今回は、福島第一原子力発電所の爆発事故に伴う20km圏内立入禁止区域である『双葉郡富岡町』の写真を掲載してみます。
まずは『JR富岡駅』です。
駅舎は、津波で破壊され改札口の金属フレームだけが残され、その先のホームの奥には海が見えます。
6ヶ月前まで普通に特急電車も走っていた線路上には、雑草が生い茂り、津波で流されてきた乗用車が残されたままになっています。(9月13日現在)
下の写真は、約5ヶ月前の4月20日の富岡駅の写真です。
当時は、震災後、全く手つかずの状態でしたから、現在のように雑草は生えていないものの、まだ津波による瓦礫に覆われたままの状態でした。
駅前の小さな商店街も、瓦礫は撤去されて片付いているものの店の出入口やサッシ戸などは、地震や津波で壊れたまま、がら空きの状態で店先には雑草も生い茂っています。
せっかくクリーニングした衣類も壊れた店内に残され、持ち主の手に返らないまま外気にさらされて汚れてしまいました。
国道6号線沿いのセブンイレブンも店先に雑草が生え、ごみが散乱したままの状態です。
震災当時に陳列されていた雑誌は、ガラス越しに日に焼けて色あせてしまい、6ヶ月という時の流れを物語っていました。
同じく、国道沿いの一見なんの被害もなさそうなレストラン。
確かに建物自体は、地震などの被害はなさそうです。
しかし、立入禁止区域で、もう何ヶ月も人が居ないのに、出入口の内側には「営業中」「OPEN」の札が掛けられたままでした。
原発事故のせいなのでしょうか。
よほど慌てて避難した様子がうかがわれます。
どこかの大臣が20km圏内の立入禁止区域を『死の町』と言ったことを発端に辞任に追い込まれてしまいましたが、誰が見ても本当に『死の町』なんです。
そして、私が直接話すことが出来た多くの避難者達は、意外にも『死の町』という表現に対して「それだけひどい状況なんだ」と伝えるための表現であれば問題ないと考えているようです。
しかし、「放射能をうつしちゃうぞ」発言はチョットまずいと思います・・・。
だいたい、放射能はうつらないし・・・。
そう言う誤解を招く言動をするから「福島県民お断り」などと張り紙をされたり、病院で診療拒否されたり、福島ナンバーの車にイタズラされたりするんですよ。
今回は、8月から9月にかけて立入禁止区域内に入る機会があり、時には113μSv/hと通常自然界の2,260倍の放射線量の中に入ることもありましたが、こうして町の様子を写真におさめることができました。
今後も、立入禁止区域内に入る機会があれば被災地の記録として写真に残していきたいと思います。
まずは『JR富岡駅』です。
駅舎は、津波で破壊され改札口の金属フレームだけが残され、その先のホームの奥には海が見えます。
6ヶ月前まで普通に特急電車も走っていた線路上には、雑草が生い茂り、津波で流されてきた乗用車が残されたままになっています。(9月13日現在)
下の写真は、約5ヶ月前の4月20日の富岡駅の写真です。
当時は、震災後、全く手つかずの状態でしたから、現在のように雑草は生えていないものの、まだ津波による瓦礫に覆われたままの状態でした。
駅前の小さな商店街も、瓦礫は撤去されて片付いているものの店の出入口やサッシ戸などは、地震や津波で壊れたまま、がら空きの状態で店先には雑草も生い茂っています。
せっかくクリーニングした衣類も壊れた店内に残され、持ち主の手に返らないまま外気にさらされて汚れてしまいました。
国道6号線沿いのセブンイレブンも店先に雑草が生え、ごみが散乱したままの状態です。
震災当時に陳列されていた雑誌は、ガラス越しに日に焼けて色あせてしまい、6ヶ月という時の流れを物語っていました。
同じく、国道沿いの一見なんの被害もなさそうなレストラン。
確かに建物自体は、地震などの被害はなさそうです。
しかし、立入禁止区域で、もう何ヶ月も人が居ないのに、出入口の内側には「営業中」「OPEN」の札が掛けられたままでした。
原発事故のせいなのでしょうか。
よほど慌てて避難した様子がうかがわれます。
どこかの大臣が20km圏内の立入禁止区域を『死の町』と言ったことを発端に辞任に追い込まれてしまいましたが、誰が見ても本当に『死の町』なんです。
そして、私が直接話すことが出来た多くの避難者達は、意外にも『死の町』という表現に対して「それだけひどい状況なんだ」と伝えるための表現であれば問題ないと考えているようです。
しかし、「放射能をうつしちゃうぞ」発言はチョットまずいと思います・・・。
だいたい、放射能はうつらないし・・・。
そう言う誤解を招く言動をするから「福島県民お断り」などと張り紙をされたり、病院で診療拒否されたり、福島ナンバーの車にイタズラされたりするんですよ。
今回は、8月から9月にかけて立入禁止区域内に入る機会があり、時には113μSv/hと通常自然界の2,260倍の放射線量の中に入ることもありましたが、こうして町の様子を写真におさめることができました。
今後も、立入禁止区域内に入る機会があれば被災地の記録として写真に残していきたいと思います。