知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

鹿が増えた理由と影響、そして対策

2022年01月06日 11時00分30秒 | 原発
私が子どもの頃は、野生の鹿に出会うことは珍しく、またディズニーのアニメ「子鹿のバンビ」の影響もあり、かわいい&憧れの動物でした。

小学生の時、知り合いのおじさんに日光へ連れて行ってもらった際、立ち寄った家で初めて野生の鹿を目にしました。
ケガをして動けなくなっているのを保護した、と記憶しています。

それから数十年、鹿の数はどんどん増えて樹木の根本付近をかじり枯れさせてしまう“害獣”扱いされるようになりました。

なぜ、鹿が増えたのでしょう?
そんな疑問を漠然と抱いてきました。

要点を抜粋しますと・・・

■ 鹿が減少した理由
1.天敵の不在:天敵であるニホンオオカミが絶滅していなくなった。
2.降雪量の減少:冬の降雪量が減り、冬の餌不足の期間が短くなった。
3.スギとヒノキの植林政策:スギとヒノキの稚樹は鹿の餌になる。
4.鹿の保護政策:かつて鹿は絶滅の危機に陥り、1950年代までは禁猟、齟齬の徐々に解禁されてきた。
5.里山の荒廃:人が手放した放棄地が生息地に変わった。
6.狩猟者の減少:狩猟免許取得者は一時期より半減している。

■ 鹿の増加による影響
1.森林の生態系破壊:草を食べ尽くすと山の保水能力が低下し災害が増加、鹿が好む特定の植物のみ減少するので多様化が低下、など。
2.農業への影響:自然界と人間界の境界が曖昧になり、農作物を食べるという被害が増えた(総被害額の1/3)。
3.林業への影響:植樹した幼樹の葉や樹皮を食べて枯れてしまう。総被外郭の7割を占める。
4.山での交通事故:山道・林道に鹿が突然飛び出してきて避けきれず、車と衝突する事故が増えている。

■ 鹿増加への対策
1.許可捕獲
2.鹿柵の設置

そして記事の最後は以下のように「鹿肉を食べましょう」で締めくくっています。

「しっかりと処理されたお肉は、臭みもなくとっても美味。シカ肉は赤身で脂肪分が少なく、鉄分豊富なヘルシー食材です。ジビエ産業の普及は、地域産業の活性化や、狩猟者の狩猟意欲の向上、そしてなにより捕獲した動物の命を無駄にしないことにつながります。」

この50年で日本人にとっての鹿の存在は、
「かわいい!」
から
「おいしそう!」
へ変わってきたのですねえ・・・ちょっと複雑な気分です(^^;)。
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日本人とネコ

2021年03月04日 15時01分48秒 | 原発
日本人がどのように動物と関わってきたのか・・・ちょっと興味があります。
今回はネコを取りあげます。

日本にネコが中国から輸入されたのは奈良時代、というのが通説です。
※ 諸説あります(近年、2000年以上前の遺跡から猫の骨が出てきたという報告も)。

目的は「仏教の経典をネズミから守るため」だったそうです。
そのため、飼われていたのはお寺中心でした。

平安時代になると、「ペット」という新たな役割が発生、
貴族の間でネコをペットとして飼うことがブームになりました。

清少納言の『枕草子』にもネコをかわいがる一条天皇のこんな描写があります;
「天皇のおそばに飼われている御猫は
位を授けられて“命婦のおとど”と名付けられている」

紫式部の『源氏物語』にもネコが登場します。
そのネコは首輪を付けられ、ヒモが結ばれていました。
当時はまだ数が少なく、貴重な動物だった故。



平安時代のネコは自由ではなかったのですね。

そんなネコを窮屈な生活から解放したのが徳川家康。
彼は徳川幕府を開く際に、
「ネコをつなぐべからず」
というお触れを出しました。

これには理由がありました。
戦国時代が終わり、平和な江戸時代が始まると、
江戸は急速な都市化により、ネズミの食害が社会問題化したのです。

家康はネズミ対策として紐でつながれていたネコを解き放ったのでした。
自由を得たネコは、本来のネズミ退治という役割を担うと共に、
爆発的に繁殖しました。

数が増えたため、庶民の間でもネコを飼う習慣が広まりました。

京丹後市にある金刀比羅神社境内の摂社「猿田彦神社」「木島神社」には眷属のところに狛犬ならぬ狛猫がいます。
京丹後市は昔からのちりめんの産地で、ちりめんの原料は生糸、そして生糸はネズミの大好物。
生糸を齧られると売り物になりません。
それを防止するためにネコを飼ってネズミを退治してもらい、
ネコを大事にするようになったそうな。

江戸時代にネコをこよなく愛し、仕事にも役立てた人物がいます。
それは浮世絵師の歌川国芳。
ネコを擬人化した浮世絵を数多く発表し、
江戸後期にネコブームを巻き起こしました。
代表作は「流行猫の曲手まり」


国芳がネコの絵を描き始めたのはキャリアの後半でした。
庶民の文化を描く浮世絵は大人気でしたが、
水野忠邦による倹約令「天保の改革」により娯楽や文化的なものが取り締まりを受け、
歌舞伎役者の他に遊女も扱った浮世絵は「風紀を乱す」と禁止されてしまいました。

そこで国芳はネコを擬人化して幕府を風刺する絵を描き始めたのでした。
代表作は「猫の百面相」。



当時の人気歌舞伎俳優の顔を模したネコたちですが、
庶民はひと目見てそのネコが役者の誰だかわかったそうです。
このような国芳の猫絵は、政治に不満を持つ庶民に人気を博し、
停滞していた浮世絵界を救う大ヒットとなりました。

直球勝負ではなく、変化球勝負をしたのですねえ。
猫を使った風刺というと、明治時代に有名な文学作品があります。
『吾輩は猫である』(夏目漱石著)は国芳の猫絵の延長線上にあるのかもしれないですね。

昭和時代はペットと云えばイヌがメインだったでしょうか。
平成、令和ときて、ネコが人気で上回った感があります。
世間では「イヌ派」「ネコ派」と分かれるようですが、私はどちらかなあ・・・。

ここからは私のネコに関する経験談・思い出です。

私はペットを飼ったことがありません。
母親が大の動物嫌いだったので。

幼少期によく捨て猫とか捨て犬を拾ってきた私。
そのたびに母親に叱られて、拾ってきた場所に戻すことを繰り返しました。

少年期には“猫屋敷”化している親戚の家がありました。
野良猫を餌付けしている内に居着いてしまい、
10匹弱のネコが出入りしていました。
個性があって、中には人なつこいネコもいました。

そうそう、大学生時代に居候していた家庭教師先にもネコがいました。
ブルーペルシャという、あまり見かけない種類。
かわいいと云うより優雅でゴージャスな雰囲気をまとったネコでした。
雪の降る寒い夜、換気のために窓を少し開けておくと、
いつの間にか忍び込んで私の蒲団に潜り込んできたので湯たんぽ代わりになりました。
写真は残っていないなあ。
ネットで見かけた写真ではこれが雰囲気が似ているかな;


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地方の神社の名前・祭神のルーツについて

2021年02月20日 17時09分44秒 | 原発
先日、探したいた書籍を古本で見つけて購入しました。
発売当時の価格の倍の値段で。
こういう貴重な本は、見つけたときに買わないとずっと買えないので思い切りました。

本の名前は「上州のお宮とお寺〜神社編」近藤義雄、丸山知良著
(上毛新聞社、1978年発行)

題名通り群馬県のめぼしい神社の紹介本です。
目次を見ると、参拝したことのある神社とない神社が半々くらい。

神社の名前って、地方により同じものが複数あることが多いですよね。

なぜなんだろう?

それから、有名な神社の名前と同じ名前もよく見かけます。

なぜなんだろう?

私は大きな御神木がある神社をメインに参拝する趣味がありますが、山里の神社の中には神社名がはっきりしない「山神社」という名前にたどり着くこともあります。
そんな、いろいろな神社名がある理由を、この本の前書きがわかりやすく説明してくれているので紹介します。

 現在では大抵の神社に特定の祭神の名が定められているが、古くは大部分の神が山の神、川の神、井戸の神、竈の神などと呼ばれ、特定の祭神はほとんどなかった。そして多くの神は我々を守護してくれるもので、例えば田植えの頃になればサオリと称して山から神が降臨して田畑を守り、収穫が終わるとサノボリと称して神はお帰りになると信じられてきた。
 しかし、やがて人々の住む近くに社が建てられ、神は身近に常におわしますようになった。
 このような地の神に対し、人々の交流がさかんになると他国の神も入ってきた。各地の有力な神社は、御師と称する神人団をもって侵攻の拡大を図り、講社をつくって代参者を招き、ついには村人は他国の神を村に勧請してお宮をつくるようになった。熊野神社などはその代表的な例といえよう。
 他国の神が祀られるようになったもう一つの要因は、有力な豪族が村に入ってきたときである。豪族は一族の氏神を新しい土地に来ても祀るようになり、村人もその神をともに崇拝するようになっていった。そのよい例が八幡神社である。八幡神は源氏の氏神として尊崇されていたので、新田氏などが地方に勢力を伸ばしてくると、各地に八幡神が祀られるようになり、ときには地の神と合わせて祀られたりして定着化していった。

なるほど、なるほど・・・。

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鬼怒鳴門

2021年02月04日 14時03分35秒 | 原発
録画してあった番組を、梅原猛氏つながりで視聴しました。

■ 耳をすませば「“知の巨人”からのメッセージ〜梅原猛、ドナルドキーン〜」

梅原猛氏は前項と重複するので省略します。

ドナルド・キーン氏はニューヨーク生まれのアメリカ人。
頭脳明晰で飛び級を繰り返し、16歳でコロンビア大学に入学しました。
しかし時代は第二次世界大戦中。
毎日暗いニュースばかりが耳に入ってきます。

そんなある日、古本屋で一冊の本と運命的に出会います。
それは英訳された「源氏物語」。
戦争相手国である日本の1000年前の小説です。
そこには、人間の内面の美しさが描かれており、彼は魅了されました。

キーン氏は日本に興味を持ち、海軍の日本語学校で学び、
日本兵が死ぬ前に残した日記を翻訳する作業に従事しました。

“命知らずの鬼のような敵兵”と思い込んでいた人々が残した日記は、
人間味あふれる素直な魂の叫びでした。

終戦後、彼は日本に渡り、日本文学を研究し始めました。

例えば、戦争中に谷崎潤一郎が書いた「細雪」。
そこには戦争の影はなく、日本の旧家の佇まいが淡々と描かれていました。
「谷崎は消えゆく日本文化を書き残したかったのではないだろうか」
とキーン氏は分析しています。

研究すると共に日本文学を英訳し、世界に紹介しました。

ノーベル賞選考委員会から意見を求められたキーン氏は、
1人の作家を推薦しました。
後にノーベル文学賞を受賞することになる川端康成氏です。

いつしか、キーン氏は日本文学研究の第一人者として、
世界に知れ渡る人物になっていました。

時は流れ、2011.3.11に東日本大震災が発生しました。

すべてを失って悲嘆に暮れる人々の姿。
食料の配布を受ける人々は整然と並んで争いが起きない光景を見たキーン氏は、
作家・高見順の「敗戦日記に描かれた一シーンを思い出しました。

母親を田舎に疎開させるために向かった上野駅。
同じような事情の人々でごった返していました。
しかし、電車を待つ大勢の人々は、押し合ったり争うのではなく、
やはり整然と並んで自分の順番を待っていたのでした。

その光景に感銘を受けた高見順は、こう書き残しました。
「私はこのような人たちと一緒に生きたい」
「私はこのような人たちと一緒に死にたい」

その二つの光景に日本人の資質を感じ入ったキーン氏の中で、
「私も日本人になりたい」
という決意が生まれました。

そしてキーン氏は2013年に日本に帰化し、日本国籍を取得したのでした。
その際のインタビューでは、
「震災のあと、外国人は日本から逃げた」
「でも私は違う、私は日本人を信じている、私は日本人になりたい」
とコメントされていました。

題字の「鬼怒鳴門」はキーン氏の日本名で、
「きーんどなるど」と読みます。

2019.2.24 没。
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東 浩紀、梅原 猛に会いに行く

2021年01月30日 07時11分56秒 | 原発
昔々に録画して、ずっと気になっていた番組をようやく視聴できました。

「3.11後を生きる君たちへ 〜東浩紀 梅原猛に会いにいく〜」

昔すぎて、番組内容紹介がネット上に残っていません(^^;)。

言論界の若手のホープであった東 浩紀(あずま ひろき)氏が、
哲学界の長老である梅原 猛氏を訪ねてインタビューをする、という企画です。

東氏は当時、現代日本の社会現象をどう読み解くかという研究に没頭していました。
著作もあり、「言論界の若手ご意見番」という存在でしゃべりまくりました。

そして「東日本大震災」(2011.3.11)に遭遇しました。
現地を訪問した東氏は、そのあまりの惨状に言葉を失いました。
この震災被害をどう捉えて、どう表現して、どう人々に伝えるか・・・
その術が見つからないことに、彼自身がショックを受けました。

「自分の世代は、東日本大震災を語る言葉を持ち合わせていないのではないか?」
自問自答の末、
「日本の歴史・思想を俯瞰して研究してきた哲学者、梅原氏はどう捉えて言葉にするのだろう?」
と頭に浮かび、梅原氏に教えを請うため、京都東山の梅原宅を訪れたのでした。

梅原氏は当時87歳。
外見は隠居老人のようですが、
一旦話を始めると、眼光鋭く、発する言葉の端々に力強さを感じました。

梅原氏は語ります;

【西洋哲学の限界を知る】
「東日本大震災に伴う原発事故を知った後、これをどう捉えるべきなのか、西洋哲学を今一度検証した」
「すると、西洋哲学に限界があることを突き止めた」
「エジプトは自然崇拝の文明であり太陽と水を信仰していた農業文明だった」
「しかしギリシャ文明で自然崇拝が消えてしまった」
「ギリシャ文明は海賊文明、征服して剥奪する文明であった」
「そこから派生してヨーロッパ文明が発達した」
「その思想の象徴は、デカルトの“我思う、故に我あり”である(17世紀前半)」
「デカルトの言葉には“自然は数式化して支配できる”という続きがあり、人間中心、天動説的概念であった」
「その流れで科学が発展し、確かに多大なる恩恵を人類に与えた」
「科学の発展の最終到達点が原子力である」
「莫大なエネルギーを得られる反面、使い方を誤ると多くの被害が発生する」

【西洋文明を取り入れ、その弊害を被った日本】
「日本は西洋文明をいち早く取り入れて、アジアで唯一植民地化を免れた国である」
「科学技術も貪欲に取り入れて西洋に追いつけ追い越せで発展してきた」
「しかし科学の究極の成果である原子力の被害を、不幸なことに2回も経験することになった」
「1回目は広島・長崎の原爆投下、2回目は東日本大震災の原発事故である」

【日本は世界の文明に自然との共存という方向付けを】
「欧米にとって、原爆・原発事故は当事者になっていないため、一部他人事である」
「だから日本人が西洋人に訴える必要がある」
「人間中心に展開してきた西洋哲学に基づく西洋文明の方向はこれでいいのか、と投げかけるべきである」
「日本の哲学である自然と共存する信仰、仏教の“草木国土悉皆成仏”(※)という考えを取り入れるべきではないか、とアドバイスすべきである」

※ 草木や国土のように心をもたないものでさえ、ことごとく仏性があるから、成仏するということ(仏教用語)

東氏に同行した若者達からも質問が出ました。

「東日本大震災の被害を受けて亡くなった人々に、我々はどう向き合えばよいのでしょうか?」

梅原氏の回答は、

【戦死者・原発被害者へどう向き合うか】
「累々と重なる死体は、第二次世界大戦が終わったときのことを思い出させる」
「戦地で勇敢に戦って命を落とした兵士に比べ、私は“生き残った後ろめたさ”をずっと感じて生きてきた」
「おそらく私の世代の日本人は、口には出さないが、多かれ少なかれ誰しも同じ感情を持ち合わせている」
「原爆で亡くなったたくさんの日本人の視線も感じる」
「なぜ私は死ななくてはならなかったのか、教えてほしい、と」
「生き残った我々は、非業の死を遂げた人々に申し訳が立つように生き延び、彼らの代弁をする義務があるのではないだろうか?」

「津波被害・原発事故でも同じ事だと思う」
「彼らは科学文明の被害者として我々の身代わりとして亡くなっていった」
「それを反省・検証し、次の世代に生かす役割・義務を君たちは負っていると思う」

以上、一字一句は正確ではありませんが、私が受け止めた内容です。

“京都学派”という言葉があります。
東京大学の学者達の王道を行く学問と比較し、
より広い視点から捉えた学問という意味だと私は感じています。
梅原猛氏しかり。
中沢新一氏(文化人類学者・宗教史学者)なども複数のフィールドを股にかけた思索で活躍されています。
ときどき、小松左京氏(SF作家)のような才能も出てきます。

梅原氏の学問のはじまりは西洋哲学でしたが、
そこに限界を感じて日本や仏教の研究を始め、
日本の歴史の底流に流れる思想を解き明かし、
「梅原日本学」と呼ばれるレベルまでに到達しました。
その一般向けの啓蒙書はベストセラーになり、
私も何冊か読んだことがあります。

歴史家からは「検証が甘い」「想像で書いている」などと非難を受けることもあったようですが、
その斬新な視点はインパクトがあり、日本中が魅了されました。

梅原氏は2019年1月に93歳で亡くなりました。
たくさんの知的財産を残していただいたことに感謝します。

合掌。

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