聖ヴィト、聖モデスト、聖女クレスチェンチア三殉教者 記念日6月15日
Sts.Vitus, Modestus et Crescentia MM.
聖ヴィト、その乳母クレスチャンチア及びその夫聖モデストに就いては、歴史に伝えられる所甚だ少ないが、彼等に対する崇敬は中世紀から相当盛んに行われたもので、わけても聖少年聖ヴィトは14人の救難聖人中に数えられ、また聖会の諸殉教者の中でも、最も主要な一人と仰がれている。
彼等は4世紀の末、すなわちディオクレチアノ皇帝がキリスト教徒に対しローマ帝国最終の迫害を行った頃の人で、ヴィトの生まれ故郷はシシリー島であった。彼の父はヒラスと呼び、偶像教を奉じていたが、乳母のクレスチェンチアとその夫モデストは熱心なキリスト教信者で、いかにも親切柔和な正しい人々であったから、ヴィトは子供心にも深く感じ入り、自ら望んで彼等の手から密かに聖い洗礼の秘蹟を授かったのである。
その後ヴィトは乳母夫婦と心を合わせて、熱心に聖教を守ったが、山の上に建てられた街は隠れる事あたわず、その心がけや行いの目立って殊勝になった所から、遂に息子がキリスト教の信仰に入った事を嗅ぎつけたヒラスは、烈火の如く怒って是非とも祖先の宗教に帰らそうと、ある時は威嚇し、ある時はすかし、またある時は懲らしめるなどと、手をかえ品をかえて棄教を迫った。しかし一度かくしゃくたる真理の光に照らされた以上は、とても暗澹たる異教の闇に帰れる訳のものではない。で、ヴィトが情理を尽くして棄教の不可能な所以を述べると、父は益々腹を立て、「親に口答えをする憎い奴め、そういう不埒な了見ならもう親でもない、子でもない」と、我が子を邪宗徒として官憲に訴え出た。
そこでヴィトは白州に引かれて、法官ヴァレリアノからいろいろ訓戒されたり鞭打たれたりしたが、どうしても心を翻さぬ、仕方なく再び父の許に下げ渡された。
ヒラスは官憲の威光でも息子を改心させる事が出来なかったのに一方ならず当てが外れたものの、この上は女色によって世の快楽の味を知らしめたらやかましいキリスト教を厭うに至ろうと、わざと妖艶な若い女などをその側に近づけたりした。しかしもとよりそうした誘惑に乗るようなヴィトではない、ヒラスの奸計は又も水泡に帰したけれど、ヴィトは父の家にあってはこの先もどれほど霊魂に危険な事があるか解らないと思い、遂に乳母夫婦とも相談の上、共に家出する事を決意し、船で大陸に向かい、イタリアの南部、今のサレルノ湾のあたりに上陸したのである。
さて3人はしばらくの間そこで人目を忍びつつ静かに麗しいキリスト教的生活を送っていたが、やがて周囲の偶像教徒等に訴えられ、再び法廷に引かれる身となった。ヴィトが天主に祈ると、さまざまな奇跡が行われ、ディオクレチアノ皇帝の皇子の病気も彼のおかげで全快したと伝えられているが、それでも法官は厳しく彼等に棄教を迫り、これを拒むと先ず熔けた鉛と油とチャンとのぐらぐら沸き立つ大釜に3人を投じ残酷にも煮殺そうとした所が彼等は天主の御保護により何等の苦痛も覚えず全く無事であったので法官は躍起となり、今度は猛獣の餌食にしようとしたが、これまた獣が飛びかからず猫のように身をすりつける始末に、呆れて最後に手ひどい拷問に処し、ようやくその生命を奪った。時は西暦303年か4年の事と推定されている。ヴィトの享年わずかに15歳。
聖ヴィトの聖絵は大抵シュロの枝を手に持って天を仰ぎ見ている所が、あるいは釜の中にあって天使に守られている所かを描くのが常である。そのうち前者は彼が殉教の勝利を得た事を意味し、後者は釜ゆでの刑にあってしかも無事なるを得たかの奇跡の伝説に由来している事は、ここに改めていうまでもない。
教訓
聖ヴィト及び聖なるその乳母夫妻の場合に見る如く、殉教者がさまざまの責め苦拷問の間に、一向苦痛を感ぜず、或いは甘美な慰めをさえ与えられる事は、古来その例が少なくない。その上聖書にはこれを説明する如く「汝等にかかる試練は人の常なるもののみ。天主は真実にて在せば、汝等の力以上に試みらるる事を許し給わず、却って堪えうる事を得させん為に、試練と共に勝つべき方法をも賜うべし」(コリント前書 10・13)と記されている。されば我等も如何なる試練が我が上に来るとも、いたずらに懼れる事なく、天主に対する厚い信頼を以て確固として立たねばならぬ。
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Sts.Vitus, Modestus et Crescentia MM.
聖ヴィト、その乳母クレスチャンチア及びその夫聖モデストに就いては、歴史に伝えられる所甚だ少ないが、彼等に対する崇敬は中世紀から相当盛んに行われたもので、わけても聖少年聖ヴィトは14人の救難聖人中に数えられ、また聖会の諸殉教者の中でも、最も主要な一人と仰がれている。
彼等は4世紀の末、すなわちディオクレチアノ皇帝がキリスト教徒に対しローマ帝国最終の迫害を行った頃の人で、ヴィトの生まれ故郷はシシリー島であった。彼の父はヒラスと呼び、偶像教を奉じていたが、乳母のクレスチェンチアとその夫モデストは熱心なキリスト教信者で、いかにも親切柔和な正しい人々であったから、ヴィトは子供心にも深く感じ入り、自ら望んで彼等の手から密かに聖い洗礼の秘蹟を授かったのである。
その後ヴィトは乳母夫婦と心を合わせて、熱心に聖教を守ったが、山の上に建てられた街は隠れる事あたわず、その心がけや行いの目立って殊勝になった所から、遂に息子がキリスト教の信仰に入った事を嗅ぎつけたヒラスは、烈火の如く怒って是非とも祖先の宗教に帰らそうと、ある時は威嚇し、ある時はすかし、またある時は懲らしめるなどと、手をかえ品をかえて棄教を迫った。しかし一度かくしゃくたる真理の光に照らされた以上は、とても暗澹たる異教の闇に帰れる訳のものではない。で、ヴィトが情理を尽くして棄教の不可能な所以を述べると、父は益々腹を立て、「親に口答えをする憎い奴め、そういう不埒な了見ならもう親でもない、子でもない」と、我が子を邪宗徒として官憲に訴え出た。
そこでヴィトは白州に引かれて、法官ヴァレリアノからいろいろ訓戒されたり鞭打たれたりしたが、どうしても心を翻さぬ、仕方なく再び父の許に下げ渡された。
ヒラスは官憲の威光でも息子を改心させる事が出来なかったのに一方ならず当てが外れたものの、この上は女色によって世の快楽の味を知らしめたらやかましいキリスト教を厭うに至ろうと、わざと妖艶な若い女などをその側に近づけたりした。しかしもとよりそうした誘惑に乗るようなヴィトではない、ヒラスの奸計は又も水泡に帰したけれど、ヴィトは父の家にあってはこの先もどれほど霊魂に危険な事があるか解らないと思い、遂に乳母夫婦とも相談の上、共に家出する事を決意し、船で大陸に向かい、イタリアの南部、今のサレルノ湾のあたりに上陸したのである。
さて3人はしばらくの間そこで人目を忍びつつ静かに麗しいキリスト教的生活を送っていたが、やがて周囲の偶像教徒等に訴えられ、再び法廷に引かれる身となった。ヴィトが天主に祈ると、さまざまな奇跡が行われ、ディオクレチアノ皇帝の皇子の病気も彼のおかげで全快したと伝えられているが、それでも法官は厳しく彼等に棄教を迫り、これを拒むと先ず熔けた鉛と油とチャンとのぐらぐら沸き立つ大釜に3人を投じ残酷にも煮殺そうとした所が彼等は天主の御保護により何等の苦痛も覚えず全く無事であったので法官は躍起となり、今度は猛獣の餌食にしようとしたが、これまた獣が飛びかからず猫のように身をすりつける始末に、呆れて最後に手ひどい拷問に処し、ようやくその生命を奪った。時は西暦303年か4年の事と推定されている。ヴィトの享年わずかに15歳。
聖ヴィトの聖絵は大抵シュロの枝を手に持って天を仰ぎ見ている所が、あるいは釜の中にあって天使に守られている所かを描くのが常である。そのうち前者は彼が殉教の勝利を得た事を意味し、後者は釜ゆでの刑にあってしかも無事なるを得たかの奇跡の伝説に由来している事は、ここに改めていうまでもない。
教訓
聖ヴィト及び聖なるその乳母夫妻の場合に見る如く、殉教者がさまざまの責め苦拷問の間に、一向苦痛を感ぜず、或いは甘美な慰めをさえ与えられる事は、古来その例が少なくない。その上聖書にはこれを説明する如く「汝等にかかる試練は人の常なるもののみ。天主は真実にて在せば、汝等の力以上に試みらるる事を許し給わず、却って堪えうる事を得させん為に、試練と共に勝つべき方法をも賜うべし」(コリント前書 10・13)と記されている。されば我等も如何なる試練が我が上に来るとも、いたずらに懼れる事なく、天主に対する厚い信頼を以て確固として立たねばならぬ。
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