知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

地方の神社の名前・祭神のルーツについて

2021年02月20日 17時09分44秒 | 原発
先日、探したいた書籍を古本で見つけて購入しました。
発売当時の価格の倍の値段で。
こういう貴重な本は、見つけたときに買わないとずっと買えないので思い切りました。

本の名前は「上州のお宮とお寺〜神社編」近藤義雄、丸山知良著
(上毛新聞社、1978年発行)

題名通り群馬県のめぼしい神社の紹介本です。
目次を見ると、参拝したことのある神社とない神社が半々くらい。

神社の名前って、地方により同じものが複数あることが多いですよね。

なぜなんだろう?

それから、有名な神社の名前と同じ名前もよく見かけます。

なぜなんだろう?

私は大きな御神木がある神社をメインに参拝する趣味がありますが、山里の神社の中には神社名がはっきりしない「山神社」という名前にたどり着くこともあります。
そんな、いろいろな神社名がある理由を、この本の前書きがわかりやすく説明してくれているので紹介します。

 現在では大抵の神社に特定の祭神の名が定められているが、古くは大部分の神が山の神、川の神、井戸の神、竈の神などと呼ばれ、特定の祭神はほとんどなかった。そして多くの神は我々を守護してくれるもので、例えば田植えの頃になればサオリと称して山から神が降臨して田畑を守り、収穫が終わるとサノボリと称して神はお帰りになると信じられてきた。
 しかし、やがて人々の住む近くに社が建てられ、神は身近に常におわしますようになった。
 このような地の神に対し、人々の交流がさかんになると他国の神も入ってきた。各地の有力な神社は、御師と称する神人団をもって侵攻の拡大を図り、講社をつくって代参者を招き、ついには村人は他国の神を村に勧請してお宮をつくるようになった。熊野神社などはその代表的な例といえよう。
 他国の神が祀られるようになったもう一つの要因は、有力な豪族が村に入ってきたときである。豪族は一族の氏神を新しい土地に来ても祀るようになり、村人もその神をともに崇拝するようになっていった。そのよい例が八幡神社である。八幡神は源氏の氏神として尊崇されていたので、新田氏などが地方に勢力を伸ばしてくると、各地に八幡神が祀られるようになり、ときには地の神と合わせて祀られたりして定着化していった。

なるほど、なるほど・・・。

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鬼怒鳴門

2021年02月04日 14時03分35秒 | 原発
録画してあった番組を、梅原猛氏つながりで視聴しました。

■ 耳をすませば「“知の巨人”からのメッセージ〜梅原猛、ドナルドキーン〜」

梅原猛氏は前項と重複するので省略します。

ドナルド・キーン氏はニューヨーク生まれのアメリカ人。
頭脳明晰で飛び級を繰り返し、16歳でコロンビア大学に入学しました。
しかし時代は第二次世界大戦中。
毎日暗いニュースばかりが耳に入ってきます。

そんなある日、古本屋で一冊の本と運命的に出会います。
それは英訳された「源氏物語」。
戦争相手国である日本の1000年前の小説です。
そこには、人間の内面の美しさが描かれており、彼は魅了されました。

キーン氏は日本に興味を持ち、海軍の日本語学校で学び、
日本兵が死ぬ前に残した日記を翻訳する作業に従事しました。

“命知らずの鬼のような敵兵”と思い込んでいた人々が残した日記は、
人間味あふれる素直な魂の叫びでした。

終戦後、彼は日本に渡り、日本文学を研究し始めました。

例えば、戦争中に谷崎潤一郎が書いた「細雪」。
そこには戦争の影はなく、日本の旧家の佇まいが淡々と描かれていました。
「谷崎は消えゆく日本文化を書き残したかったのではないだろうか」
とキーン氏は分析しています。

研究すると共に日本文学を英訳し、世界に紹介しました。

ノーベル賞選考委員会から意見を求められたキーン氏は、
1人の作家を推薦しました。
後にノーベル文学賞を受賞することになる川端康成氏です。

いつしか、キーン氏は日本文学研究の第一人者として、
世界に知れ渡る人物になっていました。

時は流れ、2011.3.11に東日本大震災が発生しました。

すべてを失って悲嘆に暮れる人々の姿。
食料の配布を受ける人々は整然と並んで争いが起きない光景を見たキーン氏は、
作家・高見順の「敗戦日記に描かれた一シーンを思い出しました。

母親を田舎に疎開させるために向かった上野駅。
同じような事情の人々でごった返していました。
しかし、電車を待つ大勢の人々は、押し合ったり争うのではなく、
やはり整然と並んで自分の順番を待っていたのでした。

その光景に感銘を受けた高見順は、こう書き残しました。
「私はこのような人たちと一緒に生きたい」
「私はこのような人たちと一緒に死にたい」

その二つの光景に日本人の資質を感じ入ったキーン氏の中で、
「私も日本人になりたい」
という決意が生まれました。

そしてキーン氏は2013年に日本に帰化し、日本国籍を取得したのでした。
その際のインタビューでは、
「震災のあと、外国人は日本から逃げた」
「でも私は違う、私は日本人を信じている、私は日本人になりたい」
とコメントされていました。

題字の「鬼怒鳴門」はキーン氏の日本名で、
「きーんどなるど」と読みます。

2019.2.24 没。
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東 浩紀、梅原 猛に会いに行く

2021年01月30日 07時11分56秒 | 原発
昔々に録画して、ずっと気になっていた番組をようやく視聴できました。

「3.11後を生きる君たちへ 〜東浩紀 梅原猛に会いにいく〜」

昔すぎて、番組内容紹介がネット上に残っていません(^^;)。

言論界の若手のホープであった東 浩紀(あずま ひろき)氏が、
哲学界の長老である梅原 猛氏を訪ねてインタビューをする、という企画です。

東氏は当時、現代日本の社会現象をどう読み解くかという研究に没頭していました。
著作もあり、「言論界の若手ご意見番」という存在でしゃべりまくりました。

そして「東日本大震災」(2011.3.11)に遭遇しました。
現地を訪問した東氏は、そのあまりの惨状に言葉を失いました。
この震災被害をどう捉えて、どう表現して、どう人々に伝えるか・・・
その術が見つからないことに、彼自身がショックを受けました。

「自分の世代は、東日本大震災を語る言葉を持ち合わせていないのではないか?」
自問自答の末、
「日本の歴史・思想を俯瞰して研究してきた哲学者、梅原氏はどう捉えて言葉にするのだろう?」
と頭に浮かび、梅原氏に教えを請うため、京都東山の梅原宅を訪れたのでした。

梅原氏は当時87歳。
外見は隠居老人のようですが、
一旦話を始めると、眼光鋭く、発する言葉の端々に力強さを感じました。

梅原氏は語ります;

【西洋哲学の限界を知る】
「東日本大震災に伴う原発事故を知った後、これをどう捉えるべきなのか、西洋哲学を今一度検証した」
「すると、西洋哲学に限界があることを突き止めた」
「エジプトは自然崇拝の文明であり太陽と水を信仰していた農業文明だった」
「しかしギリシャ文明で自然崇拝が消えてしまった」
「ギリシャ文明は海賊文明、征服して剥奪する文明であった」
「そこから派生してヨーロッパ文明が発達した」
「その思想の象徴は、デカルトの“我思う、故に我あり”である(17世紀前半)」
「デカルトの言葉には“自然は数式化して支配できる”という続きがあり、人間中心、天動説的概念であった」
「その流れで科学が発展し、確かに多大なる恩恵を人類に与えた」
「科学の発展の最終到達点が原子力である」
「莫大なエネルギーを得られる反面、使い方を誤ると多くの被害が発生する」

【西洋文明を取り入れ、その弊害を被った日本】
「日本は西洋文明をいち早く取り入れて、アジアで唯一植民地化を免れた国である」
「科学技術も貪欲に取り入れて西洋に追いつけ追い越せで発展してきた」
「しかし科学の究極の成果である原子力の被害を、不幸なことに2回も経験することになった」
「1回目は広島・長崎の原爆投下、2回目は東日本大震災の原発事故である」

【日本は世界の文明に自然との共存という方向付けを】
「欧米にとって、原爆・原発事故は当事者になっていないため、一部他人事である」
「だから日本人が西洋人に訴える必要がある」
「人間中心に展開してきた西洋哲学に基づく西洋文明の方向はこれでいいのか、と投げかけるべきである」
「日本の哲学である自然と共存する信仰、仏教の“草木国土悉皆成仏”(※)という考えを取り入れるべきではないか、とアドバイスすべきである」

※ 草木や国土のように心をもたないものでさえ、ことごとく仏性があるから、成仏するということ(仏教用語)

東氏に同行した若者達からも質問が出ました。

「東日本大震災の被害を受けて亡くなった人々に、我々はどう向き合えばよいのでしょうか?」

梅原氏の回答は、

【戦死者・原発被害者へどう向き合うか】
「累々と重なる死体は、第二次世界大戦が終わったときのことを思い出させる」
「戦地で勇敢に戦って命を落とした兵士に比べ、私は“生き残った後ろめたさ”をずっと感じて生きてきた」
「おそらく私の世代の日本人は、口には出さないが、多かれ少なかれ誰しも同じ感情を持ち合わせている」
「原爆で亡くなったたくさんの日本人の視線も感じる」
「なぜ私は死ななくてはならなかったのか、教えてほしい、と」
「生き残った我々は、非業の死を遂げた人々に申し訳が立つように生き延び、彼らの代弁をする義務があるのではないだろうか?」

「津波被害・原発事故でも同じ事だと思う」
「彼らは科学文明の被害者として我々の身代わりとして亡くなっていった」
「それを反省・検証し、次の世代に生かす役割・義務を君たちは負っていると思う」

以上、一字一句は正確ではありませんが、私が受け止めた内容です。

“京都学派”という言葉があります。
東京大学の学者達の王道を行く学問と比較し、
より広い視点から捉えた学問という意味だと私は感じています。
梅原猛氏しかり。
中沢新一氏(文化人類学者・宗教史学者)なども複数のフィールドを股にかけた思索で活躍されています。
ときどき、小松左京氏(SF作家)のような才能も出てきます。

梅原氏の学問のはじまりは西洋哲学でしたが、
そこに限界を感じて日本や仏教の研究を始め、
日本の歴史の底流に流れる思想を解き明かし、
「梅原日本学」と呼ばれるレベルまでに到達しました。
その一般向けの啓蒙書はベストセラーになり、
私も何冊か読んだことがあります。

歴史家からは「検証が甘い」「想像で書いている」などと非難を受けることもあったようですが、
その斬新な視点はインパクトがあり、日本中が魅了されました。

梅原氏は2019年1月に93歳で亡くなりました。
たくさんの知的財産を残していただいたことに感謝します。

合掌。

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「イザベラバードの日本紀行」(by 三谷幸喜)

2020年08月15日 14時49分45秒 | 原発
 イザベラ・バードは、明治初期に日本を1人で旅行したイギリス人女性。
時々TV番組で取りあげられるので、なんとなく概要は把握しています。
彼女の著作も何冊か所有していますが、TV内容で満足してしまってほとんどインテリア化。

 以前、栃木県の日光金谷ホテルに宿泊した際、ヘレン・ケラーやアインシュタインの宿泊記録と共に、バードのサインも展示されていたことを記憶しています。

 さてこの度、YouTubeでラジオドラマ仕立ての日本紀行を見つけました。
演出は三谷幸喜。
1時間半くらいで、ダイジェスト版を聞くことが出来ます。



 日光金谷ホテルの前身である宿屋についての記述はとても好ましもので、彼女がここの宿泊を心の底から楽しんでいた様子がうかがわれます。
なにせ、他の宿はおしなべてノミにまみれ、障子の穴からたくさんの目に覗かれ続けて、心休まる暇がなかったのですから。
 函館に教会に到着して鍵のついた洋風の部屋でくつろぐ喜びを述べる下りは、本当にうれしそうで、他の宿がいかにひどかったかが想像されます。

 青森県の黒石で出会った七夕祭りの描写は、幻想的な光の祭典に虜になった様子がありありと感じられます。
 この祭、現在の「ねぷた祭」の原型であると解説されていました。

 私は大学生時代、青森県の弘前市で過ごしたので、ねぷた祭を少し覗いたことがあります。まだ電気のなかった時代に、提灯の明かりが飛び交うさまは、さぞかし魅力的だったことでしょう。

 全体を通してバードが描写し感心しているのは、出会った日本人たちの真面目さと律儀さ。
車夫やお茶処で向こうに少しでも粗相があると、頑として料金を受け取らない。子どもはよく教育されており、礼儀正しい。

 なんだか現在の日本の方が乱れているような気がしてきました。

 ただ、服装や外見はけちょんけちょんに表現しています。「みすぼらしい」「きたない」などの単語がポンポン出てくるのです。

 総じて、明治時代初期の庶民の生活を描写した貴重な資料になっていると思います。自分の祖先達は、こんな感じで生活していたんだなあ。


イザベラ・バードの日本紀行
 J-WAVE開局25周年記念の特別番組として、10月1日から放送される「UNBEATEN TRUCKS IN JAPAN イザベラ・バードの日本紀行」のテーマ音楽を久石譲が担当いたしました。
 同番組は、明治維新直後の日本各地を旅したイギリスの旅行作家イザベラ・バードの書簡集『イザベラ・バードの日本紀行』をもとに、三谷幸喜氏がリーディングドラマとして作品化したもの。
企画・構成・演出・ナビゲーター:三谷幸喜 
朗読:松たか子 音楽:久石譲 放送日:2013年10月1日(火)ー10月11日(金)23:45-24:00 放送局:J-WAVE (81.3FM)
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日曜美術館「疫病をこえて、人は何を描いてきたか」

2020年07月18日 14時36分16秒 | 日本人論
疫病を描く・・・というと、日本の昔の疱瘡絵(疱瘡予防のお守りとしての絵)を思い出します。
はて、病はどんな姿で画かれてきたのか、ちょっと興味があります。
少し前に録画してあった番組を見てみました。

日曜美術館(2020.4.19 NHK-Eテレ



<内容>
「疫病」をテーマとした美術をとりあげ、人間はどのように疫病と向き合い乗り越えてきたかを探る。小池寿子さん(西洋美術史)は中世ペスト期のイタリア壁画を読み解き、疫病の流行を経てルネサンスが準備されたと語る。山本聡美さん(日本美術史)は疫病を〈鬼〉の姿で表した絵巻を例に、可視化することで制御し病と折り合おうとしたと解説。ネットで護符として流行の妖怪「アマビエ」も登場、〈心が前に向く美術〉をご一緒に。
この番組では、もっと昔に遡り、平安朝の絵巻に疫病が「鬼」として描かれていたと教えてくれました。

しかし、恐ろしい鬼というより、ちょっとユーモラスな印象。
おそらく、姿の見えない疫病への恐怖を、見える化して不安をやわらげる効果を期待したのだろう、と解説されました。

なるほど。

さて、それから800年が経った現在、日本は新型コロナウイルス流行に揺れています。
そこで突然登場したのが「アマビエ」という妖怪。


(⇩)これをパクった厚労省のCOVID-19感染拡大防止ロゴ

歴史を紐解くと、江戸時代末期に熊本県地方のかわら版に描かれたくらいの資料しか見当たらないそうです。
そこには、髪の毛が長くて、口がクチバシのように尖り、体は魚の姿をした、やはりちょっとユーモラスな姿をした妖怪が描かれています。
その妖怪は海から現れて、「私を書き写して人に見せなさい」と言い残して去って行きます。
別に見せたから疫病退散の御利益があるとか、一言も言っていません。

でも、SNS上で活躍する某漫画家がこれを取りあげ拡散したところ、現代人の不安な心に刺さってブームになったという経緯らしいです。

実は「アマビエ」、「海彦」(アマビコ)が変化したモノという説もあるそうです。
アマビコは三本足の猿の顔をした妖怪で、やはり疫病退散の御利益があるらしい。


さて、番組ではヨーロッパの絵も扱っていました。
想像通り、疫病は「悪魔」として描かれていました。

13世紀のヨーロッパで猛威を振るったペスト(黒死病)は、人口の3割を死に追いやった病。
キリスト教が普及していた当時のヨーロッパでは、病は「罪を背負った人間に神の与えた試練」と考えられていました。
だから神に祈れば救われるはず・・・しかし祈れども祈れども人はバタバタ死んでいく・・・神は人を救ってくれない、キリストはウソではないか?
とキリスト教社会を終焉させるキッカケにもなりました。

そして人々は病と向き合うようになり、当時流行したのがセレブと死人が手をつないで踊る「死の舞踏」というモチーフの絵画だそうです。


その先には、生きていることの素晴らしさを再認識するルネサンスが到来します。

ペストが中世を終わらせ、ルネサンスを導いたのですね。

さて、現在に戻ります。
新型コロナウイルス流行は人類に何をもたらすのでしょうか。
一定の比率で高齢者の命が奪われることは覚悟しなければなりません。
しかし、それよりも心配なのは、人々の心のありようです。

新型コロナに対峙して、
人類は協力して克服するのか?
人類は他罰的になり分断して疲弊するのか?
残念ながら、現時点では後者の色が濃いようです。


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