随分前にオーストリア継承戦争を書くといっておりましたが、やっとTRPGでの継承戦争が終わったのでネタバラしをしながら、史実の継承戦争を書いていきたいと思います。
まず、オーストリア継承戦争の引き金となるマリア・テレジアの父カール6世が亡くなるのは1740年10月です。ゲームでは管理の都合1月にしてしまいました。その為、2月に死ぬ法王と順序が逆になってしまいました。
史実では、まず動いたのはプロイセンです。2ヵ月後の12月にはロレーヌ公フランツ・シュテファンに皇帝に投票することを条件にシュレージエンの割譲を求めてきます。しかしオーストリアは拒否。同月にプロイセンはシュレージエンを占領してしまいます。
これに対してオーストリアは春を待ち翌年4月にモルヴィッツで決戦を行いますが、火力に勝るプロイセン軍にオーストリアの騎兵隊は敗れてしまいます。これが引き金となって、ザクセン・バイエルンから宣戦布告を受け、フランス・スペインからの介入を受けることになります。
ゲームでは、先にバイエルン・ザクセンを動かしました。これは「ハプスブルグの宝剣」に沿った為です。また、プロイセンの占拠よりも、バイエルン・ザクセンが王妃の相続件を主張するのが理に適っていると考え、またバイエルン・ザクセンは前哨戦、プロイセンを本番にすべく順序を変えました。
史実では、オーストリアとプロイセンが割譲で和睦した後、1741年中にバイエルン・ザクセンが宣戦布告してきます。ちなみにザクセンはすぐに和平交渉により和睦してしまいます。
残ったバイエルンはフランスの協力を得て、チロルなどの上オーストリアとベーメン(ボヘミア)を占拠し、バイエルン公カール・アルブレヒトは、1742年には神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠してしまいます。
これには弟が、ケルン大司教(選帝侯)だったのが大きかったようです。
しかし、すぐにハンガリーの協力を得たマリア・テレジアに破れ、バイエルンを奪われてしまい、1745年に失意のまま亡くなります。
このオーストリア優勢に焦ったのがプロイセンです。このままではシュレージエンの確保も難しくなると考え、シュレージエンから南下しベーメンに侵攻し、オーストリアと激突します。この戦いはプロイセンが勝ったものの、プロイセンの被害も大きく戦争を継続することが出来ず、両国は1745年ドレスデンで、プロイセンのシュレージエン領有を確約する和睦で終結させます。
この流れは、小説もほぼ同じです。ゲームで遊んだ際は、最後に強引にプロイセンがザクセンからベーメンに侵攻するって言うのも手だったのですが、ゲーム時間の都合もあり、バイエルンが大敗した時点で終結にしてしましました。
小説にはないのですが、史実ではこの後戦争は、1744年に正式にオーストリアに宣戦布告し表舞台に立ったフランスが、フランドルに侵攻し英蘭墺の連合軍を破って占拠します。しかし、北米の英国との戦いに負け、1748年にアーヘンにて和約が結ばれフランドルから撤退し終結します。
結局この戦いでは、プロイセンがシュレージエンを得、英国が北米の植民地を広げます。一方、フランスはハプスブルク家を弱体化させることに失敗し、ここで使った戦費が後のフランス革命の遠因となります。
そのオーストリアはシュレージエンを失ったものの、それ以外の領土は確保し、マリア・テレジアの継承を確立させます。しかし、マリア・テレジアはこの時、失ったシュレージエンを奪い返すことを心に誓うのです。これが七年戦争と呼ばれる戦争になります。
オリジナルカードゲーム 植民地戦争
まず、オーストリア継承戦争の引き金となるマリア・テレジアの父カール6世が亡くなるのは1740年10月です。ゲームでは管理の都合1月にしてしまいました。その為、2月に死ぬ法王と順序が逆になってしまいました。
史実では、まず動いたのはプロイセンです。2ヵ月後の12月にはロレーヌ公フランツ・シュテファンに皇帝に投票することを条件にシュレージエンの割譲を求めてきます。しかしオーストリアは拒否。同月にプロイセンはシュレージエンを占領してしまいます。
これに対してオーストリアは春を待ち翌年4月にモルヴィッツで決戦を行いますが、火力に勝るプロイセン軍にオーストリアの騎兵隊は敗れてしまいます。これが引き金となって、ザクセン・バイエルンから宣戦布告を受け、フランス・スペインからの介入を受けることになります。
ゲームでは、先にバイエルン・ザクセンを動かしました。これは「ハプスブルグの宝剣」に沿った為です。また、プロイセンの占拠よりも、バイエルン・ザクセンが王妃の相続件を主張するのが理に適っていると考え、またバイエルン・ザクセンは前哨戦、プロイセンを本番にすべく順序を変えました。
史実では、オーストリアとプロイセンが割譲で和睦した後、1741年中にバイエルン・ザクセンが宣戦布告してきます。ちなみにザクセンはすぐに和平交渉により和睦してしまいます。
残ったバイエルンはフランスの協力を得て、チロルなどの上オーストリアとベーメン(ボヘミア)を占拠し、バイエルン公カール・アルブレヒトは、1742年には神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠してしまいます。
これには弟が、ケルン大司教(選帝侯)だったのが大きかったようです。
しかし、すぐにハンガリーの協力を得たマリア・テレジアに破れ、バイエルンを奪われてしまい、1745年に失意のまま亡くなります。
このオーストリア優勢に焦ったのがプロイセンです。このままではシュレージエンの確保も難しくなると考え、シュレージエンから南下しベーメンに侵攻し、オーストリアと激突します。この戦いはプロイセンが勝ったものの、プロイセンの被害も大きく戦争を継続することが出来ず、両国は1745年ドレスデンで、プロイセンのシュレージエン領有を確約する和睦で終結させます。
この流れは、小説もほぼ同じです。ゲームで遊んだ際は、最後に強引にプロイセンがザクセンからベーメンに侵攻するって言うのも手だったのですが、ゲーム時間の都合もあり、バイエルンが大敗した時点で終結にしてしましました。
小説にはないのですが、史実ではこの後戦争は、1744年に正式にオーストリアに宣戦布告し表舞台に立ったフランスが、フランドルに侵攻し英蘭墺の連合軍を破って占拠します。しかし、北米の英国との戦いに負け、1748年にアーヘンにて和約が結ばれフランドルから撤退し終結します。
結局この戦いでは、プロイセンがシュレージエンを得、英国が北米の植民地を広げます。一方、フランスはハプスブルク家を弱体化させることに失敗し、ここで使った戦費が後のフランス革命の遠因となります。
そのオーストリアはシュレージエンを失ったものの、それ以外の領土は確保し、マリア・テレジアの継承を確立させます。しかし、マリア・テレジアはこの時、失ったシュレージエンを奪い返すことを心に誓うのです。これが七年戦争と呼ばれる戦争になります。
オリジナルカードゲーム 植民地戦争