。
これに対して民衆は貧しくなり、彼らのなかには土地を失い、さらに自分のからだを抵当にして借りた負債のために自由を失って、奴隷になってしまう者も多かった。
こういう傾向は強まるばかりだった。
こういう状態だったから、貴族と民衆とのあいだには争いが絶えなかった。
その争いを調停するために出てきたのがソロンだった。
ソロンはたいへん賢い人だとされており、とくに金持ちでも貧乏人でもなかった。
そのため彼に調停をまかせても、金持ちにばかり有利になるように事をきめたり、貧乏人にばかり味方することもないだろうと思われた。
そのため紀元前五九四年に富裕者からも、貧者からも支持されて調停者として選ばれた。
彼は調停者になると、まず、あらゆる借金を棒引きにしてしまった。
これは「重荷おろし(セイサクティア)」とよばれた。
この情報をいちはやく知った人々がいて、あちこちでたくさんの借金をし、金もうけしたという。
ソロン自身もそれをやったという噂もあったらしい。
つぎに彼は借金が返せないために奴隷になっていた人々をみな解放し、もとの自由人に返した。
そのなかにはずっと前に外国に売られていたために、自由になって帰って来ても、アテネの言葉がしゃべれない者までいたという。
彼はまた人々を、その財産収入の額によって四級に分け、財産収入の多い人ほど政権に多くあずかれるようにした。
しかし最下級の「テーテス」とよばれた無産者でも、民会に出席し、裁判に参与することができた。
この制度で、貴族の家に生まれても、財産収入のない者はあらゆる政治に参与することができるわけではなくなった。
それに反して平民でも収入の多い者は、重要な政治にも参与できるようになった。
そのためこの制度を「金権者政治」とか、「富裕者政治」などとよぶ人もある。
ソロンはこのほか貨幣や度量衡(どりょうこう)制度も改め、ドラコンの法律を殺人に関するもの以外はやめ、新しい法律を作った。
ソロンの新しい法律はその後ずっと長いあいだ、アテネの国法となった。
彼はこのように諸改革を行なったが、金持ちは貸し金がゼロになってしまったことでソロンを恨み、貧民は土地を再分配してもらえると思っていたのに、土地はもらえず不満だった。
これらの不満にうかがえるように、ソロンの改革はアテネの社会の矛盾を徹底的に改革するものではなかった。
そのため、貧富の争いはなおやまず、彼らはそれぞれ党派を作って争いつづけた。
こうした党派争いのあいだから、ペイシストラトスは親衛隊を率いて、紀元前五六一年アクロポリスを占領して僣主(タイラント)になった。
彼はタイラントで、非合法的に権力を握った独裁的支配者だったが、けっして暴君ではなかった。
彼の時代にはむしろよい政治が行なわれ、アテネの商業や工業が盛んになり、美術・文学その他の文化も起こったことは、前に書いたとおりである。
しかしペイシストラトスの死後(紀元前五二七年)、彼の息子のヒッピアスがタイラントになってからは、しだいに暴政になった。
人々はヒッピアスを倒そうとしたがなかなか成功しなかった。
しかしスパルタの力を借りて、紀元前五一〇年にとうとうヒッピアスを国外に追放することができた。
ヒッピアスの追放後、アテネはごたごたしたが、紀元前五〇八年に、クレイステネスが改革を行なって、アテネの民主化をすすめた。
彼は古い氏族制的な区分「部族(ピユレー)」を改めて、新しく政治的、軍事的な区分にした。
これによって、貴族たちの権力のもとはなくなり、民主化はすすんだ。
貴族にかわって、ソロンが財産収入で四級に分けたなかの第三級の「農民(ゼウギタイ)」級の人々が、政治的に重要な役割をするようになった。
彼らは胸甲や丸楯などの重武装を自弁できるほどの収入のある人々だった。
ペルシア軍が攻めて来たときに、マラトンで勇敢に戦って勝利を得たのは、この重装歩兵(ホプリタイ)たちで、彼らの密集戦術が、ペルシアの騎兵たちを打ち負かしたのだった。
マラトンの勝利で、アテネ人は自分たちの政治体制に自信を持った。
何十倍という敵の大軍を、わずか一万人の重装歩兵で、独力で破ることができたのは、「自分たちの民主政のおかげだったのだ。
もし負ければ自分たちはこの自由を失って、ペルシア人王の奴隷になってしまうのだ」と考えて必死になって戦ったのだが、もともと大王の奴隷のようなペルシア兵には、失う自由がないのだから、彼らは勝っても負けてもよいという気持ちで戦ったから敗けたのだ。
こんなふうにアテネ人は考えた。
そしてマラトンの戦勝後は、重装歩兵の階層の人々の政治的発言力が強くなった。
つぎのサラミスの海戦の勝利は、アテネの民主化をいっそう強めることになった。
ギリシアでは参戦するときには、武器を自分で買いととのえねばならなかった。
国で支給してくれるわけではなかった。したがって武器を買う力のない人は、戦争に行くことができなかった。
戦争に行くことができない人は、政治上の発言力を持つこともできなかった。
しかし軍艦を漕ぐことは、力さえあればよかった。
よろいなどをつけて乗船することは、むしろ重くてじゃまだった。
したがって武器を買えないような「無産者(サーテス)」でも水夫になって、海戦に参加することはできた。
アテネは、その無産者たちが乗り組んで戦ったサラミスの海戦に勝ち、ペルシアとの戦争に勝つことができた。
自分たちの力が祖国の国難を救ったのだという自信を無産者たちは持ち、彼らは政治に参与することを要求するようになった。
こうしてアテネの民主化は、ペルシア戦争の勝利とともに、無産者にまで徹底していくことになった。
徹底した民主政では、民会(エクレシア)が最高・最終の議決機関になった。アテネの民会は、市民ならみな出席することができた。
当時のアテネ市民の数は三万人といわれるが、三万人全部が出席することは、ほとんどなかった。
六千人出席すれば、定足数だったが、それも集まらないことがよくあったので、出席者には日当を出すようになった。
しかし、とにかく六千人でもたいへんな数である。
大きな美しい声で上手(じょうず)にしゃべることが大切になってきたわけである。
雄弁の先生のソフィストに、高い授業料を払ってでも、弁論術を学ぼうとしたのは、そのためだった。
民会で民衆の心をとらえることができれば、自分の思うように国の政治をうごかすことは容易だった。
5 アテネの民主政とソフィスト(賢者)―ソクラテス―
3 アテネの民主化
アテネの国ができたころは、王政だった。
そして伝説に近いが、アイゲウスやテセウスなどの王の名が伝わっている。
王政はやがて、貴族たちの政治にとってかわられた。
貴族たちは政治の権を、自分たちだけで独占したばかりでなく、裁判権も彼らだけが持っていた。
このため貴族と一般の人々とのあいだに争いが起こると、貴族たちは自分たちに有利なように裁判を勝手にとりしきった。
平民たちはこのことに強い不満を持っていた。
ヘシオドスという叙事詩人が、彼の作品『仕事と日々(エルガ・カイ・ヘメライ)』のなかで、鷲(わし)とうぐいすの物語にたとえて、強い者が弱い者をいじめ、力が正義のように見えることを強く怒り、裁判の不正に強い怒りを向けている。
ヘシオドスの歌ったのは、アテネより北のボイオティアの農民の生活だが、貴族が勝手に不正な裁判をするのはアテネでも同じことだった。
そのうえそのころは、文字に書いた法文はなく、慣習法が行なわれていた。
法律が文字にはっきり書かれていないので、そのあいまいさを利用して、貴族はこれが慣習だと勝手な判決をし、一度そういう判決が行なわれると、それは慣習になってしまい、貴族にはしだいに有利に、平民にはしだいに不利になる傾向があった。
民衆の不満はしたがって裁判に集中した。
貴族と民衆の争いは絶えず、民衆の不満はますます強まるばかりだったので、アテネではドラコンが紀元前六二一年に、とうとう成文法を作ることになった。
このドラコンの法律はたいへんきびしい法律で、たいていのことが死刑になることになっていた。
そのため「血で書かれた」といわれたほどだった。
また貴族に有利で、今までよりも民衆に特別に有利になったような規則があったわけではなかった。
しかしとにかく書かれた法文ができたので、あいまいさを利用して、むやみなことはしにくくなった。
一応成文はできたが、これでアテネの政治・経済状態が改善されたわけではなかった。
土地は少数の貴族の手にしだいに集中した。
これに対して民衆は貧しくなり、彼らのなかには土地を失い、さらに自分のからだを抵当にして借りた負債のために自由を失って、奴隷になってしまう者も多かった。
こういう傾向は強まるばかりだった。
こういう状態だったから、貴族と民衆とのあいだには争いが絶えなかった。
その争いを調停するために出てきたのがソロンだった。
ソロンはたいへん賢い人だとされており、とくに金持ちでも貧乏人でもなかった。
そのため彼に調停をまかせても、金持ちにばかり有利になるように事をきめたり、貧乏人にばかり味方することもないだろうと思われた。
そのため紀元前五九四年に富裕者からも、貧者からも支持されて調停者として選ばれた。
彼は調停者になると、まず、あらゆる借金を棒引きにしてしまった。
これは「重荷おろし(セイサクティア)」とよばれた。
この情報をいちはやく知った人々がいて、あちこちでたくさんの借金をし、金もうけしたという。
ソロン自身もそれをやったという噂もあったらしい。
つぎに彼は借金が返せないために奴隷になっていた人々をみな解放し、もとの自由人に返した。
そのなかにはずっと前に外国に売られていたために、自由になって帰って来ても、アテネの言葉がしゃべれない者までいたという。
彼はまた人々を、その財産収入の額によって四級に分け、財産収入の多い人ほど政権に多くあずかれるようにした。
しかし最下級の「テーテス」とよばれた無産者でも、民会に出席し、裁判に参与することができた。
この制度で、貴族の家に生まれても、財産収入のない者はあらゆる政治に参与することができるわけではなくなった。
それに反して平民でも収入の多い者は、重要な政治にも参与できるようになった。
そのためこの制度を「金権者政治」とか、「富裕者政治」などとよぶ人もある。
ソロンはこのほか貨幣や度量衡(どりょうこう)制度も改め、ドラコンの法律を殺人に関するもの以外はやめ、新しい法律を作った。
ソロンの新しい法律はその後ずっと長いあいだ、アテネの国法となった。
彼はこのように諸改革を行なったが、金持ちは貸し金がゼロになってしまったことでソロンを恨み、貧民は土地を再分配してもらえると思っていたのに、土地はもらえず不満だった。
これらの不満にうかがえるように、ソロンの改革はアテネの社会の矛盾を徹底的に改革するものではなかった。
そのため、貧富の争いはなおやまず、彼らはそれぞれ党派を作って争いつづけた。
こうした党派争いのあいだから、ペイシストラトスは親衛隊を率いて、紀元前五六一年アクロポリスを占領して僣主(タイラント)になった。
彼はタイラントで、非合法的に権力を握った独裁的支配者だったが、けっして暴君ではなかった。
彼の時代にはむしろよい政治が行なわれ、アテネの商業や工業が盛んになり、美術・文学その他の文化も起こったことは、前に書いたとおりである。
しかしペイシストラトスの死後(紀元前五二七年)、彼の息子のヒッピアスがタイラントになってからは、しだいに暴政になった。
人々はヒッピアスを倒そうとしたがなかなか成功しなかった。
しかしスパルタの力を借りて、紀元前五一〇年にとうとうヒッピアスを国外に追放することができた。
ヒッピアスの追放後、アテネはごたごたしたが、紀元前五〇八年に、クレイステネスが改革を行なって、アテネの民主化をすすめた。
彼は古い氏族制的な区分「部族(ピユレー)」を改めて、新しく政治的、軍事的な区分にした。
これによって、貴族たちの権力のもとはなくなり、民主化はすすんだ。
貴族にかわって、ソロンが財産収入で四級に分けたなかの第三級の「農民(ゼウギタイ)」級の人々が、政治的に重要な役割をするようになった。
彼らは胸甲や丸楯などの重武装を自弁できるほどの収入のある人々だった。
ペルシア軍が攻めて来たときに、マラトンで勇敢に戦って勝利を得たのは、この重装歩兵(ホプリタイ)たちで、彼らの密集戦術が、ペルシアの騎兵たちを打ち負かしたのだった。
マラトンの勝利で、アテネ人は自分たちの政治体制に自信を持った。
何十倍という敵の大軍を、わずか一万人の重装歩兵で、独力で破ることができたのは、「自分たちの民主政のおかげだったのだ。
もし負ければ自分たちはこの自由を失って、ペルシア人王の奴隷になってしまうのだ」と考えて必死になって戦ったのだが、もともと大王の奴隷のようなペルシア兵には、失う自由がないのだから、彼らは勝っても負けてもよいという気持ちで戦ったから敗けたのだ。
こんなふうにアテネ人は考えた。
そしてマラトンの戦勝後は、重装歩兵の階層の人々の政治的発言力が強くなった。
つぎのサラミスの海戦の勝利は、アテネの民主化をいっそう強めることになった。
ギリシアでは参戦するときには、武器を自分で買いととのえねばならなかった。
国で支給してくれるわけではなかった。したがって武器を買う力のない人は、戦争に行くことができなかった。
戦争に行くことができない人は、政治上の発言力を持つこともできなかった。
しかし軍艦を漕ぐことは、力さえあればよかった。
よろいなどをつけて乗船することは、むしろ重くてじゃまだった。
したがって武器を買えないような「無産者(サーテス)」でも水夫になって、海戦に参加することはできた。
アテネは、その無産者たちが乗り組んで戦ったサラミスの海戦に勝ち、ペルシアとの戦争に勝つことができた。
自分たちの力が祖国の国難を救ったのだという自信を無産者たちは持ち、彼らは政治に参与することを要求するようになった。
こうしてアテネの民主化は、ペルシア戦争の勝利とともに、無産者にまで徹底していくことになった。
徹底した民主政では、民会(エクレシア)が最高・最終の議決機関になった。アテネの民会は、市民ならみな出席することができた。
当時のアテネ市民の数は三万人といわれるが、三万人全部が出席することは、ほとんどなかった。
六千人出席すれば、定足数だったが、それも集まらないことがよくあったので、出席者には日当を出すようになった。
しかし、とにかく六千人でもたいへんな数である。
大きな美しい声で上手(じょうず)にしゃべることが大切になってきたわけである。
雄弁の先生のソフィストに、高い授業料を払ってでも、弁論術を学ぼうとしたのは、そのためだった。
民会で民衆の心をとらえることができれば、自分の思うように国の政治をうごかすことは容易だった。