りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

鏡写しの時計

2023-11-01 22:00:20 |  Angelique
どうということのない、素朴な、ともするといたずら書きのような、「シャガール」風の(と、ご本人がおっしゃる)「画」が描かれた時計の文字盤。登場人物は、おそらくは作家自身やそのパートナーと推察される。結婚してすぐにハネムーンに出かけた様子にも見えるのだが、それにしても明るい夜。人のいない、妙な感じにカーブしている夜道を「自転車」に「二人乗り」で、ハネムーン(*‘ω‘ *)?
なんだか、古い映画のようにロマンチックなのだが、夜の浮遊感だけが鮮明な世界の上を、時計の針は逆に進む。反時計回りの針が指し示すのは「月の満ち欠け」。「ムーンフェイズ」が文字盤上で、かろうじて時間を示す機能を担っている。
どこか学生の工作みたいな、手作り感満載の時計なのだけど、これがスッキリした美しいガラスケースに収められている。
一見、なんの変哲もないようなこのガラスケースは、和骨董の「箱」にガラスを嵌めて作ったもののようなのだけど、一瞥しただけでは由来なんて思い浮かばない。なかなかに大ぶりな「箱」で、中の空間容量はかなり大きい。
もともとは「厨子」だったらしい。美しい工夫でもって、おそらくはボロボロだったところから蘇らせたに違いない。
時計を納めた「厨子」の内側には「鏡」が張ってある。よくよく見てみると、その「鏡」に時計の文字盤が映っているのだが、反転している時計は、「鏡」の中では普通に時を刻んでいるように見える。

遡行する時計を鏡写しにして眺めること。
こんな命題が、そのままカタチを得たような。

「本歌取り 東下り」展で最初に目にした展示作品が、ぱっと見、なんとも素朴に過ぎる感じがするのだけど、よくよく見つめてみると、素直すぎるほど、あっけらかんと、「杉本博司」的視線を説明しているように思えてきて、この頃、ちょいちょい思い出しては何ごとかを考える。

杉本博司氏は、よくよくマルセル・デュシャンのことがお気に入りのようなのだが、氏の語る「デュシャン」の話を聞くたびに、僕は思う。
「デュシャン」なんかより、「杉本博司」の方が面白いだろう、と。
氏は、それは学生時代の思い出とどうしても切り離せないのだろうけど、よくよく「マルクス」を引き合いにも出す。
だけど、またしても僕は思う。
「マルクス」の経済学は「杉本作品」を必要とはしないだろう、と。そして実際のところ、「杉本作品」に「マルクス」は、まったく必要ない。
作品の構想を具体化するに際して、「デュシャン」的アプローチが氏にとって有効だというのは、あまりにも明解なので、これは否定できない。
「デュシャン」的アプローチ、というよりは、氏による「デュシャン」の読み解き方が、方法論的に説明しやすい、あるいは実際にそういう方法を採用している、ということなのだろうけど、「デュシャン」作品よりも、「杉本博司」作品の方が断然に面白いので、「デュシャン」を語る氏の語り口に、こちらとしてはいつだって困惑してしまう。
「作品」は、そうした説明原理を遥かに飛び越えたところで、魅力を放っているというのに。。。

SONY協力のもとに、衛生を使って「地球を撮る」というプロジェクトがあって、それについて江之浦で話をしている動画を拝見したのだけど、「地球を撮る」ことと、そこで語られる「マルクス」がどうして結びつくのか?僕にはピンとこなかった。いや、あんまり想像したくないのだけど、不遜な企てっていう感じはする。SONYって、いつからそうなっちゃったの?

グローバル左翼的なアプローチによる説明。これはアメリカでの「杉本作品」の市場価値とリアルに関係することなのかもしれない。氏が世に出るきっかけをつくったというか、氏の作品を最初に受け入れたのは「アメリカの市場」なのだから、その巨大でありながら閉じた「論理空間」で通じる言語を、氏としては普通に話しているだけ、なのかもしれない。。。
だとするなら、なかなか、あけすけなものの言いようだなぁと、正直呆れる(^o^;)
あるいは、それをいまだに本気で考えている?
それも普通にあり得る。

けれど、僕が認める「杉本作品」の魅力は、そうした「説明原理」と重なり合っているようには見えない。これが「まったく見えない」。「作品」と「説明」が、なんかものすごくズレているように感じてならないのだ。
「デュシャン」とか、「マルクス」とか、そういう名前で語られることよりも、「長谷川等伯」とか、「狩野永徳」とか、「春日大社」とか、そういう名前が拡げてくれる「場」で撮影している「杉本博司」の方が、よっぽど説得力があるし、驚くほどの射程をイメージさせる。
たが、そうした「場」で精力的に作品を作っていける、その立場を与えたのが、かの「説明原理」なのだとすると。。。なかなか一筋縄ではいきませんな(^o^;)

似たような困惑、似たような感情を、僕は「坂本龍一」で何度も味わっている。
僕にとって、「坂本」の「音楽」はとっても大事だし、それなしの少年時代、青年時代を想像できない。これは否定できない事実なのだけど、いつだって「坂本」の思想背景とはまったく関係ないところで、「坂本」の音楽が鳴っているように聴こえる。
むしろ、どれだけ思想的に構築しようとも、「坂本」の「音楽」、あるいは「坂本」の「音」の方がそれを拒絶するという矛盾の方が際立つくらい。
ところが、たくさんの作品を生み出す、その原動力というか、高い生産性を支える動力を「制御」する部分では、どうやらこの「思想的背景」が有効に作用している。そういう風に見える。
「音楽」のことなので、クラシックの土壌で育ったピアニストを支える論理的な基盤が日本を由来としないっていうのは、分からないではないのだけど、「音楽」的アイデンティティがどこまでも「日本」にあることをここまで感じさせてくれる作曲家というのも、またいない。
この矛盾。
そんなことをついつい考えてしまうのだけど、さっきの杉本作品の「時計」を見ると、この矛盾を説明するのに、一個の思考モデルたり得るなぁと。

若い頃、当時見た「シャガール」の印象をもとに、いたずら書きみたいな画を描いた。
そして、それを文字盤として、その上で時計の針を逆行させる。
なるほど、いつまでも地面に落ち着く気配のない、浮遊感。。。というよりは、「二人乗り」の自転車の走りは、「シャガール」というよりは、まったくもって「ヌーベルバーグ」のそれに近い。「浮遊」こそがアイデンティティと言える「シャガール」だが、「自転車」の「二人」はかろうじて、道の上を走っている。氏のカメラは、移動撮影をそもそも目的としていないが、「移動」からもたらされる「直感」には忠実なのだ。
これを和家具というか、「厨子」という「骨董」の中に封じ込めて、鏡写しに時間を順行させる。
すると、なにが起こるのか?

僕には、文字盤の画が「シャガール」風でなければならない必然性など、どこにもないように思えてきた。
「時計」作品そのものに絶対的に流れてしまう「時間」の方が、文字盤に描かれた「画」よりも絶対的に本質で、なんなら「画」は無くても構わないんじゃないか?とさえ思えてきた。「画」はおろか、時間を示すはずの数字もいらない。時間は空間的には表し得ないということを、どうしても思い出してしまうのは、作品の故なのだけど。
「今を生きる」ことと「時間を遡行する」ことの同時性をテクニカルに表すということであれば、この「時計」作品はそうした「杉本作品」のアウトラインをシンプルに説明している。
「シャガール」風の画に共感できなくても、ここに流れる時間から逃れ得る存在はどこにもない。
「海景」に流れるのと同じ時間を思わせる。
杉本博司氏の凄みは、いかなる「場」においても、「海景」で切り取ってみせたような「時間」を切り出せるところにある。
この時間を切り出した一種の「場」として捉えるならば、そこに「シャガール」のような浮遊感の中で、「二人乗り」の「自転車」で走ってる自分たちがいた。これは、本人にとって紛れもない事実ではあるだろう。嘘偽りが入り込む余地などない。

「若かりし頃の思い出」の「画」が動機になって、この作品は存在している。これもまた、否定すべきでない事実としてある。僕にだって大切な「若かりし頃の思い出」があるように、それは誰だってゾンザイには扱えない。扱ってはならない。そういうことなら、それだけは理解できる。「説明的」な在り方の「文字盤」は、空間的には説明できないはずの「時間」を、どこまでも「擬似的」に表象するだけなのだから。
だが「時間」は、「思い出」や「説明原理」とは全然関係なく流れている。
あるいは「海景」の思考モデルとしての、立体的チャート?




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