アメリカがポーランドに配備するミサイル防衛(MD)計画に対抗して、ロシアが、カリーニングラードへのミサイル配備を表明しました。
カリーニングラードは、ロシアの飛び地で、ポーランドとリトアニアとバルト海に接した地域です。今のロシアでは地理的に見てもっともEU諸国に近い地域で、ここへのミサイル配備はかなり強硬な意思を表示したと言っても良いでしょう。
もっとも元ソ連の衛星国で、ロシアの目と鼻の先のポーランドにミサイルを配備されようとしているのですから、当然の処置かもしれません。出来ればお互いに矛を収めあって欲しいものです。
カリーニングラードはどうして飛び地となったのでしょう?
ということで、この地域の歴史です。この地は12世紀後半からドイツ騎士団がキリスト教でない人々が住むこの地を侵略し、ケーニヒスベルクと言う街を建てます。
このドイツ騎士団の侵攻で、同じキリスト教ではあったもののドイツ騎士団の侵攻を受けたポーランド諸公国は団結しポーランド王国となり、異民族のリトアニア人もリトアニア公国を建国します。
この両国は後に同君同盟化することで強大な国となり、逆にドイツ騎士団を圧迫し、さらに東方のベラルーシやウクライナ北東部までその支配地域に置くようになります。
ケーニヒスベルクの周辺(プロイセン)だけは死守し続けいたドイツ騎士団も15世紀になるとポーランドに負け、ポーランド国王の宗主下に入ります。その後、ドイツ騎士団長は隣国神聖ローマ帝国の一領主であったブランデンブルグ伯と婚姻関係を結び、ドイツ騎士団長側に跡継ぎが居なかったことで、プロイセンはブランデンブルグ伯の飛び地となります。
さらにブランデンブルグ伯は、プロイセンのポーランドからの支配をとき、そして自らも神聖ローマ帝国から王位を得ることで、プロイセン王国を成立させます。
神聖ローマ帝国は、ブランデンブルグ伯(選帝侯)に王位を与えるのには苦慮したらしく、神聖ローマ帝国内の王位ではなく、領外であるプロイセンの地域の王とすることを認めます。これによってブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は1701年1月18日、ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセンの王フリードリヒ1世となり、これよりプロイセン王国がスタートします。
画像は今の国境にこの頃のプロイセンと、ポーランドの国境を描いています。カリーニングラード(ケーニヒスベルク)が、周辺諸国ではなくプロイセンの飛び地だと言うことが判ります。
戴冠が行われたケーニヒスベルクですが、やはりその立地からプロイセン王国(兼ブランデンブルグ選帝侯)の首都はベルリンでした。後にポーランド分割によって、飛び地ではなくなりますが、第一次世界大戦でドイツとなったプロイセンが敗退すると再び、ドイツの飛び地となります。
第二次世界大戦で一時的にナチス・ドイツが飛び地を解消しますが、敗戦によりケーニヒスベルクはソ連領カリーニングラードとなります。
その後のソ連の崩壊によって、周辺諸国は独立しますが、古くからプロイセン・ドイツ領だったこのカリーニングラードはロシアの飛び地として残ったわけです。
露大統領:米次期政権に強い姿勢示す ミサイル配備 - 毎日jp
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カリーニングラードは、ロシアの飛び地で、ポーランドとリトアニアとバルト海に接した地域です。今のロシアでは地理的に見てもっともEU諸国に近い地域で、ここへのミサイル配備はかなり強硬な意思を表示したと言っても良いでしょう。
もっとも元ソ連の衛星国で、ロシアの目と鼻の先のポーランドにミサイルを配備されようとしているのですから、当然の処置かもしれません。出来ればお互いに矛を収めあって欲しいものです。
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ということで、この地域の歴史です。この地は12世紀後半からドイツ騎士団がキリスト教でない人々が住むこの地を侵略し、ケーニヒスベルクと言う街を建てます。
このドイツ騎士団の侵攻で、同じキリスト教ではあったもののドイツ騎士団の侵攻を受けたポーランド諸公国は団結しポーランド王国となり、異民族のリトアニア人もリトアニア公国を建国します。
この両国は後に同君同盟化することで強大な国となり、逆にドイツ騎士団を圧迫し、さらに東方のベラルーシやウクライナ北東部までその支配地域に置くようになります。
ケーニヒスベルクの周辺(プロイセン)だけは死守し続けいたドイツ騎士団も15世紀になるとポーランドに負け、ポーランド国王の宗主下に入ります。その後、ドイツ騎士団長は隣国神聖ローマ帝国の一領主であったブランデンブルグ伯と婚姻関係を結び、ドイツ騎士団長側に跡継ぎが居なかったことで、プロイセンはブランデンブルグ伯の飛び地となります。
さらにブランデンブルグ伯は、プロイセンのポーランドからの支配をとき、そして自らも神聖ローマ帝国から王位を得ることで、プロイセン王国を成立させます。
神聖ローマ帝国は、ブランデンブルグ伯(選帝侯)に王位を与えるのには苦慮したらしく、神聖ローマ帝国内の王位ではなく、領外であるプロイセンの地域の王とすることを認めます。これによってブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は1701年1月18日、ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセンの王フリードリヒ1世となり、これよりプロイセン王国がスタートします。
画像は今の国境にこの頃のプロイセンと、ポーランドの国境を描いています。カリーニングラード(ケーニヒスベルク)が、周辺諸国ではなくプロイセンの飛び地だと言うことが判ります。
戴冠が行われたケーニヒスベルクですが、やはりその立地からプロイセン王国(兼ブランデンブルグ選帝侯)の首都はベルリンでした。後にポーランド分割によって、飛び地ではなくなりますが、第一次世界大戦でドイツとなったプロイセンが敗退すると再び、ドイツの飛び地となります。
第二次世界大戦で一時的にナチス・ドイツが飛び地を解消しますが、敗戦によりケーニヒスベルクはソ連領カリーニングラードとなります。
その後のソ連の崩壊によって、周辺諸国は独立しますが、古くからプロイセン・ドイツ領だったこのカリーニングラードはロシアの飛び地として残ったわけです。
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