知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

インドの仏 2500年の謎 ~仏教美術の源流に迫る~(BSテレ東、2015年)

2020年07月12日 15時42分51秒 | 原発
5年前に録画してあった番組を、ふと視聴してみました。

仏像、実はあまり興味がありません。
「なぜなんだろう?」
と自問自答してみると、
やはり一神教系に違和感を覚えるから、かもしれません。

根っこは同じであるユダヤ教、キリスト教、イスラム教が一神教の代表ですが、
信仰心が強いほど、結束が固いほど排他的になり、
それが宗教間の争いに発展し、多くの人間が命を落としてきた歴史上の事実があります。

日本の宗教、というか民間信仰はアニミズム(万物に神が宿る)思想がベースで、
ほかの宗教を受け入れやすい素地があり、排他的な考えに発展しにくい。

宗教談義はこの辺にしておきましょう。

さて仏像です。
昨今、仏像マニアがブームになりつつあり、
「◯◯女子」のノリで、「仏像ガール」という造語もあります。
仏像を見て回り、「かわいい!」を連発する彼女らの姿を見ていると、また違和感。
ヒトの価値観はそれぞれだから、善し悪しの問題ではありませんけど、ね。

仏像鑑賞の本も何冊か購入して何冊か斜め読みしましたが、既に忘却の彼方。

こんなひねくれたアラ還のおじさんが、仏像の由来をテーマにした番組を見てみました。
案内役は、仏像ブームの牽引役であるいとうせいこう氏とみうらじゅん氏のコンビ、
プラス、仏像ハンター福田麻衣。


<みどころ>
「仏像好き」「インド好き」を自認するみうらじゅんといとうせいこうが、コルカタ・インド博物館の秘仏を徹底解剖。様々なユニークな視点から、「仏像の起源」や「仏像の違い」を紐解き、インドの仏の楽しみ方を伝えます。また、釈迦の足跡をインドに辿りながら、仏像が作られていった理由や謎に迫ります。
<内容>
紀元前327年のアレキサンダー大王の遠征。その後、インドのガンダーラの地に多くのギリシャ人が残り、仏像が生まれた。これらの仏像文化は、日本の仏教にも様々な影響を及ぼしている。 インドの仏像文化を知ることは、日本の仏教をより理解することに繋がる。仏教誕生の地インドで、2500年を越えて繰り広げられた仏教美術の源流に迫る。 共に、「仏像好き」「インド好き」を自認するいとうせいこうとみうらじゅんが、アジア最古の総合博物館「コルカタ・インド博物館」の秘仏を徹底解剖。様々なユニークな視点から、「仏像の起源」や「仏像の違い」を紐解き、インドの仏の楽しみ方を視聴者に伝える。
なぜ仏像の頭はパンチパーマ?シースルーで裸同然の仏像が存在するのはなぜ?なぜインドの仏像はセクシーなものが多い? などなど。
数々の「小さい」が「深い」疑問を、仏像が誕生した謎とともに解き明かしてゆく。 また、シルクロードに沿ってインドから西域、中国、朝鮮そして日本へと仏教の伝来をダイナミックに切りながら、仏像の進化・発展を追う。
盛者必衰。
栄華を極めた仏教も、12世紀にイスラム軍の攻撃にあい、その勢いは急激に衰えていく。盛者必衰の理が胸をつく。しかし…仏教はしたたかに生き残っていた。 釈迦はクリシュナ女神と同じように、ヒンドゥーの世界ではヴィシュヌ神の化身のひとつとされている。文化を残してゆくための執念とも呼べるその思いこそ、今の時代を生きる私たちが忘れてはならことなのではないだろうか…。
<プロデューサーからの一言>
 インドは何十回と訪れているが、じっくりインドの仏像を見たことがなかった。今回はディレクターとしてもインドロケに出かけ、釈迦の足跡を辿りながらとにかく仏像を見まくるという贅沢な経験をさせてもらった。多分、今回の番組だけでインドの仏像を100体は見ただろうか。そして気がついたことがある。 「インドの仏は『妖怪ウォッチ』と同じだ」と。 インドの仏像は、ヒンドゥー教やバラモン教という他宗教と巧みに融合しながら、また、いいとこ取りしながら、2500年の間に“進化”していった。『妖怪ウォッチ』で子どもたちを虜にしているように、その「バージョンの多様性」で人々を魅了し、生き残ってきたのだ。信者を飽きさせることなく、いろいろな仏を次々に生み出し続けたその“底知れない”パワーを、番組を通して是非皆さんに楽しんでいただきたいと思っている。

いや〜、興味深い。
初めて知った事実が目白押しでした。

いわゆる仏像は、釈迦が悟りを開いて仏陀となり入滅後、500年間は作られなかったとのこと。
その理由は、祈る対象として「塔」(ストゥーパ、釈迦の骨が保存されている)が既に存在していたので必要性がなかったから。
現在も仏教の聖地では、信者達は仏像ではなく塔を礼拝しています。

それではなぜ、仏像が作られるようになったのか?

なんとここで、アレキサンダー大王の名前が出てきます。
彼は東へ進軍し、インドまで勢力下に置こうとしました。
闘いが終わり、彼が去った後にもガンダーラ地方(現在のパキスタン)に子孫は残り、ヘレニズム文明(ギリシャ系)を伝えました。
ギリシャ文明と言えば、人の姿をした神々が有名で、偶像がたくさん作られています。
その影響で、仏像が造られるようになりました。

ガンダーラ仏、すごい魅力的です。
西洋の彫りの深さに、東洋の神秘性が混じり合い、昇華した印象。
現代でもイケメン映画俳優として通用しそう。


時代が下ると、釈迦のほかに菩薩がつくられるようになりました。
その理由は、釈迦の役割は衆生救済ではなく、目標とする聖人なので、拝む対象にはなり得なかったから。
そのため、願いを聞いてかなえてくれる救済役の菩薩達が必要になったのです。

さらに時代が下り、斜陽を迎えた仏教は、生き残るためにインド土着の神々を取り入れ始めました。
古くから信仰されているヤクシャ(男神)、ヤクシー(女神)、
そしてヒンドゥー教の神々。
手がたくさんある千手観音、顔がたくさんある十一面観音、怒った顔の不動明王・・・
実はみな、ヒンドゥー教由来であり、
仏教オリジナルではないのですよ。
仏像ガールさん達、知っているのかな?
七福神もほとんどヒンドゥー教由来の神さまですよね。

もっとも、仏教が日本に伝来して広まる過程でも同じようなことが起きています。
日本の八百万の神々が仏となって現れた(あるいはその逆)とこじつけて浸透していった歴史があります。
「◯◯権現」というのがそのタイプです。
明治維新の際、「神仏分離令」が発令されて、ほとんど途絶えましたが。

日本の仏像は「中性」(男でも女でもない超越した存在)と説明されています。
女性のイメージがある観音さまも、実は女性ではありません。
一方、インドの神々は男神・女神が明確に分かれています。
男神はマッチョ系、女神はグラマー系。
写真はインドの博物館にあるヤクシー像ですが、仏像というよりベリーダンサーのような印象です。


ギリシャの女神よりもさらに女性らしい体の線が強調されています。
パンパンに張ったバストは豊かさの象徴であり、マニアの間では「丸乳」と呼ばれているそうです。
「豊穣をもたらす神は豊満でなければならない」という考えがベースにあると、
いとう&みうら氏が解説していました。

それから、インドから東へ伝わった大乗仏教は、盧舎那仏に代表される巨大化ももたらしました。

こう見渡すと、仏教といえども歴史の波にもまれて、生き残るために進化してきたことがわかり、
それはそれで感動的です。

私、なぜか昨年、突然ヒンドゥー教の神「ガネーシャ」(商売や学問の神)が欲しくなり、通販で2柱購入しました。
なぜだか自分にもわかりません(インドに呼ばれたのかな?)。

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源頼朝の実像

2019年12月28日 16時58分37秒 | 歴史
中学生時代、「いい国(1192年)造ろう鎌倉幕府」と語呂合わせで年代を覚えたことを記憶しています。
もう、40年以上も前になるのですねえ。
世界の国とその首都を覚え、友達同士でクイズに出し合ったことも。
今でも結構覚えています。

私はもともと、歴史に名を残す人物にはあまり興味がなく、歴史を底辺で支えてきた“ふつうの人々”の方に興味があるものですから。
なので、柳田国男、宮本常一、五木寛之氏などの本が好きです。

というわけで、源頼朝という武将について知っていることは、教科書の範囲内にとどまります。
ふと録画してあった番組を視聴したので感想を書き留めておきます。

頼朝が歴史の舞台に踊り出たとき、その年齢は13歳。
“保元の乱”で挙兵し、その後役職をもらいます。
しかし間もなく平清盛に追い出され、ふつうは打ち首になるところを母方の血筋の恩恵を被って流人として生き延びることができました。

流刑先の伊豆で約20年間過ごすことになりますが、慎重に時流を読んで平家打倒に挙兵します。
身内である親戚の木曽義仲や、弟の義経との確執もありましたが、結局勝ち残ったのは頼朝で“征夷大将軍”として政権を握ります。
しかし自分の娘を天皇家に嫁がせて覇権を握る一歩手前で病死してしまい、鎌倉幕府は長くは続きませんでした。

番組を通じて感じたのは、
・昔の人は簡単に死んでしまう。
・武士はどちらの味方に付くのかで運命が決まるので、空気を読む能力がないと生き残れない。

それから、義経との確執について。
頼朝は唯一の肉親である義経を信頼しかわいがり、鎌倉に呼び寄せて近くに置いておきたかったが、義経は京都から離れなかったため、自分の意に沿わぬ義経を徐々に危険視するようになり、最後は敵と見なして追討することになったと解説していました。
義経はAsperger症候群だったので、頼朝の心情を理解できずに単純明快な行動したので頼朝の反感を買った、という説もありますね。



にっぽん!歴史鑑定「流人から将軍へ!源頼朝の生涯」
2019年12月23日 BS-TBS
 今回は流人から将軍となった源頼朝の生涯を徹底鑑定!平清盛との戦いに父と共に参戦するも賊軍となり敗走!処刑される運命だったにも関わらず、頼朝はなぜ、伊豆への流罪で済んだのか?平家打倒を胸に秘めながら20年もの流人生活!伊豆での意外な暮らしぶりとは?そして、そこから如何にして味方を集め、挙兵したのか!?さらに、平家を滅亡させた功労者、弟の義経とまさかの対立!頼朝が実の弟を死に追い込んだ真相とは!?


<参考>
WEB歴史街道「源頼朝の生涯~流人から征夷大将軍へ
 久安3年4月8日(1147年 5月9日)、源頼朝が生まれました。河内源氏・源義朝の三男で、鎌倉幕府初代将軍です。
 熱田神宮大宮司藤原季範の娘・由良御前を母に生まれた頼朝は、父・義朝が保元の乱で勝利すると、母の家柄を背景に昇進を重ね、平治元年(1159)には13歳にして右近衛将監、二条天皇の蔵人に補任されました。しかし同年末の平治の乱で義朝は敗れ、東国へ落ちる途中で討死。捕らえられた頼朝は平清盛に処刑されるところを、池禅尼の嘆願で命を助けられ、伊豆に流されたといわれます。
 父や源氏一統の菩提を弔う伊豆での流人生活は、しかし決して楽なものではありませんでした。関東の豪族の中には父・義朝に力づくで臣従させられた者もおり、源氏の嫡流とはいえ一族の後ろ盾のない頼朝など、その気になればいつでも殺すことができます。頼朝にすれば、相手を侮らず、隙を与えず、己の面目を保たなくてはなりません。そうした緊張関係が、後の鎌倉幕府の厳格な御家人統制につながっていくことになります。
 治承2年(1178)頃、頼朝は地元の豪族・北条時政の娘・政子と婚姻を結びます。時に頼朝、32歳。2年後の治承4年、以仁王の平家追討の令旨を受け、頼朝は東国の諸豪族に参集を呼びかけて挙兵しますが、石橋山の合戦に敗れて安房へ逃亡。しかし房総、武蔵の武士を味方につけることに成功し、父や兄・義平とゆかりの深い相模国鎌倉を本拠とします。
 これに対し、平氏の追討軍が迫りますが、富士川の戦いでほとんど戦わずに勝利。また奥州から駆けつけた弟・義経を得て、東国の基盤を固める一方、義経らを代官として木曾義仲や平家一門を討たせました。さらに功を挙げた義経が頼朝の許しを得ずに任官すると、これを追放。義経が奥州藤原氏を頼ると、平泉に攻め込み、制圧しました。時に文治5年(1189)10月、治承4年以来、10年近く続いた内乱はここに幕を閉じます。
 文治元年には全国に守護・地頭を置くことの勅許を得て、武家政権の強化を着々と進める頼朝の前に、最後まで立ちはだかったのは後白河法皇でした。建久元年(1190)、頼朝は上洛し、征夷大将軍就任を望んだものの認められず、代わりに権大納言、右近衛大将に任ぜられます。しかし頼朝は任官から一月も経たぬうちに辞官して、鎌倉に戻りました。これについては後白河法皇が征夷大将軍を授けることを拒んだためとされますが、むしろ拒んだのは頼朝の方であったともいいます。
 実は幕府を開くについては、右大将もしくは辞官した後の前右大将でも可能でした。しかし頼朝はそれでよしとせず、後白河の崩御を待って征夷大将軍に就任するのです。なぜか。まず右近衛大将でよしとしなかったのは、職の性格が朝廷の近衛府の長官であり、朝廷から独立した武権の主の地位としては相応しくないと考えたからと見られます。その点、征夷大将軍は朝廷から独立して臨時軍政を布く権限を有しており、武家政権に適していました。
 また後白河の崩御を待ったのは、法皇によって将軍に任命されるかたちを避けるためです。法皇に任命されれば、逆に解任する権限も法皇が持つことになります。頼朝は特定の個人ではなく、国家から征夷大将軍に任命されることで、実は「天皇をも例外としない」統帥権を獲得しました。後の承久の乱において、その権限が機能するわけです。頼朝の狙いは外れなかったというべきでしょうか。
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令和時代の神社・お寺事情 2019

2019年10月07日 18時10分17秒 | 神社・神道
 私は大きな木が好きなので、それを求めてあちこちの神社やお寺を巡る趣味があります。
 御朱印がいただけるような有名な神社・お寺は少なく、山里の小さな神社やお寺が多いですね。
 たいてい、私以外参拝者はいません。
 
 現在神社とお寺の存続が危ぶまれる時代になり、テレビでもときどき報道されます。

 檀家が減ってきて経営が大変なお寺。
 うちのお寺の住職も、学校の先生を兼任しています。

 神社も地域の結びつきが薄れて、氏子達の団結力が低下してきました。
 「公民館」や「自治会館」を併設している神社は生き延びていますが、中には放置され荒れている神社も無きにしも非ず。

 昨今のお寺・神社事情を垣間見る記事を2つ紹介します。

“寺離れ、危機的…” 本来の姿を取り戻すために始まった、住職たちの挑戦 ガンダムから寺子屋まで
2019/9/27:中京テレビ
 あの手この手で生き残り。コンビニよりも数が多いといわれる、お寺の生き残り策を追いました。
 名古屋市中区の「東別院(真宗大谷派名古屋別院)」で先日開かれたイベント。集まったさまざまな世代の人たちの前で、芸を披露する現役のお坊さんたちの姿がありました。
 袈裟を着たお坊さんたちが、漫才やマジックを披露。でもなぜ、現役のお坊さんたちがマジックや漫才で人を楽しませるのでしょうか?
 4年前からお坊さん漫才として、お寺や施設で活躍する土井恵信さんと中村亮さん。2人は大学の同級生で共に現役のお坊さんです。漫才を始めたのには、お寺を取り巻く深刻な問題がありました。
「このお寺に生まれて小さい頃から本堂の行事とか見てきて、行事があるたびに多くの人が来てわいわいガヤガヤしてて。段々、人が減ってゆくさまをリアルタイムで見ている世代」(随縁寺 土井副住職)
「実際統計とった訳じゃないけど、感覚で…。いま本当に危機的な状況になってるのかなという気がします」(養蓮寺 中村住職)
 若い世代を中心とした深刻な“寺離れ”。それをなんとかふせごうと漫才を始めたのです。さらに、お盆の時期限定でビックリするような仕掛けも。
 なんと、人間と同じくらいの大きさのガンダム。近所の人が製作した木製ガンダムを、お盆の時期だけ借り本堂に置いたそうで、お参りとは別にわざわざガンダムを見にお寺にやって来た人もいたそうです。

◇ 1人の住職が複数のお寺を“かけもち”している
 “寺離れ”とともに深刻なのが「住職不在の空き寺問題」。
 全国にあるお寺の数は、コンビニより2万以上も多く、約7万5000といわれています。しかし、ある宗派の調査では、後継者不足などで1人の住職が複数のお寺を“かけもち”しているお寺は、全体の約2割にものぼるといいます。
“お寺に集まってもらう”、そのためにさまざまな取り組みが始まる中、10年近く住職が不在だったお寺を再生したところがありました。リフォーム中の、岐阜県関市の「勧修寺」の本堂。作業をしている方は、大工さんではありません。
 近くのお寺で住職をする傍ら、地域の人たちと一緒に、荒れていたお寺を今年4月に一部再生させました。

◇ モーニングを楽しんでいる
 お寺の一角では、モーニングを楽しむ人たち。10人ほどのボランティアが、カフェを運営しています。
 カフェの名前は、「寺子屋 いちょう庵」。月曜から木曜の朝、地域の人にモーニングを200円で提供しています。
「ここの女性の住職は平成22年にお亡くなりになられて、それから無住、誰も住んでいない状態がつづいたのです。人が集まれるような、お寺本来の姿に戻せないかという事で始めました」(岡田さん)

◇ 週に2回“寺子屋”も開催
 地域の人たちと約2年がかりで、作り上げたというカフェ。
 モーニングが終わって午後2時ごろになると、子どもたちがやってきました。まずは手を洗い、宿題を始める子どもたち。週に2日間、共働き世帯の子どもたちを受け入れているのです。
 ひとりで勉強や食事をするよりも、みんなでする方が楽しい。夕食も200円で、提供しています。
「葬儀・法事以外に、普段なにげなくみなさんが気楽に集まれるような、そんな場所だと思ってます」(岡田さん)


 次は岐阜県の「金神社」の話題。
 なんと「金の御朱印」がもらえるとSNSで広まり、行列が出来るようになったそうな。
 
 なんだかなあ・・・と思いきや、江戸時代の昔から神社仏閣は観光地でもあったので、あながち間違った方法というわけでもなさそう。
 地域興しのキッカケとしても役に立ちそうだし、まあいいか。

プレ金の成功例? 岐阜の神社で5000人が行列をつくる理由
2019/9/25: ITmedia ビジネスオンライン
 毎月最終金曜日、神社やお寺に約5000人が詰めかける――。岐阜市で見られるようになった光景だ。

【岐阜の神社や寺でもらえる「金の御朱印」】

 月末の金曜といえば、早帰りと個人消費喚起を促す「プレミアムフライデー」があるが、岐阜には地域独自の取り組みがある。それは「プレミアム金(こがね)デー」と呼ばれている。
 岐阜の“プレ金”はどのような日なのか。岐阜市とその周辺にある神社やお寺、約10カ所で「金の御朱印」がもらえる日だという。2017年5月にこの取り組みが始まると、御朱印を集める人たちだけでなく、“金運アップ”を願う人たちの心をつかんでいき、今では毎月たくさんの人が御朱印待ちの列をつくる。
 なぜ「金の御朱印」に地域で取り組んでいるのだろうか。プレミアム金デー当日、開催地の一つである、岐阜市内の「金(こがね)神社」に向かった。

◇ 最長5時間待ち 月1回の「金の御朱印」を始めたきっかけ
 8月30日金曜日。この日は朝から雨が降っていたが、次々と神社の敷地内に車が入ってくる。社務所の窓口を起点として、朝から行列ができていた。社務所の中では、金色の文字で神社名を書いたり、はんこを押したり、出来上がった御朱印を整理番号順に渡したりと、手分けして作業が進められている。
 「今日は雨が強くなる予報なので、(行列は)いつもの半分くらいですね」。そう話すのは、岐阜市でイベント企画などを手掛けるまちづくり団体「ひとひとの会」代表の佐藤徳昭さん。同団体がこの取り組みの仕掛け人だ。
 なぜ、この取り組みでは“金色”にスポットを当てているのか。それは、岐阜には「黄金」にまつわる場所が多いからだ。
 JR岐阜駅前の広場には、「岐阜」を命名し、本拠地としていた織田信長の黄金の像がある。また、“金”という名を持つ金神社には、黄金に塗られた大鳥居がある。そして、頂上に岐阜城が建つ「金華山」には、毎年5月ごろに黄色の花が咲くツブラジイの木が多く、“黄金に輝く山”として、その名前の由来になったという。
 こういったことに着目したひとひとの会が、岐阜の「黄金」を巡る観光ツアーを企画。その一環として、金神社に「金の御朱印を書いてほしい」と話を持ち掛けたのが始まりだ。ツアーで提供した金の御朱印がSNSで話題になり、問い合わせが殺到。ツアーの後も、続けて取り組んでいくことになった。
 ただ、常に金の御朱印を提供するわけでなく、“プレミア感”を出すために月1回限定に。17年2月に政府の呼びかけで始まったプレミアムフライデーにちなんで、「プレミアム金デー」と命名した。
 当初はSNSなどで告知し、「1日100人ぐらいが来ていた」(佐藤さん)。月を追うごとにその人数は増えていき、金神社は対応するための分業体制や整理番号制を構築。受け入れる体制が整ったころに新聞やテレビに取り上げられ、一気に注目を浴びた。「新聞に載った後は県外から来る人も増えて、(1日)700~800人に。テレビで取り上げられた後は、1500~2000人が大行列をつくり、5時間待ちになりました」(同)。平日の昼とは思えないような盛況ぶりだったという。
 佐藤さんらは岐阜信長神社(岐阜市)など他の神社や寺にも声をかけ、規模の拡大を目指した。金神社で参拝者が急増したことから、「やりたい」という声も上がるようになり、取り組みは広がっている。19年7月には、8カ所で計5300枚の金の御朱印を提供。8月には授与場所が10カ所に増えた。9月はさらに1カ所増え、11カ所になる。

◇ 1300年前の「国宝」をデザインした御朱印
 「実際に神社やお寺に足を運んでみると、重要文化財があったり、珍しい仏像があったりと、とても魅力があることに気付きます。地域に根付く神社やお寺の歴史を知って、拝んで帰る。現在はそういった習慣も少なくなってしまいましたが、それが本来の醍醐味なのでは」と佐藤さんは話す。金の御朱印が、地域を知ってもらうきっかけになるという。
 8月から取り組みに参加した、岐阜市の護国之寺(ごこくしじ)も、隠れた魅力を持ったお寺だ。岐阜市内唯一の国宝「金銅獅子唐草文鉢」を所蔵している。1300年前、奈良時代に作られた「こがねのお鉢」だ。
 護国之寺の副住職夫妻、廣瀬良倫さんと有香さんは「岐阜をもっと盛り上げたいと思い、(金の御朱印に)賛同しました」と口をそろえる。これまで積極的に国宝を宣伝してこなかったことから「最初は断った」というが、地域活性化につながること、そして国宝にちなんだ金の御朱印は他になかったことから、参加を決めた。
 御朱印は、授与する神社や寺によって個性が表れる。護国之寺では、国宝のお鉢をあしらった金の御朱印を考案。有香さんが「お鉢の写真を模写してデザインした」という。お鉢は文様に大きな特徴がある。獅子、唐草、雲などが非常に細かく刻まれており、これをデザインした御朱印は、目を凝らして見入ってしまうほどの美しさだ。
 7月にプレ開催として試行したところ、参拝者から「岐阜に国宝がある寺があるなんて知らなかった」「(お鉢と縁のある)奈良から来た」などという声があったという。良倫さんは「全国の人、そして地元の人にも、岐阜の隠れた魅力を知ってもらうきっかけになれば」と期待を寄せる。

◇ 「宿泊を伴う観光」につなげていく
 金の御朱印が話題になる一方で、問題も出てきた。「参拝の証として御朱印をいただく」ことが本来の楽しみ方だが、“収集”が目的になってしまい、ネットオークションで転売されることが増えてきたという。月1回しかもらえないという“プレミア感”もあり、高額で取引されてしまう。1枚300円でもらえる御朱印が数千円で落札されたケースもあったという。足を運んで参拝するという本来の意味をさらに発信していく必要がある。
 とはいえ、神社や寺が話題になり、人を集められるようになった効果は大きい。「参拝という習慣は、昔は当たり前のものでした。その意識が希薄になった今、愛好家だけでなく、幅広い人たちが来てくれることが刺激になっているようです。『腱鞘炎になるわ』などと言いながら、楽しそうに取り組んでくださっている姿が印象的ですね」と佐藤さんは話す。
 今後は、金の御朱印の集客力を地域経済に波及させることを目指す。「参拝に来た金曜の夜に岐阜に泊まってもらい、翌日は観光地や(金にまつわる)パワースポットを巡ってもらう。そんな形の観光を定着させられれば」(佐藤さん)。飲食店や宿泊施設などとの連携も模索している。
 御朱印の授与場所を広げて多くの人を集めるだけでなく、地域一丸となった取り組みとして、発信力を高めていく。それができれば、「金の御朱印」は観光誘客の大きな武器になっていくだろう。


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高松塚壁画のヒミツ

2019年05月04日 21時13分03秒 | 日本人論
 GW10連休中に、録りためたTV番組をつらつら鑑賞。
 現在、古代日本史がマイブームなので、今日は高松塚古墳壁画に関する番組を視聴しました。
 高松塚壁画というと、私は記念切手を思い出します。



 小学校の頃に切手収集ブームがあり、そのときに目にした記憶があります。
 昔の日本人って、こんな服を着てたんだ、と言うくらいの印象。

 そうそう、2000年代に入って、壁画が劣化して文科省の責任問題になったこともありましたね。
 それから保存・復元に政府が本腰を入れたらしい。

 さて今回、この番組を見て認識が大きく変わりました。
 デジタル復元という新しい手法、当時の衣服の色から階級を推定する専門家など、現代の知識と技術を駆使して、300年間謎だった壁画の意味と埋葬された人物を推理するという内容。
 次々と明らかにされる事実は、スリリングであり、感動的でもありました。

 その壁画は、大宝律令を制定し、国交断絶していた唐と国交を回復すべく遣唐使をはじめた忍壁皇子(おさかべのみこ、天武天皇の皇子、別名:刑部親王)の勇姿を描いたものだったのです。
 当時、アジアで法律で国を治めるようになったのは中国に次いで二番目。
 大宝律令制定の儀式は外国からの使者も参列し、そのときの行進の様子を描いたもの。
 もちろん、埋葬されているのは忍壁皇子であり、彼の晴れ舞台を敬意を持って石室に残したのでした。

<内容紹介>
【歴史秘話ヒストリア】「飛鳥美人 謎の暗号を解け〜高松塚壁画のヒミツ〜」(2017年5月12日放送)
 「飛鳥美人」が発見されたのは、奈良県明日香村にある高松塚古墳。下段の直径23メートル、上段の直径18メートル、高さ5メートルの2段式の円墳で、7世紀末から8世紀はじめ頃に築造されたと推定されています。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍有名になり、古墳は特別史跡に、壁画は国宝に指定されました。「飛鳥美人」とはこの壁画に描かれた女性のことです。
 当時、考古学史上最大の発見とたたえられた高松塚古墳の壁画。極彩色で描かれていたのは、16人の男女の群像に天空の星々、そして四方を守る霊獣です。10年に及ぶ専用施設での懸命の修復の結果、その真の姿が現代によみがえりつつあります。
 しかし、そこで浮かび上がってきたのは新たな謎でした。日本の伝統的な絵画では珍しい“カメラ目線”で正対した姿で描かれた「飛鳥美人」は何を見つめているのか?そして壁画に描かれた16人の登場人物は一体何をしているのか?そして被葬者の正体は?
 番組では、最新のデジタル技術で1300年前の壁画の再現を試みます。色の濃淡までも使い分ける極彩色の世界からわかることのひとつに、衣服の色彩による身分の差があります。描かれている男性たちよりも身分が高く描かれている女性たち。その中でも、ひときわ身分が高く、被葬者に近く描かれている女性が、被葬者の妻である可能性が浮かび上がってきています。
 そして描かれているシーンが何を示しているのかという謎にも迫ります。いすや日傘、スティックを持っていることから、散歩やピクニックを示しているという捉え方もできます。その一方で、これはある儀式を意味しているのではないかという説が登場。ドラマパートではその様子を再現し、国宝壁画に秘められた暗号の解読に挑みます。



 
(追加の内容紹介)
小林さんが壁画の中で注目しているもう一つのポイントとして、女性たちの足元の様子でスカートを引きずっておりそれにより歩く方向を推定できる。女性たちの謎めいた動きがcodeだった。もう1人の専門家である来村多加史さんは日本、東アジアの古墳壁画に精通している。来村さんは入り口に向かって合計16人の群像が歩いている様子で、暗い墓室の死者に対し外の空気を吸わないかと伝えるものではないかとした。女性たちが向かう場所をデジタル再現された石室でもう一度考えてみる。再現映像では男たちは既に列を作り出発を待つ様子が推定され、女性たちは1人が被葬者に声をかけ男性たちの列に加わろうとしていた。16人の群像は列になって被葬者をどこかに連れて行こうとする様子だったという。どこに連れ出そうとしていたのか、登場人物の持ち物注目すると場所が推定出来る。持ち物には座るときの椅子や、ハエ叩きや孫の手、赤い袋の中には太刀と鉾などが描かれている。

小林泰三は地獄草子や東大寺大仏殿などを当時の状態に復元し、意外な実像を明らかにしてきた。高松塚古墳壁画はこれまで修復してきたもののなかで最古のものとなる。ヨーロッパの絵画ではカメラ目線の人物像は珍しくないが、日本の絵画ではほとんど例がないという。デジタル再現し、秘められた暗号の解読に挑む。

意外な事実が明らかとなってきた高松塚壁画最大の謎「被葬者は誰か?」に迫る。「緑の蓋」が描かれていたことが判明し、被葬者は身分が高い人だと推定される。45年前に発見された高松塚古墳の多くは謎のままだった。10年前に盛り土の中から当時の土器が大量に発見され、8世紀始めの10年の間に作られたことが判明した。

文化庁によって10年に渡って修復されてきた高松塚の壁画は、天井と側面に10人以上の人物像が描かれていたが、カビや泥による劣化でほとんど見えなくなっていた。無菌室でカビを一つ一つ取り除く作業が行われてきて、今年2月には絵の周りが白くなってきた。しかし泥に覆われて、剥げ落ちていることから壁面の絵がわかりづらくなっていたが、 デジタル復元で再現を試みる。像の輪郭をはっきりさせたあと、泥でほとんど見えなくなっていた人物の輪郭を推測し、アゴのラインを再現した。次に取り組んだのはカメラ目線の女性で、表情を浮かべ上がらせた。

8世紀始めは奈良時代の直前、藤原京の時代。近年の研究で藤原京は、平城京、平安京を上回る5.3キロ四方の大きさだとわかった。埋葬者は、藤原京で最上位に位置する太政大臣クラスだと猪熊さんは推測した。藤原京の時代の太政大臣は、高市皇子と忍壁皇子の2人のみで、皇子だからこそ四神に囲まれた壁画古墳に葬られたと思うと猪熊さんは話した。さらに猪熊さんによると飛鳥地方で発見されたキトラ古墳は高松塚古墳より古いことがわかっているため、キトラ古墳には高市皇子が、高松塚古墳に忍壁皇子が葬られたのではないかという。

武器は身分の高い人が外出する際に威儀を整えるもので、それにより主の身分を示すため実用的なものではない。トートバッグのようなものを抱えた人達は、ピクニックシートのようなものを入れているのではないかと来村教授は推測した。先の曲がった棒はホッケーのスティックのようなもので、打毬と呼ばれたものを行っていた。打毬は飛鳥時代から奈良時代にかけて大流行していた。これらのことから壁画は遊びに行く様子を描いていて、被葬者を石室から連れ出そうとしていたことがわかった。

次に取り掛かるのは色彩の再現。小林さんは古代の色彩に詳しい専門家を訪ねると、壁面には描かれた当時の色彩が残っていたことがわかった。古代では色味のある岩石を砕いて絵を描いていた。次に天然岩石を原料にした絵具を扱っている専門店を訪れ、高松塚古墳壁画で使われていた色を特定した。再現したものをみるとたくさんの色を使って描かれていたことがわかった。壁画に描かれていた人物は16人で、男女8人ずつだった。考古学者の猪熊さんを訪ねると、猪熊さんは衣服の色から正面を向いた女性を立場が上の人だと推測した。石室では手前に男性。奥に女性が描かれていて、前後の時代の服の色が表す位の推測から、奥の女性の方が身分が高いことが発見された。

完成した1300年前の復元石室は、いくつもの石が組み合わさって出来ている。石室の壁は白いしっくいが塗られていて、人物像と玄武・青龍などの神獣が描かれていた。また正面を向いた女性は埋葬者と目が合うように描かれていたこともわかった。墓から発見された歯や骨から推測すると、被葬者は40~60代の男性だと考えられている。小林さんは被葬者を見つめ、身分が高いことから、被葬者の妻のような女性だと考えている。

忍壁皇子は生きていた時代は日本が危機的な状況にあった。唐は新羅と組んで当時の日本・倭国と有効関係にあった百済を滅ぼした。663年に「白村江の戦い」で倭国は唐・新羅の連合軍に大敗、国交断絶となった。

瀬戸内海沿岸に山城を築いて日本列島の防衛に専念。この困難な状況下で国の舵取りを任されていたのが忍壁皇子だった。唐に対抗するため一国も早く国の形を整える必要があり、歴史書を編纂して国の成り立ちを明らかにした。最大の事業が国の要となる本格的な法律を制定することだった。国を法律で治める仕組みは唐を除けば東アジアでは日本しかなかった。701年の元旦、苦難の末に完成したのが「大宝律令」で祝賀儀式が行われた。

猪熊兼勝さんは、もし、高松塚の主が忍壁皇子とすれば壁画は大宝元年の儀式を描いた物だと考えている。平安時代に書かれた資料「貞観儀式」には調定で最も重要な儀式の決まり事が記されており、携えるべき持ち物が詳細に記されている。これは高松塚の群像の持ち物と一致。忍壁皇子の人生で最高の晴れ舞台だった大宝元年の朝賀、その様子が壁画に描かれていたのかもしれない。この事を裏付ける海獣葡萄鏡が出土、唐からもたらされたものと考えられている。大宝律令の翌年、忍壁皇子は遣唐使を派遣した。遣唐使が帰国したとき、友好の証として持ち帰ったのが鏡だったと考えられる。
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縄文人のルーツ

2019年05月03日 21時04分30秒 | 日本人論
サイエンスZERO 「日本人のルーツ発見!~“核DNA解析”が解き明かす縄文人~」(2016年04月03日放送、NHK)
<番組紹介>
 人類がどのように進化してきたかを探るうえで欠かせない“核DNA”解析。特に古代人の核DNAを読み解くことができれば、髪の色から病気の履歴、さらにルーツまで膨大なデータが得られ、謎の多い古代人の詳細が明らかになる。そして最近、世界で初めて“縄文人の核DNA”が解読された。そこから見えてきた日本人誕生の謎とは?私たちは縄文人からどんな身体的特性を受け継いでいるのか?最新科学から日本人のルーツに迫る!

 ずいぶん昔に録画してあった番組を、GW10連休にボチボチ見てみました。
 へえ〜、そうなんだ、と頷く事実が次々と出てきました。

・今までのDNA解析は“ミトコンドリアDNA”が対象であり、情報量が限られていた。近年、“核DNA”が解析できるようになり、情報量が格段にアップした。ミトコンドリアDNAは母由来なので父親の情報は皆無であるが、核DNAは両親から受け継がれるのがポイント。

・人類はアフリカで誕生し、世界へ広がっていった。アジアには「東アジア人」と「東南アジア人」に分岐していった。縄文人はそのどちらにも属さないことが判明し、それより前に分岐していることがわかった。しかし、彼らが日本に来る前にどこに住んでいたのか、謎である。

・現在の日本人の核DNAは、縄文人2割、渡来系弥生人(東アジア人がルーツ)8割と判明した。

・縄文人の特徴;
 シミになりやすい
 耳垢が湿っている
 くせ毛
 二重まぶた
 ウインクができる(ウインクするときに口が動かない)



 はて、自分はどうなんだろう・・・

 50歳半ばになり、シミはそれなりにあります。中学から大学時代までずっとアウトドアスポーツのテニスをしていたので、日焼けの影響と思ってきましたが、縄文人DNAのなせるワザかもしれませんね。
 耳垢が湿っている・・・実は私、左耳はwetで右耳はdryなんです。すると縄文人と弥生人のハイブリッド?!
 ○くせ毛
 ×二重まぶた(ただ年を重ねるにつれて奥二重になってきました)
 △ウインクはできるようなできないような・・・。

 総じて、縄文人の要素が強いようですね。

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