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5-5-1 カノッサの屈辱

2023-04-23 01:08:09 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
5 ドイツ国王のカノッサの屈辱
1 カノッサにて

 一〇七六年十月、ドイツ諸侯は、マインツの南トリプールに集まった。
 国王ハインリヒ四世が、この年の二月、教皇グレゴリウス七世によって破門されたので、これにどう対処したらよいかを相談するためである。
 この国王破門は、その前月、ハインリヒ四世がウォルムスに諸候を集めて国会(封建諸候会議)を開き、教皇の廃位を決議させたことに対する教皇の反撃であった。
 教皇は、国王ハインリヒを破門することによって、ハインリヒに臣従するものたちの、つまりドイツ諸侯の、国王ハインリヒに対する誠実の義務を解除したのである。
 したがってハインリヒに忠誠を誓うものは、教皇に対し弓をひくことになる。
 ウォルムスの国会では国王を支持した諸侯も、こういうことになっては、慎重に行動せざるをえない。世俗の諸侯にしても破門された国王をたてているわけにはいかない。ましてや聖職諸侯(司教や修道院長)の場合には、教皇にそむくことは、汎 ヨーロッバ的な教会組織から除外されることを意味する。
 かくて情勢は急変した。トリプールの会議は、国王廃位を決議した。
 ただし、もし翌年二月までに破門の免赦をうけることができるならば、この決議は無効となる。
 できなかった場合には、二月二日に、教皇が主催してアウクスブルクで開かれる国会において、ハインリヒは位を追われることになろう、と。
 ハインリヒは窮地に立った。やむなく、彼はウォルムス国会での決議を撒回し、アウクスブルク国会での教皇の裁きに従おうと宣言した。
 だが、彼は、この場合でも先手をうつことを上策とみた。
 翌年二月まで待つよりは、むしろ進んで教皇との和解をはかり、ドイツ諸侯に対する統制権を回復しようとしたのである。
 一〇七六年の冬も深まったクリスマスの数日前、王妃、王子をともない、数人の従者をひきつれただけのハインリヒ四世国王の一行は、ライン川中流のシュバイエルをあとに、ひそかにイタリアに向かった。途中、ブルグント王国のブザンソンでクリスマスを祝い、護衛の一隊をととのえて、一行は厳冬のアルプスのモン・スニ峠を越えた。
 モン・スニ峠越えは、遠まわりの道であったが、ほかの峠道はすべて教皇派諸候におさえられていて、妨害をうけることが予想されたからだった。
 この年の冬は異常に寒く、ライン川はもとより、アルプスの南のポー川までが凍りついた、と年代記は証言している。
 その厳冬のアルプス越えである。ロンバルディア平野にはいったハインリヒに陽光がまぶしかった。この地には反教皇派の勢力が強く、ハインリヒにつきしたがう軍勢の数はしだいに増え、やがて一行は、遠征軍と称してもおかしくはないほどの規模にまでふくれあがった。
 すでにアウクスブルクに向かうためにローマをたち、北上中であった教皇グレゴリウスは、ロンバルディアの反教皇勢力に阻止されることをおそれて、トスカナの女伯マティルダの持ち城、アペニン山脈北端の要害カノッサ城にはいり、ドイツからの護衛隊の到着を侍っていた。

 トスカナ伯領は、北イタリアを支配していたフランク王国のカロリング王家が、はやくも九世紀の末に消滅してしまったのちの混乱期に、マティルダの曾祖父にあたるアットー・アダルベルトが、カノッサ城を拠点に形成した支配領域にはじまる。
 一〇二七年にはマティルダの父ボニファティヨが、ドイツ国王(皇帝)コンラート二世によってトスカナ辺境伯に授封された。
 そして東のベロナ辺境伯領とともに、トスカナ伯領は、ドイツ皇帝権のおよぶアルプス以南の地域の南の辺境を構成することになった。
 このころには、トスカナ伯領は、狭義のトスカナを越えて、北のマンツーア、フェラーラまでも含んでいた。
 だが、ボニファティヨは、上ロートリンゲン(ロレーヌ)候の娘と結婚したため、ドイツ国王ハインリヒ三世と対立する立場に立つようになり、一〇五二年に暗殺された。
 トスカナ伯領は、一時彼の妻にうけつがれたのち、一〇七六年にその娘マティルダに渡された。
 こんないきさつから、マティルダは、ハインリヒ四世に好意をもたず、教皇と親しい関係にあった。
 だが、彼女は、カノッサに到着したハインリヒ四世が教皇への接見を懇願し、教皇のかたくなな拒否にあったとき、ハインリヒの義理の母にあたるサボワの女伯アデライード、クリュニー修道院長ユーグとともに、ハインリヒのために教皇にとりなすこともしたのだった。
 アペニン山脈が大きく西に湾曲するところ、東南にひらけるゆるやかな谷の上部に、カノッサの岩山はそびえている。
 北をみれば、足下にひろがるロンバルディア平野をへだてて、アルプスの連山が、遠く銀色に輝いている。
 岩山の頂上平地の東南端をすこしくだったところに、マティルダ女伯のカノッサ城の遺跡が、わずかに残っている。
 これは城の楼門にあたる部分で、この楼門と城壁と、そして頂上平地直下の岩壁とにかこまれた中庭状のスペースをみとめることができる。


 伝えによれば、ついに譲歩した教皇は、ハインリヒに対し、悔悛(かいしゅん)の実を示すことをもとめた。
 カノッサの岩山には雪がふりつもっていた。
 ただひとり三重の城門の第二門のなかにはいることを許されたハインリヒは、無帽、裸足、粗毛の修道衣を身にまとって、三日間、雪の上に立ちつくし、教皇の許しを乞いもとめたという。
 いまに残る中庭状のスペースこそ、じつにハインリヒが立った場所ではなかったかと推測する歴史家もいる。
 ほんとうにハインリヒは三日問、雪中に立ちつくしたのだろうか。これはもちろん疑問である。
 だが肝心なことは、そのように当時この事件がうわさされ、後世に伝えられたということである。
 ドイツ皇帝が教皇に屈服し、ひじょうな屈辱を耐えしのんだと、人々はみたのである。
 だからこそ、この事件を「カノッサの屈辱」という。
 教皇グレゴリウスは、ハインリヒに接見を許し、ドイツ諸侯との争いの解決を教皇の裁定にゆだねることを条件に破門をといた。
 もはやハインリヒは、破門された王ではない。ドイツの反国王派諸侯は、ハインリヒの王位を否認する根拠を失った。
 彼は、ひじょうな屈辱を耐えることによって、不利を有利にきりかえることができた。
 とすれば、真のの勝利者は、じつはハインリヒであったのだろうか。
 しかし、ことはそれほど単純ではない。
 「カノッサの屈辱」にいたるまでの事件の経過を、以下にみることにしよう。




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