なぜ、横浜中華街には広東料理が多いのか。その理由は、広東出身者が多かったということに尽きる。
日本全国に住む中国人の出身地で最も多いのは台湾だという。それに対し横浜に住む中国人の出身地は、広東がトップだそうだ。
実際、大平町にある中華義荘(中国人墓地)の墓石を見ると、ほとんどが「広東省○○」と書いてある。このような横浜の特異性はなぜ生まれたのか。どうして、横浜には広東出身者が多いのか。
ここで話は開港当時にさかのぼる。
欧米列強が日本に開国を迫る前に、彼らは中国に拠点を得ていた。そして、1859年、横浜開港と共に欧米人は横浜へ進出してきた。
では、そんな彼らは、どこから横浜にやって来たのか。本国から来浜した人もいたであろうが、ほとんどは広東周辺から来たようだ。つまり、広東地方の支店に勤務していた駐在員が、現地の中国人を伴って極東支店に転勤してきたのである。
これが、横浜に広東出身者が多い第一の理由だ。
もう一つの理由は長崎との関係にある。
江戸時代、日本は鎖国をしていたが、長崎には古くから唐館があり中国人が滞在していた。そして、この長崎で、幕府は清国と貿易を行っていたのである。
当時、長崎にいた中国人の出身地は、福建や三江が大半だった。
話しはそれるが、この長崎では興福寺とか崇福寺、福済寺のように「福」のつく寺が多い。その理由は、福建省からの華僑が多かったからだという話を聞いたことがある。
それはさておき、福建、三江が大半を占める長崎では、広東勢は肩身の狭い思いをしていた。そこに横浜開港である。彼らは長崎を飛び出し、新開地・横浜へやって来たのだ。
以上のようなことから、横浜では広東出身者が大半を占め、必然的に広東料理が多くなったといわれている。
日本全国に住む中国人の出身地で最も多いのは台湾だという。それに対し横浜に住む中国人の出身地は、広東がトップだそうだ。
実際、大平町にある中華義荘(中国人墓地)の墓石を見ると、ほとんどが「広東省○○」と書いてある。このような横浜の特異性はなぜ生まれたのか。どうして、横浜には広東出身者が多いのか。
ここで話は開港当時にさかのぼる。
欧米列強が日本に開国を迫る前に、彼らは中国に拠点を得ていた。そして、1859年、横浜開港と共に欧米人は横浜へ進出してきた。
では、そんな彼らは、どこから横浜にやって来たのか。本国から来浜した人もいたであろうが、ほとんどは広東周辺から来たようだ。つまり、広東地方の支店に勤務していた駐在員が、現地の中国人を伴って極東支店に転勤してきたのである。
これが、横浜に広東出身者が多い第一の理由だ。
もう一つの理由は長崎との関係にある。
江戸時代、日本は鎖国をしていたが、長崎には古くから唐館があり中国人が滞在していた。そして、この長崎で、幕府は清国と貿易を行っていたのである。
当時、長崎にいた中国人の出身地は、福建や三江が大半だった。
話しはそれるが、この長崎では興福寺とか崇福寺、福済寺のように「福」のつく寺が多い。その理由は、福建省からの華僑が多かったからだという話を聞いたことがある。
それはさておき、福建、三江が大半を占める長崎では、広東勢は肩身の狭い思いをしていた。そこに横浜開港である。彼らは長崎を飛び出し、新開地・横浜へやって来たのだ。
以上のようなことから、横浜では広東出身者が大半を占め、必然的に広東料理が多くなったといわれている。
お役にて立てて嬉しいです。
また、お寄りください。
戦争が無ければ横浜からアメリカに移住を考えて居たそうです。
中華街では広東省出身者の交流も盛んで、年二回
広東同郷会の食事会が聘珍樓で成人の日と敬老の日に行われています。
年会費を払っていれば食事代は無料なんです。
例年30数卓で行われます。
30数卓とは!
ものすごい人数ですね。
300人くらいですかね。
人民大会堂の宴会ホールは3000人もはいれるとか。
聘珍樓の10倍か。