フォトチャンネル大和と潜水艦
造形作家秀春氏に制作の場を与えてくれた恩人がいます。
11月20日、その恩人が亡くなられたと連絡がありました。
9年と半年もの間の闘病だったそうです。
一度は治癒したかに見えた癌が再発し、この半年はご家族に支えられながら苦しい治療に耐え続けていらっしゃいました。
66才でのご逝去はあまりに若い。残念です。
恩人、奥津さんは、独立し、ご自身の製作所を立ち上げられて20数年。小さな町工場の社長として、日本のモノ作りを地べたで支えてこられた方々のうちの一人です。金型の製作が主なお仕事。鉄の職人さん。
工場自体は2年前にお閉めになられました。一度は治癒したように見えたとはいえ、数年に渡る闘病生活で現役続行が難しくなっていたからだそうです。でも、工場を閉めて、工作機械を手放した後でも、モノ作りへの思いは止められなかったと見えます。モノ作りへの深い理解もあったのでしょう。秀春氏に創作の場としてご自身の工場を使うようにとおっしゃってくれたのだそうです。
以前、秀春氏のアトリエをご紹介したことがありましたが、そのときには、僕もいろいろお話させていただきました。
秀春氏に触発されて、「よしいっちょやってみるか!」と作りはじめたのが写真の戦艦大和です。
「彼がこぉう、いろいろ造っているでしょ。そうするとさ、オレもなんだか身体が動きだしちゃうんだよ。」とニコニコ笑っていました。体調はなかなか良いとはいえない状態だったと思いますが、図面からきっちりひいて、慣れない木工ですけど試行錯誤しながら、楽しそうに作っていたといいます。
「いま、大和は近所の病院に飾らせてもらってるんだよ。今度見せてあげるからさ。」
「ぜひ、おねがいします。」
「大和でいろいろわかったことがあるからさ。今度は潜水艦を作ろうと思っている。」
「いやぁ、作るの止まりませんねぇ。」
「そうなんだよ~。」
そういう会話をしました。
昨日は、ご葬儀に参列してきました。
そこで、はじめて「戦艦大和」を見ることになりました。
僕らがお義母さんの件でいろいろ身動きできない状態が続いていましたから、秀春氏とお会いするのも久しぶりのことでした。秀春氏は、目を真っ赤にしていました。僕には知ることのできない思いが、次から次からあふれてきているようでした。
アトリエとしてご自身の工場を使わせてくれたこと以上に、一緒にモノを作っていた「同志」というか、仲間にも似た感情があったに違いないのです。作っているモノはテイストもジャンルもまったく違うものですけど、製作上のアイデアなんかを交換し合ったり、アドバイスを送り合ったりしていたという話は、聞いていて、うらやましいくらいで、嫉妬さえ覚えます。
奥津さんに見てもらいたいことが、まだまだたくさんあったに違いないのですが、昨日は、そういう言葉をかけるのもためらわれました。
奥津社長のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
大和と潜水艦
造形作家秀春氏に制作の場を与えてくれた恩人がいます。
11月20日、その恩人が亡くなられたと連絡がありました。
9年と半年もの間の闘病だったそうです。
一度は治癒したかに見えた癌が再発し、この半年はご家族に支えられながら苦しい治療に耐え続けていらっしゃいました。
66才でのご逝去はあまりに若い。残念です。
恩人、奥津さんは、独立し、ご自身の製作所を立ち上げられて20数年。小さな町工場の社長として、日本のモノ作りを地べたで支えてこられた方々のうちの一人です。金型の製作が主なお仕事。鉄の職人さん。
工場自体は2年前にお閉めになられました。一度は治癒したように見えたとはいえ、数年に渡る闘病生活で現役続行が難しくなっていたからだそうです。でも、工場を閉めて、工作機械を手放した後でも、モノ作りへの思いは止められなかったと見えます。モノ作りへの深い理解もあったのでしょう。秀春氏に創作の場としてご自身の工場を使うようにとおっしゃってくれたのだそうです。
以前、秀春氏のアトリエをご紹介したことがありましたが、そのときには、僕もいろいろお話させていただきました。
秀春氏に触発されて、「よしいっちょやってみるか!」と作りはじめたのが写真の戦艦大和です。
「彼がこぉう、いろいろ造っているでしょ。そうするとさ、オレもなんだか身体が動きだしちゃうんだよ。」とニコニコ笑っていました。体調はなかなか良いとはいえない状態だったと思いますが、図面からきっちりひいて、慣れない木工ですけど試行錯誤しながら、楽しそうに作っていたといいます。
「いま、大和は近所の病院に飾らせてもらってるんだよ。今度見せてあげるからさ。」
「ぜひ、おねがいします。」
「大和でいろいろわかったことがあるからさ。今度は潜水艦を作ろうと思っている。」
「いやぁ、作るの止まりませんねぇ。」
「そうなんだよ~。」
そういう会話をしました。
昨日は、ご葬儀に参列してきました。
そこで、はじめて「戦艦大和」を見ることになりました。
僕らがお義母さんの件でいろいろ身動きできない状態が続いていましたから、秀春氏とお会いするのも久しぶりのことでした。秀春氏は、目を真っ赤にしていました。僕には知ることのできない思いが、次から次からあふれてきているようでした。
アトリエとしてご自身の工場を使わせてくれたこと以上に、一緒にモノを作っていた「同志」というか、仲間にも似た感情があったに違いないのです。作っているモノはテイストもジャンルもまったく違うものですけど、製作上のアイデアなんかを交換し合ったり、アドバイスを送り合ったりしていたという話は、聞いていて、うらやましいくらいで、嫉妬さえ覚えます。
奥津さんに見てもらいたいことが、まだまだたくさんあったに違いないのですが、昨日は、そういう言葉をかけるのもためらわれました。
奥津社長のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
大和と潜水艦