人生回顧録及び雑記

83歳・記憶の定かの内に日記風に書きとめておきたい。
また日頃勝手に感じた事を記載したい。

鉱山と定山渓鉄道の関係・・・(8)

2021-02-06 | 回顧録

父の転勤で小学校に上がる前に元山から石山の豊羽鉱山に引っ越して来ました。

その経過は良く分りませんが、一の沢選鉱場を輸送の不便から石山選鉱場に移したのではないかと思います・・・

その時期父は一の沢か? 錦橋の購買部に勤務していた記憶があります。

(当時3~4才の記憶ですから不確実もあり、ネットで調べて見ました。

元山で採掘された粗鉱石は索道で水松沢(オンコの沢)の精錬所に送られ、製品として金・銀等馬車鉄道で東札幌まで輸送されました。

錦橋から東札幌まで線路敷設の所有は日本鉱業(豊羽鉱山の親会社)で鉄道輸送は定山渓鉄道でした。

定山渓鉄道が生まれた目的の一つに豊羽鉱山の鉱石輸送かありました。

歴史的紆余曲折があり時代の移り変わりと共に豊羽鉱山は変革して行きます・・

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朝鮮労働者の 暴動(7)

2021-02-05 | 回顧録

終戦を迎えたある日の事を鮮明に覚えております・・・

坑内のよれよれの作業服を着た朝鮮強制連行坑内員が暴動!!を起こし略奪を始め、又強制労働を強いた現場監督を探しだしにヤッキになっていました。

その時には現場監督は既に逃げておりました・・・

私の家の前の畑から男3人が野菜等を取ってゆきましたが、父が売店に勤務の為朝鮮労働者には優しく扱いしていましたので影響はありませんでした。

母の対応は毅然としたもので、子供ながら恐ろしいなか頼もしく思った記憶があります・・

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元山での幼い記憶・・・B29飛来(6)

2021-02-05 | 回顧録

戦時中B29が上空に飛来しますと家の前の坂下に防空壕があり、防空警報のたびに非難しますが母親は家の窓ガラスを全部はずし、中でラジオを聴きながら様子を見ていた記憶があり子供ながらに強い母親だと感じた事があります・・・

防空壕は家から20m位下で5~6人が入れるように手掘りで作ってありました。

防空壕前から上を見上げると窓は母の顔がみえました。

子供の頃の記憶では家の前から空を見上げますと2機無意根岳方面に飛んで行きました。

 

 

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鉄索に乗った記憶があります?(5)

2021-02-04 | 回顧録

かすかな記憶ですが、一度父と元山から一の沢まで鉄索に乗った記憶があります?
鉄索は鉱石や貨物・資材を運ぶもので、人は危険性があるので乗ってはいけない事になっています・・

多分私が病気になり緊急事でどうしても利用しなければならなかった状況であったと思います。

鉄索はドラム缶を横に切った鉄のバケット形で屋根はありません?

スピードは余りありませんが強風だと横揺れがしますので安定感がありません、

移動で各鉄柱を通過するたびに、「ガタン!ガタン!」と揺れ恐ろしかった事を覚えております。

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山奥の社宅に住んでいました・・・(4)

2021-02-04 | 回顧録

小さい頃ですので状況が分かりませんが

記憶では札幌山奥の豊羽鉱山元山採掘場に引越をし、二軒社宅に入った記憶があります。

山間の土地なので平地が少なく、社宅は数軒傾斜地に建てられていました。

冬は降雪が多く家の屋根まで積雪し、隣の家に行くのにトンネルでつなぎ友達と遊んだ記憶があります・・・
隣との通路はで昼には光が差し込みそれは綺麗でありました。
父が出勤する時二階の窓から出て電線をまたいで行った事をうっすらと覚えています。

鉱山の裏山は無意根岳と呼ばれ熊の棲家でした・・・

炭鉱夫の中に熊撃ち名人がおり熊の肉をお裾分け頂きました。

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豊羽鉱山元山採掘場・・(3)

2021-02-03 | 回顧録

父は炭鉱夫ではありませんので鉱山の福利厚生課で一般鉱員が日常生活する為に必要な物資(飲食・衣服)の購買売店の責任者でした。

山奥から町までの買い物は交通機関もありません?又1.5時間位かかります。

鉱石は銅・銀・亜鉛等が多く採掘場は無異根山地下数十メートルをトロッコ運搬車で下がり採掘しますが、高温で長い時間が働けません?

ふんどし一つで長靴は汗で一杯になります・・(中卒の友達が働いていた経験談)

当時道内の炭鉱(三井・三菱)は景気が良くここの鉱山も賃金が高く裕福でした。

小中学校もありました。

しかし坑内で働く多くの人々は朝鮮人が多く強制労働を強いられていました。

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何故に洞爺湖で?(2)

2021-02-03 | 回顧録

父は函館から出征し母はその函館の何処で父の帰りを待っていたのか?良く分かりません・・

突然私の生れが洞爺湖の向洞爺と言われる土地で生まれたのか?

そこの所が如何しても繋がりません。

今でこそ洞爺湖と云えば道内の温泉地・有珠山の噴火等で有名ですが、当時の事を考えますと道路は未開の山奥であり、向洞爺には温泉街から向かい側の小さな村で湖畔の道路は狭く、母は歩いて洞爺湖の商店街迄買い物に行った話をしてくれました。

何故父が向う洞爺に移って来たのか不明です?

今は湖畔一周が舗装道路で行き来が出来ます。

話では千歳市美笛に「 千歳鉱山」 がありました。山間へき地で鉱山から金・銀鉄鉱石採掘されトロッコで美笛まで湖畔から船で湖を横断し支笏湖湖畔迄運び王子鉄道で運搬し当時5000人程が住んで居ました。

父が千歳鉱山に勤めていたと云う事はきいた覚えがあります。

成人になってから車で千歳鉱山の跡地を探しに行きましたが、想像を超えた場所に存在していました。

廃鉱になり住民はいませんでしたが、川の流れに廃液の様子が見られました。

それから父は何故か札幌の定山渓温泉 山奥の無稲山下の「豊羽鉱山元山採掘場」に移り住みました・・

幼少の頃ですので記憶が定かではありません?

 

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生誕地・1941年

2021-02-02 | 回顧録

父親は寡黙の人で生まれた故郷や戦争当時の事は殆ど語りませんでした。

お婆ちゃんの生まれ故郷は湯河原と聞いておりますが、お祖父ちゃんと何処で知り合ったかは不明です。

父親の親族は知るところではおじいさんは函館警察署の所長をしており落馬で病状悪化し亡くなられたとの事でした。

厳格な人で制服を着た途端に子供達を寄せ付けなかったと聞いています。

亡くなった年に私が生まれて名前がおじいさんと同じ名前が付けられました・・

先祖のお墓の墓標には私の名前が彫り込んであります? 複雑な気持ちです。

お爺さんの家族は6男1女で長男は優秀な検察局の判事でした。

次男(父親)3男から5男迄は公務員です。戦中出征しましたが偶然戦死した家族はありませんでした。

全体的に固い仕事が多く私の性格もその儘続いていると思います。

生まれ故郷は戸籍謄本に依れば洞爺湖で生まれたと記載してありますが記憶にはありません?

要するに道産子と云われています。

 

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人生回顧録

2021-02-02 | 回顧録

この世に姓を受け80年・・・記憶の定かの内に日記風に書きとめておきたい。

自分が生まれ育ち、幼少の頃の思い出や学生時代・就業時代・友達の付合い・人生観など、最近の心境です・・・

子沢山で戦後母親は人一倍働き一昨年103歳の大往生で亡くなりました。

私は6人兄弟の長男で小5から出面取りで家庭を支えて来ました。

楽しかったこと・嬉しかったこと・苦しかったことの記憶をたどりblogに書き留めたいと思います。

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今年の節分は2月2日?

2021-02-01 | 回顧録

毎年節分の日は3日とばかり思っていましたが今年の節分は2月2日だそうです・・

節分の日は固定ではなく「立春の前の日」と云うルールが有るのだそうです。

節分の日が2日になるのは124年振りと云う事です。

恵方巻は少し小さめですが今日買ってきました。

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令和3年1月も漸く終わりです。

2021-01-31 | 回顧録

今年の1月は長く感じました・・気候的には私の住んで居る地区は降雪も少なく除雪でも楽をしましたが降雪がありませんと寒さが厳しくなります。

例年ですとお正月が終り1月は早く過ぎる感がしますが、コロナの為不急不要に付き外出を控えていましたので、家に閉じ籠る日が長く食しては寝が多く体調も悪くコロナ太りになりました。

2月は私の誕生日ですが一日も早くコロナが落ち着いてくれるように祈ります!

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春の選抜甲子園・・北海高 あめでとう!!

2021-01-30 | 回顧録

春一番待ち遠しいのは甲子園高校野球です。

昨年と今年は新コロナウイルスの事もあり練習は大変でしたでしょうね。

10年振り13回目の出場との事地元のファンとして喜ばしい事です。

昔昭和30年代頃の高校野球は、札幌では「北海」札商・光星高の三強でした・・

球場は中島公園内にあり良く見に行きました、応援合戦も見ものでした。

当時の監督は飛澤茂夫監督で(昭和3年~昭和42年)の38年間指導し甲子園に良き選手を送り出しました。

甲子園での飛澤監督は全国的に有名人でしたが?中々勝利には導かれませんでした。

準優勝した佐藤投手は私の社宅の長屋に住んでおり、風呂に行くと良い体で手ぬぐいを使い投げ方の練習をしていた記憶があります。

谷木・吉沢・若松等北海出身です。現役には日ハム鍵屋選手がいます。

卒業後室蘭製鉄野球部で活躍しその後プロ野球に入りましたが肩を壊し活躍出来ませんでした。

当時の北海の選手は札幌だけではなく全道から優秀な選手を数名スカウトし寄宿舎に入っていました。

時代の移り変わりと共に中島球場も解体され円山球場に変わりました。

若き思い出の記憶です・・追伸 私の高校野球部は市内でも最下位でした。

 

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ビート板が使えない?

2021-01-28 | 回顧録

水中歩行して10日目少しはお腹の張り具合が良くなってきたように勝手に思います。

歩行は毎日30分行いますが、歩行のレーンは高齢者の女性数人が話をしながら歩行していますので、中々順調には行きません?

先日からビート板の使用を自分なりに行っていますが、上手に使えずビート板の上に顔が上がらず息継ぎが出来ません・・

プールの高齢指導員の女性に教えて貰いましたが思う様にはなりません?

後期高齢者で身体の筋肉が固まり始めたのが原因でしょうか?

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川泳ぎ・・(2) 小4年頃

2021-01-28 | 回顧録

学校が終わると一目散に自宅に戻り鞄を放り投げて泳ぎに行きます。

自宅は木造平屋長屋の社宅でで6軒入り中央に石造りの流し台とトイレは共同便所です・・

夜トイレに起きると廊下は暗く気持ちが悪くなります。

2~3人の友達と田んぼのあぜ道を通り、女友達の家の麦畑を通り大川に(豊平川)着きます。

衣服は川岸の枝にかけパンツ一枚で泳ぎます。

午後の日差しはきつく蝉がうるさい程に鳴いています・・

寒い日は川岸の大きな丸い石をお腹に抱えて身体お温めますが気持ちが安らぎます。

友達が多くなると焚火をしますが川岸のトウキビ畑から数本盗み焼いて食べますが広いトウキビ畑ですので苦情はありません。

お腹が空いて帰りますが友達の麦畑から片手で麦の穂をちぎり殻を取って口に入れて噛みます?

何回も噛んでいると白いガムになります・・

今思い出すと裕福ではありませんが自然と遊び毎日がゆったりとしていた感じがします。

新コロナウイルスが一日も早く収まります様に祈っております。

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昔の子供の頃の泳ぐ場所・・

2021-01-27 | 回顧録

子供の頃は海までは遠く山川で育ちました・・

小学生の頃は学校の裏側が豊平川で校舎には室内プールはありませんでした。

校外学習の時間に先生と生徒は川に行き小さな石拾いをしました。

学校前の道路は砂利道でその横には田んぼが連なっています。小高い丘に神社があります。

校庭には二宮金次郎の銅像がありました。

春になると餓鬼大将が毎年競い合うのが「誰が一番先に大川を泳ぎきるか?」でした・・・

雪が溶けて川は濁流となって力強く流れています・・
白川沿いの高い硬石の崖下付近から上級生と私たち数名が褌ひとつで濁流に飛び込みます、川幅は14~20m位であったと思います。
流れがきつく向う岸まで着くには100~150m位下流に流されます・・命がけの勝負です!!
流される距離は違いますが誰一人溺れる人はおりませんでした。
当時は豊平川につり橋が架かっており、つり橋の上から飛込みもした記憶があります。
子供の頃は豊平川とは呼ばず子供仲間では「大川」と呼んでいました

夏には泳ぎつかれて麦畑を横切り帰途に付きますが腹ペコで今にも倒れそうです・・

川に飛び出た高い岩から飛び込み、白い石を投げて川底から拾ってくる競争もしました。

川育ちですので海を見ると恐怖にかられた記憶があります。

米軍基地が側にありましたので休日には米兵がジープに日本女性を乗せて遊びに来ます・・

その米兵は川に向かって手りゅう弾を投げます・・すると川の魚が浮いてきます。

その様な行為は日常茶飯事に行われていましたが、今の子供たちに話しても信じ無いでしょうね?

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