中区北仲通1-1にあった蕎麦屋・レストランの解体工事の際に、建物内部からこんな煉瓦遺構が出現したことについては、昨年の記事で報告した。 ■初めてこれを見つけたとき 11月14日の記事 ■これを福島商店と勘違いしていた 11月20日の記事 ■横浜大空襲にも耐えた煉瓦積み遺構 11月28日の記事 ■この遺構が開通合名会社だと知った時 1月7日の記事 最近、この遺構の保存工事が終わり、建物に関する解説板も取り付けられた。 そこにはこんなことが書いてある。 開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構 この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であると考えられています。 建物は、大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。 平成26年(2014年)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました。 開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社であった。 大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、明治10年(1877年)1月に創立された「開通社」の社名を明治24年(1891年)「開通合名会社」に改名。 当地にあった社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側にはうだつ(防火壁)を設えていた。 この遺構は左の写真の1階中央部分の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられる。 写真は明治38年(1905年)頃のものと推定されている。 所有者:(有)日太刀商事 代表 池ヶ谷昭和 監修・協力:横浜市都市整備局 都市デザイン室 (公社)横浜歴史資産調査会 なるほど、所有者はあの日太刀商事だったのね。 そして、maruto082さんの情報によれば、日太刀商事は女子アナ・渡辺真理さんの実家だそうだ。 右端アーチの下に開通合名会社の写真が嵌め込まれている。 3連のアーチだったようで、その中央が出入口。 そこに昔の風景写真が飾られている。 震災直後の写真だ。青枠の中が生き残った開通合名会社の煉瓦積み。 開港記念会館はドームが焼け落ちている。奥に写っているドームは横浜正金銀行(現・県立歴史博物館)。 手前にアメリカの国旗が翻っているところを見ると、この写真はアメリカ領事館から撮影したのだろうと思う。 だが、不思議なのは関東大震災で領事館は焼けているのだ。躯体だけ残ってその屋上から写真を撮ったのかな。 ちなみに、焼けたアメリカ領事館跡に昭和4年、横浜商工奨励館が建った(現・情報文化センター)。 コチラの写真は復興が進んでいるころの様子。 解説板によると、青枠の中が開通合名会社の建物だったところ。看板に「ルーヒ」という文字が見える。当時は右から左に書いていたから、これは「ヒール」だろうね。ヒールと言ったって、かかとのわけがないから、多分、「ビール」と書かれていたに違いない。 ついでのオマケ情報だが、赤枠で囲った建物は大正9年建築の富国ビルだ。当初は日本海上保険横浜支店として建てら、昭和35年から富国ビルの名称に変っている。 1992年ごろ撮影した富国ビル。震災や大空襲にも耐えて生き残ってきたのだ。 4階は戦後の増築だとか。 美しい建物で、玄関回りもなかなかいい感じだったのだが、2002年に解体されてしまった。 関内にはこういった装飾のついたビルがたくさんあったのだが…。 話が脇道にそれてしまった。元に戻そう。 開通合名会社の説明板には「大正時代末期の周辺の様子」と書かれているが、どうもおかしい… この写真をいったいどこから撮影したのか。普通に考えると神奈川県庁の上からということになるのだが、県庁は昭和2年1月に起工し、昭和3年に竣工しているのである。大正時代末期には県庁舎はない。 ←クリックして拡大 拡大してみるとよく分かると思うが、開港記念会館周囲の歩道はまだ整備中である。 関東大震災でドームと内部が焼け落ちた開港記念会館は、昭和2年に再建された。これはその時の竣工写真である。 上の写真と比べて、会館前の歩道がきれいに整備されている。 ということは、開通合名会社が写っているあの写真が撮影されたのは震災後から昭和2年までの間ということだ。 ここで、開港記念会館復興の経緯をみておこうか。 横浜市教育委員会が発行した『横浜市開港記念会館保存修復工事報告書』という本がある。 そこに、復旧予算について、こんなことが書かれている。 有吉忠一市長の代になり 大正14年7月29日の市会において大正14年度から3か年継続で各年125,000円の支出が認められた。 復旧工事の入札は大正15年4月12日実施され大倉組が25万円で落札。 工事は大正15年6月着工、昭和2年5月末竣工、6月2日をもって再開館した。 大正15年は12月25日から昭和元年となる。 あの写真にある「大正時代末期」というのが、どうもヘンだ。着工してから半年後には昭和元年となり、さらに1週間後には昭和2年となり、それから半年後に竣工を迎える、そんな流れを見ていくと、あの写真が撮られたのは昭和2年前半なのではないかと思う。 そうなると、一体どこから撮影したのか。 神奈川県庁舎の建築が着工されたのは昭和2年1月で、3年10月に竣工している。昭和2年前半に足場でもできていて、そこから撮影したのだろうか。 う~む。よく分からん。 ところで、この『報告書』を読んでいくうちに、もう一つ知られざる歴史がみえてきた。 そこに、こんなことが書かれているのだ。 関内地区の区画整理で南仲通りの拡幅と直線化が検討され、開港記念会館の切り崩しが問題となった… しかし、この問題も「記念すべき会館を僅かなる道路の曲折を避けんが為め切り取るのは遺憾」との意見が大勢を占め、南仲通り1丁目だけを屈曲させることで決着 いつも南仲通りを歩いていて、道幅が狭いし、なんだか曲がっているなぁとか思っていたのだが、これで理由が分かった。 この道は震災後に拡幅し一直線にしようとしたのだが、開港記念会館を削るわけにはいかず、1丁目だけは震災前の幅員ままで工事がなされたのかぁ。 なるほどね。 だからきれいな一直線じゃないのね。 戦前の地図。 開港記念会館が創建されたのは大正6年(1917)。その時から南仲通りは、こんな風に少し傾斜していたようだ。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
アメリカ軍の空爆は精密だったといいますよね。
戦争が終わったら彼らが利用したい建物は意識的に残したとか。
この場所は、県庁、開港記念会館、税関などが近くにあったため、
完全に破壊するのが難しかったのかな。
それよりも、戦後、あのレンガ遺構を新しい建物内に組み込んでいたという、
そのことにビックリです。
現代なら空襲で一部壊された前の建物なんて解体して、
新しい建物を建てちゃいますもんね。
いろいろな情報や憶測がネット上を飛び交ったためなのか、
保存に至った経過を解説板という形で、
表示するのはとても素晴らしいと思います。
飛鳥田・細郷市長まで、歴史的建造物の保存は、
一部の専門家の意見と、
それを良しとする行政マンに支えられてきましたが、
スクラップ&ビルドの高秀市長と、
トップダウン最優先で「文化・歴史」を否定した
中田市長の登場で、暗黒時代に突入しました。
失われたものを取り戻すことはできませんが、
一縷の光明を見るようです。
建造物だから、今に生き延びたことを考えると、
あとは所有者の見識に任されています。
利益優先で解体を決めた三井物産・・・
煉瓦の一部でも残そうと決断した日太刀商事・・・
資本の大小はあるかもしれませんが、
渡辺真理さんのファンになっちゃいそうです。
そんなとき、どんな事業・物事でも、
めぐり合わせ、時の運というものがあって、
「神や仏」的な力が働いているような気がします。
写真から見た位置関係があっているのかな?
とは、考えがちですが、
柱の1本、紙屑の1枚だって無駄にすることなく、
再利用していた日本ですし、
アメリカ進駐軍のブルドーザーにさえ、
勝ち残った遺構と考えると、
誇るべきものではないでしょうか?
南仲通りの斜め道は謎です。
今後の調査を待ちたいです。
解説板に書いてあるように、
「所有者の意向により・・・」ということですので、
日太刀商事が残したと思えます。
横浜市はそれに乗ったのかな。
まあ、とりあえずよかったよかった。
情報をありがとうございます。
「都市の記憶 横浜の近代建築」によると、
若尾ビルは大正14年竣工となっていますが、
昭和2年とか4年という説もあるんですねぇ。
右側に写っている建築中の建物は
本町旭ビルなのですか。
そうすると昭和4年くらいですね。
いずれにしても現地の解説板に書かれた、
「大正時代末期」というのは怪しいですね。
な考え方、行動が広まっていくようになるといいな、と思い
ます。
今晩にでも見に行こうかな。
歩道の工事については、今でもヒマさえあれば道路をほじく返しているので気にする必要はないかと。