B&B&B

回り道を全力疾走

脱線したほうが幸せか?

2009-12-08 20:09:02 | 未分類
今日くらいで障害者福祉ネタはやめておこう…。
というか、あの日1日のイベントだけでここまでネタが持つ方が凄いのかもしれない


リビングライブラリーではないが、重度の障害を持つ子どもの母親と話す機会があった。

その子どもは四肢に障害を持ち、恐らく知的障害もあったと思う。

電動車椅子を無い腕で器用に操作し、会場をうろうろしていた。

スタッフと仲が良いようで、キャッキャ言いながら遊んでいる姿が印象的だった。

何だか、重度の障害を持った子が幸せそうな顔をしているとこっちまで勇気づけられる。


と感じてしまうのは、僕がその子を見下した悲観的な思考で捉えているからかもしれないと思ってしまった。


国際協力なんかでも、よく現地に行った人が言うことがある。

『途上国の貧しい子どもたちの笑顔に逆に元気をもらった』
とかいった言葉。


もちろん、その言葉は純粋な気持ちが入っていると思うのだがやはり、その言葉の出る背景には経済的安定した国からの見下しが見られる。


もし、生まれも育ちも環境も一流のところの子どもの笑顔を見たときに果たして同じような感動を受けるだろうか。


まぁ、とはいえ所詮人は自分と比較対照して判断したがる動物なんで、思うなという方が難しいだろう。


そして、そう思わなければ、自分はなんて冷たい人間何だろう、ということになる。


さて、話を戻そう。

重度の障害を持つ子の母親と話をさせていただいたのだが、

子どもを生むまでは、バリバリのキャリアウーマンのように働いていたという。


こういったカンファレンスに積極的に参加するような人だから、本当なら出産後も職場にすぐ復帰するようなパワフルな女性だったに違いない。

本人もそう言っていた。


ただ、たまたま産まれた子がそういった障害を持った子だったから、そのビジネスの前線から退く事になったそうだ。

そして、その子と一緒に暮らす内に豊かな生活というものを見つけたという。

その子が私を社会のキツい歯車から救出してくれた。

という表現をしていた。


その意見については自分の中でも賛否両論出てきたが、

目の前にいるその女性が余裕のある穏やかな表情をしていることは確かだった。


社会を動かす人が偉いのか?
金があれば豊かな生活が出来るのか?
目指すは社会の一員として出来る限り働くことなのか?


自分の目指す幸せな生活って何だろう?

そういった疑問を思い起こさせてもらった人だった。

コミュニケーショントレーニング

2009-12-07 15:52:50 | 未分類
先日、足を運んだカンファレンスのインパクトが強すぎて、福祉について考えることが多くなりました。


俺って感化されやすすぎ…。


自閉症の研究をされている先生が、何度も実演してくれていたのですが、コミュニケーションをとるけとが出来ない子にその方法をうまく学んでもらう方法を見せてくれました。


ポイントは構造化と必然性を作ることです。

例えば、クラスではそれぞれの椅子や机には決まった生徒が座ると決めます。

これは、学校なんかでは当たり前ですが、これも一つの構造化です。

普通ならクラスに入ったら自分の机には自分以外誰も座らず、ただ座ればいいというだけでコミュニケーションの必要性はないのですが、

その自分の机にわざと別の人を座らせておくと、必ずその人とコミュニケーションをとらないといけなくなります。
これが必然性をつくるということ。


つまり、そこで『ドイテクダサイ』というコミュニケーションを起こす動機が生まれるということです。


ここまで聞いて、ふと思ったのが、幼児教育と全く変わらないということです。

違うのは、段階的にゆっくりと行うというレベルとスピードの問題だけで他は何も変わらない。


過保護と言われる子どもたちは、構造化した社会には慣れてはいるが、後者の必然性に対するトレーニングが行われてはいないように思える。


必要なはずの必然性を親が教師が奪ってしまっているからだ。


よく、社会を構造化しすぎるとコミュニケーションがなくなるなどと思われているが、実は逆で構造化すればするほどコミュニケーションの必然性が出てきて、コミュニケーション能力がつくという話だった。



と、ここまで聞いて思ったのは、確かにトレーニングとしては構造化は必要かもしれないが、やっぱり理想は自発的で爽やかで気軽なコミュニケーションを身につけてもらいたいと思う自分もいた。

生き方

2009-12-06 20:59:02 | 未分類
電動車椅子生活を数十年間続けられているオジサンと話した。


技術知識もあるし、体も十分動くので、健常者と同じようにフルタイムで週5日バリバリ働いていた。


しかし、アメリカでの働き方を見てそのことに疑問を持ったという。


確かに私は健常者と同じように100だけ働ける体力も能力もある。

だからといって、別に100だけ働かなくてもいいのではないか。

その100という基準は普通という意味の分からない目標であって、自分がそれに合わせる必要はないと言って、フルタイムでの仕事から週3の勤務に変えたという。残りの余暇は自分の好きなことに使う。


だけど、それは障害を持っているから出来ることであって、普通の健常者はきっとそんな働き方は出来ないだろうと言う


人は必要以上にお金を求めすぎる。


食えるだけなら、そんなにお金はいらないんじゃないか。

食えれば、田舎に住んでもいいんじゃないか。

それだけ、自分が楽しむ生活が送れるんだったら。



確かに、そういった生き方が適している人はもっといるだろうなって思った。

イメージ先行

2009-12-06 20:44:13 | 未分類
病名などの漢字から勝手にイメージされる障害がある。

高次脳機能障害と自閉症について昨日感じたことだ。


高次脳機能障害は、漢字から高度で複雑な思考ができないような印象をもたれるが、そういった認識の仕方の方が低次元であると知った。

私が会った青年は人の顔が分からないという症状があるが、それは、人の顔が見えていないと言うことではないと本人が言う。


その高次脳機能障害を知ることで無意識的に行っている脳の機能がわかるようになる。

また、無意識的な脳機能なだけに人に理解されにくく、伝えづらい障害であるといえるだろう。

自閉症も、その漢字から、またその行動から、自分の世界に閉じこもって他者と関わりを持ちたがらない人と思われているらしい。


これも、とんだ誤解でただコミュニケーションの取り方がわからなかったり、苦手というだけで、伝達したくない訳ではないと云う


自分の感情がうまく伝わらなければ、大声を出して伝えるしかない。
暴れるしかない。


感情行動の原点は人間皆同じであるとわかる。


障害当事者に必要なのは、うまく周囲に伝えることができるコミュニケーションツールである。


これは、親密な関係がもたらすこともあるし、構造化することで行えることもできるし、先端技術で補助することもできるだろう。


そして、それは人間不信に陥った、ある種のコミュニケーション障害を持つ現代人全てに言える問題であると考えられる。

ポカ

2009-12-06 08:30:36 | 未分類
今回のカンファレンスには十数社の企業が出展していた。

『バリアフリーは儲かる』という著書もあることから、そこの市場が広がりつつあることを見ている企業だろう。


東大の先生が自閉症やアスペルガーの子とのコミュニケーションをスムーズに行うには構造化が必要と話していた。

企業が取り扱うべき商品は、そういった構造化を簡単に行えるものである必要があるが、複雑化してはいけないという条件がある。


するとしても、段階的に行わなければならない。


このことは、何も障害の有無に関わらず全ての人に当てはまると思った

ポカという言語障害を持った人のための器具がある。
商品購入などの際に用いることも出来るコミュニケーションツールなのだが、面白いことに一言だけ録音してそれを再生するという単純な機械。

構造化することで、複雑な言葉を用いずとも、簡単な一言でコミュニケーションが成立するということだ

障害というのは、様々な気付きを与えてくれる


さて、今から農業ごっこしてきます。