『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
2 武人の天下
1 分裂の時代
朱合忠が唐の天下をうばって「後梁」を建国したころ、各地にいた節度使のうちで強大なものは、それぞれ自立の道をあゆんでいた。
節度使の数はたくさんあったが、強いものは弱いものをほろぼしたり、あるいは服従させたりして、その支配する領域をひろげていたのである。
だから節度使のなかには、主君となったものもいれば、その家臣となったものもいた。
朱全忠にしてもそうしたものの一つにすぎなかった。
さて朱全忠が皇帝を称すると、各地の強大な節度使は、これに臣従しようとはしない。
各々独立の政権をつくりあげた。
汴(べん)州(開封)に都をおいた朱全忠の支配も、せいぜい黄河の中流から下流域までにしか及ばない。
領域をひろげようとして、隣接する独立の政権とたたかっては敗れるありさまであった。
そこで朱全忠は言った。
「わが部下は、どいつもこいつも豚や犬どもだ。」
この言葉とて、勢力をひろげようとしては厚い壁につきあたり、部下になげつけた憤懣(ふんまん)のあらわれであった。
中国は、またも分裂の時代へはいったのである。
竜あらそい虎だたかうこと、幾春秋
五代の 梁 唐 晋 漢 周、
興廃は風燈明滅のうち、
君かわり国かわること、伝郵のごとし
のち(宋代)の講談師は、半世紀にあまる分裂を、このように表現した。
ここにいわれるように、その間における王朝の興亡は、まことに目まぐるしいものがあった。
いわゆる中原だけをみても、朱全忠の後梁にはじまって、後唐、後晋、後漢、後周と、五つの王朝が興亡する。
しかも五つの王朝に十三人の皇帝が立ったうち、その地位にあったまま生涯をまっとうした者は、わずか五人にすぎない。
そのほかの皇帝は、あるいは殺され、あるいは敗死し、あるいは力ずくで譲位させられる、というありさまであった。
各地の節度使も次々に自立し、あるいは王を、あるいは皇帝を袮する。唐朝がつづいていた限りは、さすがに皇帝と袮することは遠慮していたものの、朱全忠のような男が皇帝になったのであるから、もはや誰はばかる必要もない。
朱全忠につづいて、蜀(しょく=四川)の王建が皇帝を袮した。この国が、いわゆる前蜀である。
この地方は古くから唐室と関係がふかかった。
安録山(あんろくさん)の乱のときには玄宗が、黄巣の乱のときには僖宗が、この地におもむいた。
王建も、はじめは唐朝を復興しようとして、各地の勢力によびかけた。
しかし、だれも応じないので、自立したものである。
そもそも蜀の地は、きわめて物質がゆたかであった。
その都たる成都の住民のなかには、自分たちの食べる米が、稲からとれるということを知らない者もいたという。
それほどまでに成都では、農村と隔絶された都市生活がいとなまれていたのであった。
王建が建てた前蜀は、その二代目のとき、中原の後唐(こうとう)にほろばされる。
豊かな物質と、めずらしい特産に目をつけられたためであった。
やがて同じ地には、後蜀が建てられた。
そして前蜀と後蜀の両朝をつうじて、印刷術が発達し、成都は書物の出版の中心となっていた。
さて蜀の東北では、鳳翔(ほうしょう)によって李茂貞(りもてい)が立つ。
蜀から長江をくだれば、馬殷(ばいん)が「楚(そ)」国を、楊行密か「呉」国を、また銭鏐(せんりゅう)が「呉越」国を、玉審知が「閔(びん)」国を建てた。
いずれも強大な節度使が、それぞれ自立したものである。
なお「呉」国は、のちに王位を徐氏にうばわれて「南唐」となる。
南方の王朝としては、もっとも強力であった。
塩も、茶も、主産地は南方であった。
製塩は、呉越と呉(のち南唐)で、さかんである。
北方にも塩池はあったが、どうしても不足がちであったから、中原の王朝は、これらの国から買い入れねばならなかった。
茶も同様であり、とくに南唐には、官営の製茶場が三十八ヵ所もあったという。
世に「五代十国」というが、中原の王朝のほかに十国が独立したのも、それぞれ基盤があったわけである。
2 武人の天下
1 分裂の時代
朱合忠が唐の天下をうばって「後梁」を建国したころ、各地にいた節度使のうちで強大なものは、それぞれ自立の道をあゆんでいた。
節度使の数はたくさんあったが、強いものは弱いものをほろぼしたり、あるいは服従させたりして、その支配する領域をひろげていたのである。
だから節度使のなかには、主君となったものもいれば、その家臣となったものもいた。
朱全忠にしてもそうしたものの一つにすぎなかった。
さて朱全忠が皇帝を称すると、各地の強大な節度使は、これに臣従しようとはしない。
各々独立の政権をつくりあげた。
汴(べん)州(開封)に都をおいた朱全忠の支配も、せいぜい黄河の中流から下流域までにしか及ばない。
領域をひろげようとして、隣接する独立の政権とたたかっては敗れるありさまであった。
そこで朱全忠は言った。
「わが部下は、どいつもこいつも豚や犬どもだ。」
この言葉とて、勢力をひろげようとしては厚い壁につきあたり、部下になげつけた憤懣(ふんまん)のあらわれであった。
中国は、またも分裂の時代へはいったのである。
竜あらそい虎だたかうこと、幾春秋
五代の 梁 唐 晋 漢 周、
興廃は風燈明滅のうち、
君かわり国かわること、伝郵のごとし
のち(宋代)の講談師は、半世紀にあまる分裂を、このように表現した。
ここにいわれるように、その間における王朝の興亡は、まことに目まぐるしいものがあった。
いわゆる中原だけをみても、朱全忠の後梁にはじまって、後唐、後晋、後漢、後周と、五つの王朝が興亡する。
しかも五つの王朝に十三人の皇帝が立ったうち、その地位にあったまま生涯をまっとうした者は、わずか五人にすぎない。
そのほかの皇帝は、あるいは殺され、あるいは敗死し、あるいは力ずくで譲位させられる、というありさまであった。
各地の節度使も次々に自立し、あるいは王を、あるいは皇帝を袮する。唐朝がつづいていた限りは、さすがに皇帝と袮することは遠慮していたものの、朱全忠のような男が皇帝になったのであるから、もはや誰はばかる必要もない。
朱全忠につづいて、蜀(しょく=四川)の王建が皇帝を袮した。この国が、いわゆる前蜀である。
この地方は古くから唐室と関係がふかかった。
安録山(あんろくさん)の乱のときには玄宗が、黄巣の乱のときには僖宗が、この地におもむいた。
王建も、はじめは唐朝を復興しようとして、各地の勢力によびかけた。
しかし、だれも応じないので、自立したものである。
そもそも蜀の地は、きわめて物質がゆたかであった。
その都たる成都の住民のなかには、自分たちの食べる米が、稲からとれるということを知らない者もいたという。
それほどまでに成都では、農村と隔絶された都市生活がいとなまれていたのであった。
王建が建てた前蜀は、その二代目のとき、中原の後唐(こうとう)にほろばされる。
豊かな物質と、めずらしい特産に目をつけられたためであった。
やがて同じ地には、後蜀が建てられた。
そして前蜀と後蜀の両朝をつうじて、印刷術が発達し、成都は書物の出版の中心となっていた。
さて蜀の東北では、鳳翔(ほうしょう)によって李茂貞(りもてい)が立つ。
蜀から長江をくだれば、馬殷(ばいん)が「楚(そ)」国を、楊行密か「呉」国を、また銭鏐(せんりゅう)が「呉越」国を、玉審知が「閔(びん)」国を建てた。
いずれも強大な節度使が、それぞれ自立したものである。
なお「呉」国は、のちに王位を徐氏にうばわれて「南唐」となる。
南方の王朝としては、もっとも強力であった。
塩も、茶も、主産地は南方であった。
製塩は、呉越と呉(のち南唐)で、さかんである。
北方にも塩池はあったが、どうしても不足がちであったから、中原の王朝は、これらの国から買い入れねばならなかった。
茶も同様であり、とくに南唐には、官営の製茶場が三十八ヵ所もあったという。
世に「五代十国」というが、中原の王朝のほかに十国が独立したのも、それぞれ基盤があったわけである。