〜かたることばが歌になる風になる〜

「風」指揮者米寿のお祝い会その一

1月5日に「女声合唱団風」指揮者大森先生の米寿を祝っての会が、大阪の「旧桜ノ宮公会堂」の宴会場で開かれた。


8年前には「傘寿(80歳)」の会が兵庫県芦屋の「モノリス」という迎賓館仕様のお部屋で開かれたが、今年年頭のこのお祝いの会には先輩後輩が60名ほど参集した。

合唱部時代、私の学年は東京に住む同級生と傘寿の会の時の前年に亡くなった同級生との3人で、2年先輩の「風」代表の由起子さんたちが一番人数が多く、同好会だったのを合唱部として立ち上げた先輩たちだった。
合唱部時代も「風」でも、ピアノ科の人が伴奏を受け持つのが通例で、あの当時私と東京の親友だけが唯一ピアノ科で伴奏を受け持っていた。

私が2回生だった年に記念すべき「相愛女子大学合唱部第一回演奏会」が開かれた。

「定期演奏会」にできるかが不安だったので「演奏会」と銘打ったと記憶している。
初めての演奏会のその準備の1つがプログラム作成で、費用削減のために広告を取ってくること、そういうものがあることも初体験だった。

大阪市の商人の町「船場(せんば)」に母校はある。
船場は大阪町人文化の中心地、現在の中央区あたりで、この辺りの言葉が一般的な大阪弁だそうだ。

昔、船場の「いとはん<いとさん>」(良家の長女の呼称)や「こいさん(良家の末娘)」が母校の女学校に通っていた話は、大先輩になる山崎豊子の「横堀川」という小説に出てくる。
このお話はNHKの連続テレビで放映されて、女学校時代の制服の袴の裾にある横縞の線をカメラがズームして映し出したのを私も観た。母が、山崎豊子の母校だからわざわざあの模様を出したのだと話したのを思い出す。

大学、高校、中学が、大阪の北と南を結ぶ御堂筋のちょうど真ん中「本町 」にあったので、南のショッピング街心斎橋筋のお店を、親友と二人で飛び込みで広告を出してもらう交渉に励んだことが懐かしい。
女性向けの洋服店や、アクセサリーのお店のオーナーさんが、若い学生さんが頑張っているからと、一面識もない私たちの話を聞いて気前よく広告を出して下さった。その後の後輩たちの演奏会プログラムの広告は、自分たちが取ったお店がいくつか残っていて嬉しかったことも記憶に残っている。
この演奏会後恩師大森先生は、私と親友が練習の合間を縫って、プログラム作りに奔走していたことを労って下さって、何かのコンサートのチケットを下さったことを思い出すが、コンサートがどういうものだったかは全く覚えていない

この米寿の会の幹事は16年も歳下の後輩で、私たちが開いた第一回演奏会当時は4、5歳。
その貴重な演奏会のレコードを私が持っていてCDにしていたので、当日宴会場で流したいということと、当時の写真などがあればスライドで映し出したいとの依頼があった。

恵子ちゃんや、潤ちゃんが年末の忙しい時期、このイベントをどう進行するのか、一生懸命尽力してくれたお祝い会の様子は次の章で書きたいと思う。

活動を終了した「女声合唱団風」のこと、「コーラス花座」のこと、韓国ドラマ、中国ドラマなど色々。

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