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差別が無くならないのはなぜだろう…? ②

2020年06月17日 | 日々のこと
昨日の続きです。

多くの人が良くないことだ、
と考えていると思われるのに差別が無くならないのはなぜだろう?

それは、差別する自分の心の動きを肯定してしまっているからじゃないかなぁと思う、ということまで話したところです。

差別について身近なところから考えてみると…
例えば、最近ではコロナウィルス感染拡大で医療関係者への差別が問題になりました。

もし、自分が、家族が、感染してしまったら病院に必ず病院に行って医師に診察して貰い、看護師さんに看護してもらわないといけないです。
医療に頼らないと助からないことは明らかです。
彼らが、自らの恐怖を抑えて、プロに徹して戦ってくれるからこそ、社会が崩壊せずに保たれている、
ということは誰もが分かっていることです。

ですが…、
自分が感染していない時は、医療の仕事に携わっているからと、近くに来るな、触るな、その人の関係者さえも忌避に走る…。

そして、そんな風に医療従事者の方々を忌避していて、いざ自分が家族が感染してしまった時に、すでに医療従事者の方々がそれまで仕打ちに嫌気が指して現場から離れてしまっていたら、診てもらう事ができません。
自らの行いが身の破滅になるかもしれないことをするなんて、破綻していますね。

でも、そんなことをするのはごく少数の特殊な人達じゃない…?!

そうかもしれないですが…、そうとも言い切れないんじゃないかなぁと思うんですよね。

そういう態度を取ってしまう本人だって、
それは不当な対応、過剰な反応かもしれないと、全く自覚がないともいい切れない。

わかっちゃいるけどやめられない、
だって、やっぱり怖いじゃないか?
そう思ってしまうのも、仕方ないよね、
正しくはない、けど、そう思ってしまうのも仕方ないよね〜、
とか不当な行為をする自分を庇う、ゆる〜く肯定してしまう。

そう、それが倫理的には正しくはないことだと半ば知りつつ、自分が差別してしまうことを許容してしまったり、
そう思うことは人として?情として仕方ないことだと肯定してしまったり。

差別行為や発言は、無自覚にしているのではなく、
自分の中では、やむにやまれぬことのように感じて、むしろ差別行為を肯定しているような場合があるからこそ、無くならないのではないかなぁ、と。

自分の行為、行動、発言に肯定感、
あるいは許容する気持ちが無ければ、
医療関係者の子どもが保育園や学校へ来ないように言ってくれとか、
他人に言えるわけないですよね。

自分なりの正当性を感じているので、
強気にさえなって、差別的な行為や発言をすることができるのかな、と思います。

しかし、それは差別行為だ、差別的な発言だと、真っ向から批判されたら、きっとそれに返す言葉はないと思うのです。

だって仕方ないじゃないか、
もし、コロナに感染したらどうしてくれるんだ?!的な言い訳や反論は出来ても、
自分がした行為や発言が差別行為、発言であることを否定することはできないんじゃないか、と思います。

つまり、差別がよくないことだとわかってはいても無くならないのは…、

差別する時、差別してしまう時に、
そうするしか無いだろうとか、
そうしても仕方ないだろうとか、
自分に取っては必要なんだとか、
その行為を容認、肯定するような
譲れないと感じるような理由や正当性を
自分で感じているからではないかなぁと思うのです。

そうするだけの根拠が自分にはある、と感じているから、差別はよくないという倫理観を乗り越えていかれるのでしょう。

自分の面前にあると感じる危機を回避するには、社会通念的な倫理観や正義に目をつぶっても仕方ない、という論理が働くのかなぁと思います。

だから、良くないことだという認識が広く人々の間に有りながら、いつまでもなくならないのかなぁと思いました。



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