とても間が空いてしまいましたが
前回の続きです。
日本霊異記の成立時期は弘仁13、14年頃ではないか、と見られています。
西暦でいうと、822年、823年。
平安時代初期、嵯峨天皇の御代です。
弘仁とは、どんな時代だったかというと…。
弘仁という年号は15年しかありませんが、
なかなかに大変な時代でした。
平城京から長岡京に遷都(784年)、それも束の間で平安京へ(794年)と都が遷り、やっと新しい都に落ち着いたかなぁという弘仁元年(810年)
薬子の変、という事件がありました。
個人的にもかなり関心惹かれる事件です。
平城太政天皇と嵯峨天皇は、桓武天皇と皇后藤原乙牟漏との間の、第一皇子、第二皇子です。
同母兄弟で、前天皇と現天皇、権力を取り戻し、奈良の都平城京へ戻りたい&不倫でも好きな女性は離さない!という平城天皇と愛人の兄の野望が絡まり、現天皇の嵯峨と対立。
昼メロのベタなストーリーのような愛憎の大事件!
これは弟の嵯峨天皇が勝ちました。
この事件の際に、嵯峨天皇側で祈祷に当たったのが空海です。
嵯峨天皇の信任を得て、空海は高野山開山を得ました。弘仁7年です。
弘仁格式編纂というのもありました。
弘仁11年です。
嵯峨天皇の命で、奈良時代に作られた養老律令が社会の実趨に合わなくなってきていたのを、修正運用する法令と細則が編纂されました。
律令にない役職、蔵人所(天皇の秘書的役割)、検非違使(不法、違法を調べる天皇の使者)などの令外官が置かれるようになったのも、この頃です。
都は奈良から平安京に移ったものの、上皇と現帝の覇権争いがあったり、律令制の運用面で齟齬が出てきたり…
なかなか「平安」ではなかった状況の中で、旧都平城京にある薬師寺の僧、景戒が日本霊異記をまとめました。
日本霊異記は、日本で初めての仏教説話集です、と紹介されますが、「説話集」という文学形式自体日本初です。
それまで、日本には説話集のようなものはなく、また仏教の書というのも、仏典の研究や解説のような書以外はなかったわけです。
それまで日本になかった本を作ってみよう、書いてみようと思うこと、発想することってすごいことだ、と思います。
景戒の書いた序文を読むと、強い使命感のようなものを持っていたことが伺われますが、因果応報談の本を作ろうというのは、ゼロからの発想したというわけではありません。
景戒は、霊異記の序文の中で
冥報記(みょうほうき)、般若験記(=金剛般若経集験記 こんごうはんにゃきょうしゅうげんき)という、中国の説話集をあげています。
景戒は、冥報記や般若験記に記されているようなことは、日本でもたくさんあるよ!
と思っていました。
異国の書、異国の話を面白がっているだけじゃなく、日本であったことも広く知られるべきことじゃない?
でも、そんな本は日本にない…
こうなったら、自分で書くしかない!!
知識も技量も全然足りないかもしれないけど、自分が書くしかないんだー!と、
熱く記しています。
仏道修行していた景戒には、この世界には、善因善果、悪因悪果の因果応報が確かにある!と感じられていたんですね。
こんなことが本当にあった!
こんなことをしていたから、こんな報いを受けたんだとか、
こういうことをしていたので、こんな良いことが起こったんだ、とか。
そういう「事実談」を広く集めて知らせることで、この世を善くし、人の悪心を改めて善き道を修めるように導きたい!
というのが、景戒の編纂の思いだったかなと思います。
皆さんも霊異記を読んで、景戒さんの乱れた世を憂い、因果応報を知らず無明を行く民を導きたい!という熱い思いに触れてください。
とかとか、いろいろいいましたが、もちろん、編纂者の景戒さんの思いや、時代背景などに関係なく、本文だけ読んでも楽しめます。
ちなみに日本霊異記は以下から出版されています。
岩波書店・古典文学大系、新日本文学大系、
小学館・日本古典文学全集、
新潮社・新潮日本古典集成、
平凡社・東洋文庫、
講談社・学術文庫、
筑摩書房・ちくま学芸文庫
ちくま学芸文庫、新日本古典文学大系の日本霊異記は読んでいないのでコメントできませんが、この中では最近の出版なので、最新研究が反映されているかと思います。
私は岩波書店の文学大系が見慣れているので、読みやすい感じがするのですが…、
小学館の本は上段に注、真ん中に原文、読み下し文、下段に訳文とあるので、本文を見ながら、注や訳を確認できていいのかな?と。
それが本当に読みやすいかわかりませんが…。