我が国初の競馬場 横浜は競馬発祥の地と言われているが、どのような形で行われたのかによって、その発祥の場所や時期が異なってくる。一般的に日本における初の競馬は、今の本町5丁目あたりで1861年(文久元)に行われたレースということになっている。しかし、これは幕府の役人や外国人が馬術練習の合間に行っていた競走のようだった。 やがて外国人たちから、ちゃんとした競馬場がほしいという要望が持ち上がり、今の山下町あたりに円形の馬場ができあがった。ここで1862年(文久2)に行われたのが、日本で最初の「正規の競馬」と言われている。その後、根岸に競馬場が造られ、1867年(慶應2)に最初の「本格的な競馬」が開催された。 しかし、競馬といえば馬券がつきものである。競馬の発祥を「馬券を発売したレース」とすると、その時期はもっと遅くなる。馬券の発売は1888年(明治21)、1枚1ドルで売り出されたのが最初である。その後、大正12年に勝馬投票券が法制化された。 全国十数か所の競馬場は根岸からノウハウを教わって、どこも賭けの人気で大繁盛していく。と同時に、ギャンブルによる生活の破綻など、現代的な病理現象も現れてきた。 昭和4年、丸ビルを手がけたモーガンの設計で、コンクリート製観覧席の新設工事が根岸で始まった。5年がかりで完成すると、日本一見やすいスタンドとして、全国各地のスタンドのモデルとなった。 やがて太平洋戦争が始まり、昭和17年秋の開催を最後に、根岸競馬場の幕が閉じられる。しかし、ここからは横須賀軍港が丸見えだったため、海軍が競馬場を買収。戦時中は、一般市民をシャットアウトし、軍事機密文書の印刷所となった。 そして敗戦。米軍に接収されたことにより、残念ながら競馬場としての復活は見送られてしまった。 昭和29年、中央競馬会が誕生。この時の競馬法では、中山、東京など12か所の開催地が決められていたが、その中に横浜もあった。しかし実際は根岸に競馬場がないため、幻の開催となる。現実には横浜の分を中山や東京に振り分けて開催していたのだ。 昭和52年、接収地の返還が進み、競馬場跡地に根岸森林公園ができた。しかし、幻の横浜開催はその後も続き、完全に消滅したのは、競馬法を改正した平成6年だった。 馬主生活 こうして横浜における競馬場の歴史は終焉したのであるが、ちょうど同じ頃、ボクの馬主生活も幕を閉じた。それまでは、「伝説の50馬身」で半ば神格化したシンボリクリエンスの馬主だったのである。 あれは92年の4月だった。春の中山大障害が重馬場で行われた。予想通りシンボリクリエンスが逃げる展開。そしてハプニングは後続馬群の中で起こった。ワカタイショウ、パンフレットをはじめ4頭が落馬。追いかけるモントルーも馬場を気にして思うように追走できない。クリエンスがゴールインしてから2着のモントルーが入線するまで、およそ10秒。着差にして推定50馬身! 歴史的圧勝である。 この馬を買ったのは2歳の時だった。いわゆる一口馬主である。大成するかどうか分からない状況での投資には不安があったため、この一口10万円をさらに4人で分散した。 最初の数か月は賞金や出走手当より管理費の方が多く利益は得られなかったが、そのうち勝鞍が増え、毎月の口座振り込みが楽しみになってきた。そして前述の中山大障害だ。この年は秋の大障害も制覇。障害馬の年度代表馬になった。 2万5千円の資金がン十万円に増え、4人で温泉付き競馬ツアーに行ったり、新たに2歳馬を購入したりと、ずいぶんと楽しませてくれた。 馬肉を食べた馬主 そんなある時、仲間と一緒に長野県の高遠を旅した。ここは「サクラの花見」で知られている所だが、実は「サクラ肉」も名物なのである。肉屋のケースを見ると、馬肉がズラリと並んでいる。鶏肉や豚肉は、アリバイ程度に展示されているに過ぎない。高遠で肉と言えば馬肉を指すようだ。 そこでボクたちは馬肉を買い、河原で肉ソバを作った。馬主になってからは絶対に馬肉を口にしなかったのだが、誘惑に負けて禁断の食物を食べてしまったのだ。 それ以来、クリエンスは勝てなくなってしまった。年齢的な問題もあったのかもしれない。だがボクは、馬肉を喰ったのが原因だと思っている。そして間もなく、クリエンスは引退した。戦績は平地が20戦3勝、障害が20戦7勝。獲得賞金は3億2千4百万円だった。 ![]() |
コメントありがとう!
馬券を売らない競馬は何が楽しみだったんでしょうか?根岸競馬場がなくなったのは米軍のおかげだったのか!知らなかった!
ところで日大山形大健闘でした!