平気な顔で「シェイクスピアなんて読んだことない」とか、シレッと言えちゃう人の気がしれない。それがいい大人だったりすると、なんだろ?この恥知らずは?というような気分が、僕はどうしても隠せずに、素直に顔に出てしまっているらしい。。。(^o^;)
思ったことを隠せないあたりが僕の誠実さと思ってくれたら本当に良いのだけど、そう都合よくいかないのも、また、世の中である(´ε`;)
恥知らずはいつだって、野蛮ですな(´ε`;)
そんなどうしようもない大人などは放っておくとして。
若い人たちには、ハムレットでも、マクベスでも、リア王でも、真夏の夜の夢でも、とにかくなんでもいいから、シェイクスピアのなにか一冊を徹底的に読み込むことを強くおすすめしたい。
古典の名作だから。。。というのではない。
極めて現代的な理由で、シェイクスピアはいまだに有効な思考モデルを提供してくれているから。
いや。むしろ21世紀の現代においてこそ、シェイクスピアが有効であるということ。
これに尽きます!
あっという間に古くなる異世界モノのラノベなんかよりも、数百年前の戯曲がいまだに思考モデルとして有効である現代。かかる事態は人類にとって本当は大変「不幸」なことなのかも知れない。シェイクスピアなんて、時代遅れで使い物にならない。無効である。そう言い切れるなら、その方がよっぽど幸せなのかもしれない。作品は古典として不動の地位にあって、泰然としていればよろしい。とか。だが、残念なことに、シェイクスピアはいまだに現役なのだ。
何百年も前に暗に指摘していたこと、警鐘を鳴らしていたことが、現代においては、薄っぺらい表層を裏切って、レベル違いに深刻さを増し、今や無数のバリエーションでもって世界中に展開している、とさえ言える。
これを、例えば各分野における最先端のパースペクティブでもって解き明かすことは、王道且つ正攻法だと思うのだけど、そこに動員されるべき知識の質と量を考えるにつけ、これらすべてを誰もが知るべきこととするのは、負荷があまりにも大きすぎることも否めない。というか、そんなことはできる人がいたとしても、ごくごく限られた人たちのはず。
いっそ、そうした西洋的知とは無縁でいられるなら、そんなものはすべて必要ない!と、清々しいまでの大見得も切れようというものだが、令和のこの時代にあって、そう言い切れる人はただの一人だっていやしないだろう。言ったところで、それは野蛮に過ぎるのである。そうした知的背景を見ないで済ましている野蛮な人たちこそ、実はシェイクスピアが警鐘を鳴らしていた、得体のしれないシステムの上に無自覚に乗せられていて、ほとんどオートマティックに誘導が実現してしまっているのだから、なんとも恐ろしい話である。
僕らの生きてきた長過ぎる「戦後」、あるいは仕掛けられた「戦前」という現在においては、システムはそういう意味を持ってしまっている。
シェイクスピアは、彼の時代に、このシステムの萌芽に立ち会ったのだ。
教科書的歴史教育がほとんど破綻しているのに、その破綻を見て見ぬふりをしている現状もまた、たいへんに野蛮なことだなぁと思う。日本の官僚機構に重大な欠陥。。。というか、日本を壊すプログラムが戦後にインストールされているのだから、この現状を行政側が自発的に改めることなどはあり得ない。心ある、尊敬すべき官僚諸氏が多数いらっしゃるとしても、システムを書き換える権限は、その良心のゆえに与えられるはずがないのである。
教科書的知識の枠組みを遥かに超えたところで、市井の、地域の、地に足のついた歴史教育が展開される方が、より深い認識、より高い見識を育てる得ることを僕は疑わないのだが、世界とつながる歴史観にタッチしようとすると、その意味では、限界がある。ローカルな歴史教育には、別種の質の高さ、別種の崇高さがあったとしても。
そこで、シェイクスピアなのである( ・ิω・ิ)b
何か1冊、個人的にオススメするなら、「マクベス」なんて、かなり現代的に読めると思う。
例えば、聖書的な背景を匂わせる発言を、「マクベス」の回路を通して読み直してみるとか。「マクベス回路」は、それを探しあてるつもりで読んでいくと、かなりスリリングに浮き彫りにされていくので、ただ読んでいるだけでも十分に読みごたえはあるのだが、これがAvailableであることにささやかな驚きを見出すはずだ。実際に「使用可能」な思考モデル。
「マクベス回路」に例えば権力のモデルを見ることも、例えば経済のモデルを見ることも、十二分に可能だ。
経済を言うなら、「ヴェニスの商人」などは、まさに「思考モデル」の戯曲化、コメディ化と言える。
メディアが無視する情報を「ハムレット」の回路を通して出力してみるとか。
シェイクスピア的物語構造は、もちろん万能ではない。無限に注釈がつく。だとしても、現代においてかなり有効な見方、思考モデルを提供してくれる。と言うよりも、むしろ、この「思考モデル」=「構造モデル」を戯曲化することが、シェイクスピアの目的だったのではないか?とさえ思える。それは、当時の演劇界にあって、十分にスキャンダラスな事件だったのだ。
構造的モデルの近代的フォーマットとして、シェイクスピア的物語構造を理解しておくこと。
世界の変わり目の理解には、基礎的な基盤足りうるという意味で、これがかなり有効。
これは、基礎教養の基礎であると知るべし、なのであります!
ふぅ~( ´ー`)
少し気が晴れた。かな(*´ω`*)
思ったことを隠せないあたりが僕の誠実さと思ってくれたら本当に良いのだけど、そう都合よくいかないのも、また、世の中である(´ε`;)
恥知らずはいつだって、野蛮ですな(´ε`;)
そんなどうしようもない大人などは放っておくとして。
若い人たちには、ハムレットでも、マクベスでも、リア王でも、真夏の夜の夢でも、とにかくなんでもいいから、シェイクスピアのなにか一冊を徹底的に読み込むことを強くおすすめしたい。
古典の名作だから。。。というのではない。
極めて現代的な理由で、シェイクスピアはいまだに有効な思考モデルを提供してくれているから。
いや。むしろ21世紀の現代においてこそ、シェイクスピアが有効であるということ。
これに尽きます!
あっという間に古くなる異世界モノのラノベなんかよりも、数百年前の戯曲がいまだに思考モデルとして有効である現代。かかる事態は人類にとって本当は大変「不幸」なことなのかも知れない。シェイクスピアなんて、時代遅れで使い物にならない。無効である。そう言い切れるなら、その方がよっぽど幸せなのかもしれない。作品は古典として不動の地位にあって、泰然としていればよろしい。とか。だが、残念なことに、シェイクスピアはいまだに現役なのだ。
何百年も前に暗に指摘していたこと、警鐘を鳴らしていたことが、現代においては、薄っぺらい表層を裏切って、レベル違いに深刻さを増し、今や無数のバリエーションでもって世界中に展開している、とさえ言える。
これを、例えば各分野における最先端のパースペクティブでもって解き明かすことは、王道且つ正攻法だと思うのだけど、そこに動員されるべき知識の質と量を考えるにつけ、これらすべてを誰もが知るべきこととするのは、負荷があまりにも大きすぎることも否めない。というか、そんなことはできる人がいたとしても、ごくごく限られた人たちのはず。
いっそ、そうした西洋的知とは無縁でいられるなら、そんなものはすべて必要ない!と、清々しいまでの大見得も切れようというものだが、令和のこの時代にあって、そう言い切れる人はただの一人だっていやしないだろう。言ったところで、それは野蛮に過ぎるのである。そうした知的背景を見ないで済ましている野蛮な人たちこそ、実はシェイクスピアが警鐘を鳴らしていた、得体のしれないシステムの上に無自覚に乗せられていて、ほとんどオートマティックに誘導が実現してしまっているのだから、なんとも恐ろしい話である。
僕らの生きてきた長過ぎる「戦後」、あるいは仕掛けられた「戦前」という現在においては、システムはそういう意味を持ってしまっている。
シェイクスピアは、彼の時代に、このシステムの萌芽に立ち会ったのだ。
教科書的歴史教育がほとんど破綻しているのに、その破綻を見て見ぬふりをしている現状もまた、たいへんに野蛮なことだなぁと思う。日本の官僚機構に重大な欠陥。。。というか、日本を壊すプログラムが戦後にインストールされているのだから、この現状を行政側が自発的に改めることなどはあり得ない。心ある、尊敬すべき官僚諸氏が多数いらっしゃるとしても、システムを書き換える権限は、その良心のゆえに与えられるはずがないのである。
教科書的知識の枠組みを遥かに超えたところで、市井の、地域の、地に足のついた歴史教育が展開される方が、より深い認識、より高い見識を育てる得ることを僕は疑わないのだが、世界とつながる歴史観にタッチしようとすると、その意味では、限界がある。ローカルな歴史教育には、別種の質の高さ、別種の崇高さがあったとしても。
そこで、シェイクスピアなのである( ・ิω・ิ)b
何か1冊、個人的にオススメするなら、「マクベス」なんて、かなり現代的に読めると思う。
例えば、聖書的な背景を匂わせる発言を、「マクベス」の回路を通して読み直してみるとか。「マクベス回路」は、それを探しあてるつもりで読んでいくと、かなりスリリングに浮き彫りにされていくので、ただ読んでいるだけでも十分に読みごたえはあるのだが、これがAvailableであることにささやかな驚きを見出すはずだ。実際に「使用可能」な思考モデル。
「マクベス回路」に例えば権力のモデルを見ることも、例えば経済のモデルを見ることも、十二分に可能だ。
経済を言うなら、「ヴェニスの商人」などは、まさに「思考モデル」の戯曲化、コメディ化と言える。
メディアが無視する情報を「ハムレット」の回路を通して出力してみるとか。
シェイクスピア的物語構造は、もちろん万能ではない。無限に注釈がつく。だとしても、現代においてかなり有効な見方、思考モデルを提供してくれる。と言うよりも、むしろ、この「思考モデル」=「構造モデル」を戯曲化することが、シェイクスピアの目的だったのではないか?とさえ思える。それは、当時の演劇界にあって、十分にスキャンダラスな事件だったのだ。
構造的モデルの近代的フォーマットとして、シェイクスピア的物語構造を理解しておくこと。
世界の変わり目の理解には、基礎的な基盤足りうるという意味で、これがかなり有効。
これは、基礎教養の基礎であると知るべし、なのであります!
ふぅ~( ´ー`)
少し気が晴れた。かな(*´ω`*)