知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「よくわかる祝詞読本」(瓜生中著)

2018年04月14日 06時33分10秒 | 神社・神道
よくわかる祝詞読本」(瓜生中著)角川ソフィア文庫、2017年発行

 日本古来の宗教とされる神道にはキリスト教における聖書、イスラム教におけるコーランのような経典が存在しません。
 ただ、仏教ではお経を読むという作業がありますが、それに似ているのが神職が祈祷の際に口にする祝詞(のりと)です。

 祝詞の内容はどんなものなのか、以前から興味がありました。

 随分前ですが、NHKのEテレで「U-29」といういろいろな職業を紹介する番組で「神職」を扱った回を見たことがあります。
 新人女性神職が、ある祈祷を任されて自分で一生懸命に祝詞を考える、という場面がありました。
 「え? 祝詞を考える? 自分で作る?」
 祝詞とは、すでにあるものからTPOで選んで奏上するものと思い込んでいた私には驚きでした。
 しかし実際は、神職の各個人が過去のものを参考にしながら新たに作っていくものらしい。

 それから、以前から私の中には「美しい日本語」を求める気持ちがありました。
 おそらくそれを追求していくと、目で読む文章ではなく「口にして心地よい」「耳にして心地よい」言葉にたどり着くのではないか、と何となく感じてきました。

 古今の中で一番美しい日本語は「平家物語」という説があります。
 琵琶法師が名調子で語る物語に、多くの日本人が涙してきました。
 この視点からも、祝詞は「延喜式」の時代から語り継がれてきたものであり、やはり耳心地がよく洗練された日本語ではないかと思われます。

 祝詞を知る手ごろな本がないか探しているときに、この本に出会いました。



内容紹介
 例文+現代語訳を収録。基礎からわかる文庫オリジナルの必携入門!
 「恐み、恐み」の決まり文句以外、意味や単語すらよく分からないまま聞くことの多い祝詞。日本古来の信仰に根ざし、記紀神話の時代から奏上されてきたそれらの言葉には、どんな由来や役割があるのか。神話と神々との関係や参拝のマナーとともに、祝詞の基礎知識をていねいに解説。月次祭・節分祭などの祭祀、七五三・成人式などの人生儀礼や諸祈願ほか、24の身近な例文を現代語訳とともに掲載する、文庫オリジナルの実用読本。

第一章 神道の基礎知識
第二章 祝詞の基礎知識
第三章 祝詞の例文と現代語訳
第四章 神話に登場する神々
付録 神社参拝等のマナー


 第二・第三章がこの本の中心です。

 祝詞はすでに記紀神話に登場し、天照大神(アマテラスオオミカミ)が岩戸隠れをしたときに、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が岩戸の前で祝詞を唱えたという記述がある。
 平安時代に編纂された法令書である『延喜式』には28種類の祝詞が掲載されており、それを参考に今も神職が神事や祭礼ごとに作成している。
 だから、祝詞には仏典などのように校訂本があるわけではなく、神社ごと神職ごとに異なり、時代によっても変遷する。


 ・・・のだそうです。
 そして祝詞の内容は、「崇高な神に対して最大限の敬意を払い、平身低頭して仕えることを約し、恐れ謹んで願い事をする」と書かれています。
 ひたすらに神を褒め称え、感謝するものであることがわかりました。
 神道の教えは「清く、正しく、美しく」に尽きるような気がします。
 ただ、人間が生きていく上で無視できない「ダークサイド」をフォローする視点がなく、そこを仏教が補填して日本の生活宗教・信仰を形成してきたのでしょう。

 私にとって第一・第四章も知識を整理するのに大変役に立ちました。
 記紀神話に登場する神様達の関係も少しわかりました。
 それとともに、記紀神話でさえも、当時の政治と絡んでいることがわかりました。
 天皇家が自分の家系の正当性を訴えるために創作した神話なのです。

 先日、TV番組で「聖徳太子は実在しなかった!」という内容を放送していました。
 聖徳太子は、中大兄皇子達が企てたクーデターを正当化するための虚像であり、架空の人物であったというのです。
 なので、現在の歴史の教科書から「聖徳太子」はなくなりつつあり、そのモデルになった「厩戸王子」に書き換えられているそうです。

 宗教・信仰と政治とは、古今東西の歴史を振り返っても切っても切れない関係なのですね。

 ヤレヤレ・・・。

 私は「山神社」という小さな神社が好きです。
 宮司さんもいないし御朱印ももらえませんが、山里の奥に位置する村の鎮守様に参拝すると、清冽な気持ちになれます。
 「ああ、1000年前の日本人もここに立って私と同じ気持ちになったんだなあ」
 と、祖先達と時空間を共有するタイムトラベルができるのです。

<備忘録>

□ 和魂(にきみたま)と荒魂(あらみたま)
 日本の神には和魂と荒魂という二つの側面がある。前者は我々人間に幸いをもたらしてくれる優しい性格、後者は禍をもたらすような荒々しい性格である。
 そういった二面性を持つ神に最大限の敬意を払って丁重に仕えることによって和魂の部分が顕現し、われわれに幸いをもたらしてくれると信じられている。

□ 神道の本質
 仏教伝来(538年)以前から行われていた民俗信仰である。
 アニミズムと呼ばれる原始的な信仰と、祖先信仰が合体したものである。
★ アニミズム(精霊崇拝):近くの山川草木などの自然物に精霊が宿るとして崇拝すること。
 日本では共同体(ムラ)で亡くなった人の霊は、近くの山を彷徨った末に、浄化されてその山頂から昇天すると考えられていた。そして、昇天した先祖の霊と自然物の精霊が融合したものが後世、氏神と呼ばれる共同体の守護神になると信じられてきた。
 このような神が年に一度、共同体近くの山頂などに降臨し、人々がその神を丁重に迎えて神饌(神に捧げる食物)を供え、祝詞を上げたり、舞を舞ったりして神々を敬い、饗応することによって、神々は村人に幸いをもたらしてくれると考えられていた。
 この年に一度の神々の降臨が例大祭で、その構図は今も古代と全く変わっていない。

□ 伊勢神宮の成り立ちと天照大神
 先祖の霊と融合する自然物は、共同体でその神聖さが共有されているものでなくてはならない。
(例)浅間大社:浅間大神(富士山の祭神)は村々の祖先神と霊峰富士山が融合したもの
 伊勢神宮の祭神である天照大神は、天皇家の祖先の霊(皇祖)と太陽を合体したものである。天照大神ももとは天皇家の氏神だったが、5〜6世紀頃にかけて天皇家が他の豪族を凌いで強大な権力を握ると、国家的な神として君臨するようになった。
 そこで、全国津々浦々の豪族や民衆にとってもっとも重要で神聖な自然物である太陽が選ばれた。縄文時代から稲作を営んできた日本民族にとって、太陽は五穀豊穣を約束してくれるありがたい存在である。その太陽と天皇家の祖先の霊とを合体することにより、天皇家の求心力を高めようとした。

□ 神は目に見えない存在
 本来、日本の神々は無色透明で目に見えないものとされている。伊勢神宮の御神体が八咫鏡(やたのかがみ)であることはよく知られているが、御神体は神霊がそれを目印に降りてくる目標となるもので、依代(よりしろ)と呼ばれ、神霊そのものではない。そして依代の神体自体も神聖視され、直視することはタブーとされている。
 一方、我々日本人は、日本古来の神といえば、白い狩衣のような装束で腰に太刀をはいた、素戔嗚尊や大国主命のイメージを持っている。その姿は時代が下ってから、記紀の神話などの記述に基づいて作られたもので、おそらく江戸時代くらいに徐々に普及し、明治維新を迎えて国家神道の時代になり、維新政府が神道の啓蒙用に一流の画家に描かせたものが一気に広がったものと考えられる。
 もともと日本の神に対する信仰は偶像否定で、この観念はキリスト教やイスラム教でも厳格に守られている。キリスト教ではイエスキリストや聖母マリアの像はあるが、全知全能のヤーウェの神の像を造ることはタブーである。また、イスラム教は厳格な偶像否定主義で、絶対神であるアラーの神の像を造ることは決してない。

□ 鎮守の杜〜神が降臨する場所
 日本の神々は、共同体(ムラ)の近くにある山の頂上付近、あるいは海辺の岬の先端のようなところに降臨すると考えられてきた。
 降臨の場所として忘れてならないのが鎮守の杜(もり)である。
 安芸の宮島の背後にそびえる弥山(みせん)の社叢(神社の擁する森林)は「千古斧を入れず」といわれ、社叢内の樹木の伐採はタブーとされてきた。

□ 八坂神社(祇園社)の祭神は牛頭天王(ごずてんのう)、それとも素戔嗚尊(すさのおのみこと)?
 京都の八坂神社の御祭神は牛頭(ごず)天王という疫病除けの神で、丁重にまつれば疫病を流行らせないが、粗末にしたり非礼を働くと忽ち疫病を蔓延させる恐ろしい神である。
 牛頭天王は、インドで釈迦がたびたび説法をした祇園精舎の疫病除けの神としてまつられていたものが、仏教とともに日本に伝えられた。八坂神社は江戸時代までは牛頭天王を祭神として牛頭天王社、あるいは祇園社と呼ばれていた。この近くの地域を祇園というのも祇園社にちなむ。
 また、牛頭天王は古くから素戔嗚尊と同一視されていた。疫病神としての性格が素戔嗚尊の荒魂と重なったのだろう。そして、明治維新の神仏分離で牛頭天王は仏教由来の神ということで祭神から外され、同体と見なされていた素戔嗚尊を祭神として、新たに八坂神社と名乗った。
 毎年7月に行われる八坂神社の祇園祭は疫病退散を祈願する祭で、他にも博多祇園山笠などのように「祇園」を関した疫病退散祈願の祭がみられる。また、牛頭天王を祭神として「天王祭」と証する祭りも行われている。こちらも同じく疫病退散祈願の祭である。

□ 言霊信仰と祝詞
 インドでは太古の昔から、祭官の称える呪文が万物を動かすと信じられてきた。そして、これらの呪文を集積して成立したのが密教である。密教では真言、陀羅尼という呪文を駆使して、さまざまな利益を引き出すことができると考えられている。
 祝詞の背景にも言霊信仰があり、これを奏上することによって神の霊力を授かることができると考えられている。祝詞がいつ頃から称えられるようになったのか、はっきりした時期はわからない。おそらく、4-5世紀頃には何らかの形で神に対する祈願や感謝の言葉が読まれていたものと考えられる。そして平安時代の中頃に完成した『延喜式』という法令書には多くの祝詞が収録されており、今も各地の神社では『延喜式』の祝詞が読まれている。

□ 注連縄・神輿・社殿の起源
 注連縄は天照大神が岩屋から出てきたときに、二度と入らないように巡らせたのが起源。つまり、聖域と俗界とを隔てる縄である。
 古代の神社には社殿がなく、榊や依代が神事や祭の中心だった。しかし、時代が下ると仮設の社が登場してくる。神事や祭の時だけの特設の社で、神事が終わると撤去されて次の神事や祭事まで大切に保管された。この仮設の社が、後に神輿担ったと考えられる。ちなみに社(やしろ)とはもともと家代(いえしろ)、家の代わりの意味である。
 538年に仏教が伝来し、その半世紀後には隆盛期を迎え、仏教寺院の大伽藍が誕生すると、日本の神々にも家を建てなければならないという気運が高まってきた。
 最初の社殿は、登呂遺跡の復元などにみられるような弥生時代の高床式の穀倉庫モデルにした。高床式穀倉庫は翌年に蒔く種籾を保存する倉庫で、中には棚を設え、そこに御倉棚の神を祭った。縄文時代から稲作を始めた日本人は古くから、稲の中には穀霊という霊が宿っていると考えていた。伊勢神宮や出雲大社の本殿は、その構造が高床式倉庫に似ている。伊勢神宮社殿の創建は天武天皇の時代(680年頃)、出雲大社はそれより半世紀ほど後である。

□ 基層宗教と成立宗教
 世界の他の民族(例:北米インディアン、アイヌ、イヌイット、アボリジニー、マオリ等)のアニミズムは古代の習俗をそのまま残したもので、規模的にも集落単位である。
 日本の神に対する信仰が他民族のそれと異なるのは、その規模が時代を追って大きくなり、組織も広範にわたるようになったことである。とくに仏教と密接に結びついたことによって、ますます強大化し政治的にも大きな力を持つようになった。
 アニミズムは主として呪いや占い、祈祷などを行う原初的なもので、木や岩や森など身の回りの自然物が我々を守ってくれると信じられている。このような宗教は“基層宗教”と呼ばれるのに対して、仏教やキリスト教、イスラム教などは“成立宗教”と呼ばれて区別される。
 成立宗教には仏典や聖書、コーランなどの聖典があり、教理もしっかりと具えられている。現在、世界の宗教人口は以下のようになっている;
・キリスト教:約20億人
・イスラム教:11億9000万人
・ヒンドゥー教:約8億1000万人
・仏教:約3億6000万人

□ 氏神(うじがみ)と産土神(うぶすながみ)と記紀神話の神
(氏神)ある特定の地域に住む共同体の祖先神
(産土神)その土地に古くから鎮まる神
 上記が基本であるが、厳密に区別されることなく、一般的には“氏神”と呼ばれている。
 これらの神々は、それを崇拝する共同体の構成員、すなわち“氏子”の繁栄を約束してくれる。もともと氏神は、ごく狭い共同体(ムラ)だけに降臨してそこの構成員を護ってくれる神だった。
 現在では、共同体(ムラ)の鎮守の祭神も八幡神や天照大神などとされているが、もとは祖先神だったものが、作物の生育を助けてくれる太陽や水などの自然現象を神格化したものと結合したと考えられている。こうした神々が、記紀の神話などによって天照大神をはじめとするさまざまな神格に発展したのである。
 時代が下って古墳時代(三世紀末〜六世紀中頃)になると、近隣の共同体を征服して領地を拡大する豪族が出現し、支配された共同体の氏神は支配者の氏神に無理矢理変えられていった。
 豪族の頂点に立ったものが大和朝廷を築き上げた天皇家である。
 この天皇の氏神が天照大神だった。天照大神はもともと太陽神で、太古より稲作を営んでいた我々の祖先の多くは、同種の太陽神を氏神として崇めていたと考えられている。しかし、大豪族の大和朝廷が出現すると、より強力な太陽神像が必要となり、各地に点在する太陽神系の氏神を統合する形で天照大神という強力な神を創り出した。さらにその正統を明らかにするために記紀の神話を作り、いざなぎ・いざなみをはじめとする神々の系譜と地位を不動のものにしたのである。

□ 日本古来の信仰と“神道”は別のものである
 日本の神に対する信仰は、外界のあらゆるものに精霊が宿ると考えるアニミズムと日本古来の祖先信仰が融合したものである。神はいわば自然の摂理のようなもので、人々がそれに逆らわずに行動することにより、自ずと我々を正しい道に導いてくれて幸いをもたらしてくれるという。
 祝詞には「畏(かしこ)み、畏み」という言葉が頻出する。「畏み」とは体を屈(かが)めて精一杯、畏敬の念を表しますという意味である。神事や祈願の折も、祝詞を読む以外はすべて無言で執り行うのが大原則で、鳥居を潜ったら頭を垂れて無言で神前に進む。
 ここに述べた古来の素朴な神社を中心とした神に対する信仰と、いわゆる“神道”とは全く異なるものである。“神道”という言葉は、非常に政治的、政策的意味が強いのである。その最もたるものが明治維新以降の国家神道である。

□ 造られた「伊勢神道」
 室町時代に伊勢神宮の外宮(げくう)の神官が「伊勢神道」というものを提唱した(度会神道とも呼ばれる)。もともと外宮は内宮(ないくう)に鎮座する天照大神の食事の世話をするために、豊受大神が内宮の創祀から約500年後に祀られた。
 昔から外宮先拝先祚(せんそ)と言われるように、参拝に際してはじめに外宮に参拝し、神事や例祭なども外宮から執り行って、大御所の内宮に進むしきたりになっている。また外宮は社殿もやや小ぶりで、何かにつけて内宮に遠慮する形になっている。
 しかし、古くから外宮には優秀な神官が集まった。室町時代になって、その神官らが内宮への劣勢を挽回するために打ち立てたのが伊勢神道である。彼らは『神道五部書』という聖典を作って、内宮よりも遙か昔に創祀された外宮が伊勢神道の起源であると主張した。

□ 室町時代に席巻した「吉田神道」
 室町時代のはじめに京都の吉田神社の神職だった吉田兼倶(かねとも)という人物は、吉田神社を拠点に「吉田神道」を旗揚げした。
 ある日、兼倶は「昨夜、吉田神社の本殿の前の松の木に伊勢の皇大神宮から天照大神が飛来して止まり、本殿の御扉を開けたところ中に入って鎮まった。続いて全国から八百万の神が続々と集まってきて松の木に降臨し、本殿に鎮まった」と言いだした。
 吉田神社の本殿は八角形の独特な建築で、宇宙の根源という意味で太元宮(たいげんきゅう)と呼ばれている。これは宮中に八百万の神を迎えて祈念する八神殿という建物を模したものだ。兼倶はあらかじめ太元宮を建立しておいて、そこに八百万の神が鎮座したと喧伝したのだった。
 律令制の時に整備された神社行政は、律令制の衰退とともにすでに平安時代には機能しなくなり、神社行政を担う神祇官という中央官庁も休眠状態になっていた。兼倶はこのような状況の中で、神社界の再編成を企てたのであった。その結果、兼倶は神祇官代として認められ、日本の神社行政を一手に担うことになり、その後も江戸時代まで吉田神道が日本の神社界を束ねたのであった。

□ 政治的に作られた「国家神道」の悪夢
 明治維新以降に「国家神道」が作られた。
 神道を担ぎ出して幕府を倒し、維新を敢行した勤王派の志士たちは、もともと天照大神を頂点にその子孫(天皇)が国を治めるのが我が国のあるべき姿(国体)であると考えていた。だから神道を国教として政治を司ろうと考えた。
 しかし、この極めて集権的な思惑で作られた国家神道は、多神教であるはずの日本の神々の信仰を一神教にしてしまった。そして、そのことが日清戦争や日露戦争、ひいては太平洋戦争を戦う国家としての原動力となった。とくに太平洋戦争はイスラム教のジハード(聖戦)と全く変わらない様相を呈したのである。

□ 「靖国神社」
 「国家神道」を象徴する靖国神社は明治2年に創祀された。
 幕末の討幕運動の激化で、薩長の勤王の志士たちの間に多くの戦死者が出た。しかし江戸幕府にまだ勢力のあるうちは、殉難の士の鎮魂祭を公に執り行うことはできなかった。そこで、とくに長州(山口県)では、建武の新政の時の騒乱で神戸の湊(みなと)川で討ち死にした楠木正成の鎮魂祭を行い、それに紛れて殉難の士の御霊を鎮めた。この楠木正成の鎮魂祭「楠公祭」(なんこうさい)と呼ばれ、幕末も最末期になって幕府がほとんど死に体になると、長州では招魂社が創建されて公然と殉難の士を鎮める「招魂祭」が執り行われるようになった。
 1867年、大政奉還を迎えて天皇が江戸城に入ると、江戸城内に東京招魂社が創建された。そして明治2年、参拝の便を図るために九段の現在地に新たに社殿を設けて英霊の御霊を祀った。その後、他の招魂社と差別化を図るために靖国神社と社郷を改めた。

□ 神仏習合から神仏分離へ
 神道は八百万の神と言われるように、多神教である。
 一方、仏教はもともと神のいない宗教である。しかし、大乗仏教の時代になると、多くの仏、菩薩、明王、天(神々)などが誕生し、日本に伝来した頃にはすっかり多神教に変容していた。
 多神教は他の信仰と接近しやすい。
 仏教も伝来してまもなく、徐々に神道と接近していき、時代が進むに従って神仏の関係は密接になっていった。
 奈良時代になると、神と仏の関係に「神前読経」(神前で僧侶が今日を唱えるもの)という具体的な形が現れる。各地の神社で盛んに行われるようになり、まもなく“社僧”と呼ばれる神社所属の僧侶が常駐するようになった。
 さらにこのような状況が進むと、「神宮寺」という神社所属の寺院が建てられるようになるのである。
 平安時代になると、本地垂迹(ほんぢすいじゃく)という究極の神仏習合思想が搭乗する。「本地」とは本来の姿、「垂迹」は仮の姿という意味である。日本古来の神々は、インドの仏、菩薩が衆生を救うために現した仮の姿であるという意味である。
 本地垂迹説は仏教を神道の上に位置づけるもので、言うまでもなくこのような思想は仏教側で作られたものである。
 仮の姿は“権現”といわれ、時代とともに各地の名だたる神々は「○○権現」と呼ばれて盛んな信仰を集めるようになった。権現の権は「仮の」という意味で、文字通り仮に現れることを意味する。
 さらに権現と並んで“明神”(みょうじん)という言葉も普及した。これはもともと「名神」(みょうじん)で、古くは由緒ある神社のことだった。しかし神仏習合が進むにつれて「明神」の字が使われるようになり、各地の名だたる神社は「○○権現」あるいは「○○明神」と呼ばれるようになったのである。
 しかし明治維新を迎えていわゆる国家神道が唱えられるようになり、神道が国の宗教として定められると、国家としては神と仏をはっきりと区別する必要に迫られた。日本の神を拝んだら、その実体は仏、菩薩だったというのでは、日本の神道の面目丸つぶれだからだ。そこで維新政府は「神仏判然令」を出していわゆる神仏分離を徹底した。その結果、「権現」や「明神」という言葉は禁止され、全国に点在していた神宮寺などは撤廃され、神社に祀られていた仏像や境内にあった仏教的なお堂などの施設はすべて撤去された。

□ 檀家(だんか)制度と廃仏毀釈
 明治維新政府の神仏分離政策を敢行した過程で起こったのが廃仏毀釈である。廃仏毀釈は国の政策ではなく、それまでの寺院や僧侶に反感を抱いていた民衆が寺院を攻撃し、仏像を焼き捨てるなど狼藉を働いた。廃仏毀釈は維新政府が意図したものではなく期せずして民衆の側から起こったものだという見方をする専門家も少なくない。
 江戸時代に檀家制度が確立すると、民衆はどこかの寺の檀家になることが定められた。もともと檀家制度はキリシタン締め出しのために作られた戸籍制度だったが、これが確立すると寺院は檀家の葬儀などを行って定期的に布施を受け、経済的に安定した。僧侶は檀家1人1人の身元引受人となり旅行をするにも結婚するにも菩提寺の僧侶を通じて役所に届け出なければならなかった。
 その結果、僧侶の中には檀家に対して不遜な態度をとる者もおり、民衆の中には長きにわたってその抑圧に耐えてきた者もいた。そこで、維新政府が神仏分離政策に着手すると、この政策を仏教撲滅運動と捉えた民衆が、いわゆる廃仏毀釈という暴挙に出たのである。

□ 山岳信仰と密教
 山岳修行者は仏教伝来以前から存在しており、奈良時代以前にはすでに相当数の行者が吉野の金峯山(きんぷさん)、葛城山などで修行に励んでいたと考えられる。
 そして、このような山岳修行者(山伏)の元祖として、今でも修験者(しゅげんじゃ)の間で敬われているのが役小角(えんのおづの)、別名役行者(えんのぎょうじゃ)である。
 役小角は謎に包まれた人物で、歴史上の人物かどうかも判然としない。『続日本紀』の中に(文武天皇の三年:699年)、金峯山や葛城山で修行して超自然的な霊力を身につけ、空中を飛翔したり、妖術を駆使して人心を惑わせた「惑百姓」の罪で捕らえられて伊豆に流された、という記述がある。
 山岳修行者は時代とともに増え続け、平安時代に空海が密教を伝えて、これが短期間のうちに普及すると、護摩などの加持祈祷を取り入れて密教との結びつきを強めることになる。もともと拠点となる寺を持たない行者たちは、ふだんは山中の岩窟や堂などで修行生活をしていたが、積雪期や閉山期になると拠点がなくなる。そこで行者たちは真言宗や天台宗の密教寺院に身を寄せるようになる。
 加持祈祷や占いなどに優れた行者の存在は、受け入れる寺としても信徒を獲得するために好都合だった。その結果、平安時代から鎌倉時代にかけて密教寺院の数が増えていった。そこで室町時代になってこれらの山岳修行者の集団を独立させて「修験道」という一宗派を立ち上げたのである。
 修験道では神と仏の両方を礼拝の対象にした。

□ 分霊(ぶんれい)される神社の神様
 分霊とは神霊の一部をもらって他所にまつることで、別御霊(わけみたま)とも呼ばれている。
 八幡社や稲荷社など同じ名前の神社が各地に点在するのはそのためだ。
 ただし、仏教界の本山末寺のように、総本社が同じ祭神をまつる他の神社を支配することはない。大小の差はあってもそれぞれ独立している。

□ 摂社と末社
(摂社)本殿の主祭神と関係の深い神(親子や兄弟)を祭った社
(末社)神社の境内にある小さな社で、さまざまな祭神がまつられている。末社は室町時代以降、庶民信仰が盛んになると、それらの本拠地に参詣した人々がその御霊を勧請して地元の神社にまつったもの。

□ 神社、大社、神宮の違い
 これらは神社の規模や由緒によるもので、神社の格式を表すものである。
(神社)村々にまつられているいわゆる氏神の社
(大社)各村々を統治する強力な豪族などの氏神は大神と呼ばれ、その大神をまつった社が大社
(神宮)天子(天皇)の御殿に勝るとも劣らない美麗な社という意味
 もともと神宮号が許されたのは皇祖神(天皇家の祖先神)をまつる伊勢の皇大神宮だけだった。ついで平安時代には関東の鹿島神宮と香取神宮が神宮号を許された。この両神宮は東国(東北)警護の最前線にある極めて重要な社だったからである。
 明治になって各地の神社が神宮を名乗るようになった。明治二年に創祀された札幌の北海道神宮、明治二十二年に創祀された奈良の橿原(かしはら)神宮、明治二十八年創祀の平安神宮、大正九年に創祀された明治天皇と昭憲皇太后をまつる明治神宮など。

□ 鳥居
 鳥居は俗界と聖域を隔てる結界で、記紀神話では岩屋に隠れた天照大神を引き出すときに常世の長鳴鳥(鶏)を止まらせた止まり木が起源で「鳥が止まり居るところ」から鳥居というのだという。
 そのほか、鳥居の起源については諸説ある。

□ 樹木信仰
 神社境内・社域に自生している樹木や草花を伐採したり、摘み取ったりすることはタブーとされている。ほとんどの神社の鎮守の杜は、台風や大雪による倒木の危険を防ぐためなどやむを得ない事情がない限り、決して伐採することはない。
 樹林帯に恵まれた日本では樹木に対する信仰が強く、とくにご神木などに対する霊木信仰が盛んである。ご神木や霹靂木(落雷を受けた木)は霊木と見なされ、伐採することは許されない。そしてその霊木が立ち枯れした場合は、建築材や調度品などの用材としては決して使ってはいけないという掟がある。それらの霊木の多くは仏像や神像をつくるのに用いられ、できあがった像は再び信仰の対象となるのである。

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日曜美術館「シーボルト 幻の日本博物館」

2018年04月10日 06時08分10秒 | 日本の美
日曜美術館「シーボルト 幻の日本博物館」(2016.7.24:Eテレ)

 幕末の日本(長崎の出島)にオランダ商館員として来日して「鳴滝塾」を開き、西洋医学を日本に伝えた医師・・・シーボルトに関する私の知識はこれだけでした。
 ただ、日本の物産を自国に持ち帰る収集家であったことも耳にしていました。花のスケッチは有名ですね。

(初来日時)

(再来日時)


 シーボルトは、27歳の時に初めて来日しました。有名な「シーボルト事件」で国外追放になるものの、それから30年後に国の外交担当として再来日します。その際に収集した日本の物産・工芸品をドイツで展示していたのでした。ただ、その最中に無理がたたって命を落としたため、それらの品々はお蔵入りし、長らく眠ることになりました。
 近年、それが再評価され、日本の国立博物館などが調査に乗り出し、今回の番組作成につながったようです。

 幕末から明治にかけての日本は、西洋に追いつけ追い越せとしのぎを削って西洋文明・文化を輸入した時代です。その際に、日本古来の伝統は「古くて価値のないもの」として捨て去ってしまいました。現代に生きる我々がそれを知ろうとしても、残っていないのです。
 ところがシーボルトがそれを国外に保管しておいてくれました。
 シーボルトの「日本博物館」は、幕末の日本文化のショーケースです
 それらに触れることにより、当時の日本人の生活をしのぶことができます。







 シーボルトの収集品は高価な美術品ではなく、庶民目線の工芸品が多いようです。
 また、学術的なものもあり、その中の地図が物議を醸し出した一因かもしれません。

 シーボルトは日本の庶民信仰を「パンテオン」(様々なローマ神を奉る万神殿)と表現しました。万物に神の存在を感じる日本の宗教心を、ギリシャやローマのような多神教と共通すると読み取ったのです。
 すばらしい観察眼です。

 特に私が惹かれたのは、日本人絵師(川原慶賀)に描かせた人物画。
 「男伊達」(下図中央)なんて、我々のイメージの源泉ではないでしょうか。



 ふつう、当たり前のことは記録に残りにくいのですが、見聞きすることがすべて新鮮だったシーボルトは、日本人の生活や姿を残しておきたいと描かせたのですね。

 シーボルトさん、ありがとう。


<内容>
 ドイツの古城に、大量の日本の美術品や民俗資料が未調査のまま埋もれていた。収集したのは、幕末の日本から地図を持ち出した事件で知られるシーボルト。彼は、世界初の日本博物館を作ろうとしていたのだ。その内容は今までなぞに包まれ、幻とされてきたが、国立歴史民俗博物館などがその全貌を初めて再現した。西欧のジャポニスムより早く、初めて日本を紹介しようとしたシーボルト。彼は日本のどのような魅力を伝えたかったのか?


<参考>
■「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作」(野藤妙 宮崎克則 西南学院大学国際文化学部)
■「長崎絵師 川原慶賀
■「シーボルト・コレクションにおける川原慶賀の動植物画と風俗画」(野藤 妙)
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日本の縄文時代 〜定住し奇跡の大集落を形成〜

2018年02月16日 08時14分59秒 | 歴史
アジア巨大遺跡 第4集「縄文 奇跡の大集落」~1万年 持続の秘密~
2015年11月8日:NHK

 昔々、私の世代が学校で教えられた“縄文時代”は、狩猟採集生活で、人々は定住せずに不安定な流浪の生活をしていた、その後稲作が大陸から伝わり、弥生時代を迎えた・・・というイメージです。

 しかし近年、発掘調査が進むとともに、専門家の間で縄文時代のイメージ・捉え方が激変してきました。
 番組の中でジャレド・ダイアモンド博士も登場。
 稲作が入ってきても、それになびかず狩猟採集生活を続けた。
 「狩猟採集生活をしながら定住し、文化的にも豊かだった」という、世界規模で考えても稀な生活様式を達成していたらしいのです。
 ある集落は1000年も続いていたらしい。

 それを支えたのは、日本の自然です。
 氷河期を終えつつある時代に、木の実が豊富な照葉樹林の森が日本列島を覆い、“縄文時代”を可能にしたというのです。

 スリリングな内容で、久しぶりに日本の歴史にドキドキワクワクしました。




<内容>
シリーズ最終回は、日本人の原点とも言われる、縄文文化。その象徴が、青森県にある巨大遺跡、三内丸山である。巨大な6本の柱が並ぶ木造建造物や長さ32メートルもの大型住居など、20年を超える発掘から浮かび上がってきたのは、従来の縄文のイメージを覆す、巨大で豊かな集落の姿だった。
この縄文文化に、今、世界の注目が集まっている。芸術性の高い土器や神秘的な土偶、数千年の時を経ても色あせぬ漆製品。その暮らしぶりは、世界のどの地域でも見られない、洗練されたものとして、欧米の専門家から高い評価を獲得している。さらに、世界を驚かせているのが、その持続性。縄文人は、本格的な農耕を行わず、狩猟採集を生活の基盤としながら、1万年もの長期にわたって持続可能な社会を作りあげていた。こうした事実は、農耕を主軸に据えた、従来の文明論を根底から揺さぶっている。
なぜ、縄文は、独自の繁栄を達成し、1万年も持続できたのか。自然科学の手法を用いた最新の研究成果や、長年の発掘調査から明らかになってきたのは、日本列島の豊かな自然を巧みに活用する、独特の姿だった。さらに、縄文とのつながりを求めて、取材班が訪れたのは、ロシアの巨木の森。そして、地球最後の秘境とも言われるパプアニューギニアで進められている、縄文土器の謎を探る調査にも密着。時空を超えながら、世界に類のない縄文文化の真実に迫っていく。
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「今よみがえるアイヌの言霊」「石狩川」

2018年02月12日 12時17分58秒 | 日本人論
NHK ETV特集「今よみがえるアイヌの言霊」(2017.3.25放送)

 日本人はなんとなく「日本は単一民族国家である」と思っている節があります。
 しかし北海道中心に、日本人とは異民族である「アイヌ」が住んでいます。

 放送を見て、北海道におけるアイヌ迫害の歴史は、アメリカ大陸におけるインディアンの迫害の歴史と重なるものがあると感じました。

 アイヌは狩猟採集民族でした。
 自然の恵みが豊かであったために、稲作を必要しなかった環境で生きてきたのです。
 ですから、自然恵みに感謝し、自然がもたらす災害を恐れました。
 あらゆるものに魂が宿り、人間の力の及ばないすべての自然に「神」が宿ると考えて、それを「カムイ」と呼びました。
 八百万の神の起源は、アイヌ文化にあるのではないか、と私は感じました。

 明治時代になり、北海道に本土人が入職し、農業を始めます。
 それに伴い、アイヌも狩猟採集をやめて農業に従事するよう仕向けられます。
 さらに明治半ばに「北海道旧土人保護法」により、さらに生活が制限され、アイヌ語を学校で教えることさえ禁じられました。

※ 下線は私が引きました。

■ 「今よみがえるアイヌの言霊〜100枚のレコードに込められた思い〜」
2017年12月17日放送:日本放送協会



 NHK札幌放送局の資料室に眠っていた100枚のレコード。そこには、太平洋戦争直後に北海道の各地で録音したアイヌの人々の肉声、歌や語りが残されていた。そのままでは再生が困難な古いレコードの汚れを注意深く取り除き、原音が消えないようにノイズだけを消して整音する地道な作業が続けられ、70年の時を経てアイヌの言葉がよみがえった。鮮明に再現されたアイヌの人々の声はぬくもりを感じさせる優しさを伴って伝わってくる。
 もともとアイヌ民族の文化は口伝えで受け継がれており、文字としては残されていない。明治32年に制定された「北海道旧土人保護法」により、アイヌ独自の文化継承が妨げられ消滅の危機にさらされるなか、道内各地で録音された歌や語りの音源はかけがえのない記録となった。独自の文化を継承するために孤軍奮闘してきたアイヌの人々、研究者、そして録音に携わった技術者たち、それぞれの努力が紡がれて貴重な文化遺産を守ることとなったその意味は大きい。
 修復したレコードには、もてなしの心を伝える祝詞のような挨拶、祭りや儀式の時などに披露される歌、神や英雄が活躍する叙事詩などが記録されている。その音声に耳を傾けながら、昔の祭りや生活の様子を映し出すモノクロ動画や写真、さらには研究者が言葉を読み解いて書き起こした内容をあわせ読むと、当時の人々の暮らしや思いに心を通わすことができる。
 大自然と共に暮らし、身の回りの万物に感謝しつつ、人間の能力を超えたあらゆるモノに「カムイ」という神が宿ると考えてきたアイヌの人々。彼らはかつて「旧土人」と差別され、政府の同化政策で自らの言語や風俗習慣を変えざるをえなかった歴史を背負っている。失われつつある彼らの文化を未来に残していこうと、地元北海道の小学校では昨年度から子どもたちにアイヌ語を教える試みを始めているという。


 
 NHK-BS「新日本風土記」の「石狩川」でもアイヌが扱われていました。
 こちらは、明治以降に北海道へ入植した本土人と、もともと800年前から住んでいたアイヌの両方の視点で描かれています。

■ 新日本風土記「石狩川」
2018年1月5日:NHK-BS
 全長268キロ、北海道中央部の大雪山系に源を発し日本海に注ぐ大河・石狩川。アイヌの人々が「イシカリペッ」(激しく曲がりくねった川)と呼んだ通り、もともとは平地を大きく蛇行しながら流れる暴れ川だった。しかし明治以降、大規模な河川改修と農地開発が行われ、流域は日本有数の米どころへと生まれ変わった。また、石狩川はサケの宝庫。毎年秋に遡上する大量のサケは、縄文時代から人間の生活の糧となってきた。アイヌの人々はサケを「カムイ・チェプ(神の魚)」と呼び、毎年秋にサケを迎える儀式を行い敬ってきた。サケは現在では、人工ふ化した稚魚を毎年放流することで資源が維持されている。
米などできないと言われた極寒の地で石狩川の水を引き、米作りに情熱を傾けてきた開拓農民。百年以上途絶えていた伝統のサケ漁を復活させたアイヌの人々。明治以来150年の石狩川の急激な変貌は、そのまま北海道の歴史と重なる。先住民族アイヌの人々と和人の開拓民が歩んだ苦難の歴史を石狩川の風土と共に描いていく。

◇ 旅のとっておき 〜番組制作者による「私のおすすめ石狩川」〜
 石狩川を担当した田中と申します。取材でお世話になったみなさま、本当にありがとうございました。
 北海道民は、感謝の思いを込めて「母なる川」と呼びます。取材すればするほど、北海道で生き抜いてきた人たちと石狩川との深いつながりを実感しました。
 石狩川は、北海道随一の大河。長さはもちろん北海道1位。流域面積も、広大な北海道の6分の1にまで及びます。
 石狩川を訪れる際には、とても1日では回りきれませんから、何日もかけて、じっくり旅するのが良いのではないでしょうか。
 北海道の歴史とゆかりのある、石狩川のおすすめスポットをご紹介します。

 石狩川の河口・石狩市でおすすめするのは、創業明治13年、老舗のサケ料理専門店です。番組でもご紹介した数々のサケ料理のほか、実は、全国的にも知られた「石狩鍋」発祥のお店でもあります。
 石狩鍋というと、どんな料理を思い浮かべるでしょうか?
 私は、サケの入った味噌味の鍋、くらいのイメージしかありませんでしたが、美味しくするコツがあるんだとか。
 本場の石狩鍋は、キャベツを入れたり、イクラを添えたり。中でも、代々、女将さんに受け継がれてきた一番の秘訣が、必ず石狩川の河口付近で取れたサケを使うこと。何でも、河口で取れるサケは、これから長い距離をさかのぼるため、一番脂が乗っていて、味もいいとのこと。サケの町だからこそ味わえるご馳走をぜひ一度ご賞味ください。

 石狩川中流域でおすすめするのは、美唄市にある宮島沼。
 ここは、年に2回、渡り鳥のマガンが飛来し、羽を休める中継地です。早朝になると、7万羽ものマガンがエサを求めて、一斉に飛び立ちます。その光景は、本当に壮観です。
 この宮島沼は、石狩川の氾濫によって生まれた沼のひとつ。
 かつての石狩川は氾濫を繰り返してきた暴れ川でした。石狩川は、勾配の緩やかな平野部を流れています。そのため、もともと大きく蛇行しながら流れていました。「石狩」の語源は、アイヌ語で「イシカラペッ(回流する川)」であるとも言われています。石狩川がひとたび氾濫すると広大な面積が水没したため、明治以降、曲がりくねった川筋を工事でショートカットし、直線化することで治水を図ってきました。そのため、現在は全長268キロ、日本第3位の長さですが、かつては100キロ以上も長かったといいます。
 氾濫の減った石狩川の流域には、今や北海道の人口の半分以上が暮らしています。治水工事が行われる前の石狩川は、信濃川を超えて、日本1位の長さだった?かもしれません。

 石狩川の上流でのおすすめは、旭川市にある、アイヌ文化の資料館、川村カ子トアイヌ記念館です。北海道と名付けられる前から、石狩川とともに歩んできたのが、アイヌ民族の人たち。そのアイヌの暮らしと歴史を伝える資料が数多く展示されています。
 敷地の一角には、チセと呼ばれるアイヌ伝統の家屋も建てられており、アイヌの伝統文化を伝える行事などに使われています。
 旭川と言えば、寒さが厳しく、冬はマイナス20度まで下がります。今のように生活環境も整っていない中、自然の恵みを使って、生き抜いてきた知恵と工夫に頭が下がります。
 この資料館が作られたのは、今から100年前の大正5年。日本最古のアイヌ資料館です。今、昔ながらのアイヌの暮らしをしていらっしゃる方は、ほとんどいらっしゃいません。しかし、そうした暮らしや文化を大切に残そうとされた方々や、これからも伝えようとしている人たちの思いに触れてみてはいかがでしょうか。

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「京都の食 8つの秘密」

2018年02月11日 12時22分48秒 | 震災
2016.1.3:NHK-BSにて放送。
NHKドラマ「鴨川食堂」の原作者とヒロインが京都の味巡り。

聞いたことはあるけど、自分では説明できない用語や、聞いたこともない言葉がしっくりくるようになりました。
各コーナーで有名料理店が出てきますが、名前は写っているけどNHKなのでアナウンスはされませんね。




番組内容
 長い歴史に育まれてきた京都の食文化。その秘められた魅力を京弁当・おもたせ・仕出し・豆腐・お茶・和菓子・漬物・お番菜の8つのキーワードを頼りに、女優の忽那汐里と作家の柏井壽が探っていく。例えば、お茶席で使われる和菓子は特別な形をしており、連想ゲームの道具だった!漬物の代表格しば漬けは、おもてなしの原点だった!そして、お番菜の知られざる本当の意味。目からうろこの話満載、京都の食のエンターテインメント。
【出演】忽那汐里,柏井壽

1.京弁当
 花見弁当にお月見弁当…。京都では江戸時代以降、自然を楽しむためのお供としてお弁当の文化が発達してきた。5色の色合いを大切にし、おかずの配置に趣向を凝らすなど、そこには食べる人を楽しませるさまざまな工夫がほどこされている。京弁当という小宇宙に秘められた京都ならではの文化とは。
★ 老舗料理店「菱岩」さんが登場。

 お重の箱の中に、四季の自然の花鳥風月が凝縮されていることを初めて知りました。
 ご飯がモコモコ盛られているのは「山」をイメージしていたのですね。


2.おもたせ
 訪ねてきた知人や友人が持ってきた手土産を、そのままもてなしに使う「おもたせ」は京都で生まれた言葉だという。京都ではさば寿司が、その代表格。人々は、さば寿司を食べながら話を弾ませる。では、一体なぜ、おもたせが京都で生まれたのか。そこには、京都ならではの特別な理由があった。
★ 「いづ重」さんの鯖寿司が登場。

 この言葉、知りませんでした。勉強になりました。

3.仕出し
 京都では、人生の節目や大勢の来客の時に、専門の店や料亭に作らせた料理で客をもてなす“仕出し文化”が根づいている。普通の出前料理と違うのは、客から意見をもらい、客の好みに合わせて料理を作るということ。仕出しとは、料理人と客がコラボして作り出し、高めあってきた食文化だった。
★ 「木乃婦」さん登場。

 北関東の当地で「仕出し弁当」というと、出来合いの定番メニュー、というイメージですが、京都では客と仕出し専門店とのやり取りで作り上げていく過程があることを知り、驚きました。
 仕出し専門店の主人が心がけているのは「冷めても美味しいもの」だそうです。


4.豆腐
 湯豆腐に精進料理…。京都では豆腐は料理の主役として、また他の料理を引き立てる脇役として、長い間親しまれ続けてきた。そのおいしさの秘密は、なんと言っても水。京都の地下には無数の水脈が走っていて名水を生み出している。どんな食材ともけんかしない豆腐の魅力を探る。
★ 「入山豆腐店」さん登場。

 もどき料理としての「普茶料理」に多用された食材「豆腐」。
 妻と結婚した当時、奮発して京都の街中の「俵屋」さんに一泊したことがあります。
 そこの朝食で出てきた湯豆腐の味が忘れられません。


5.和菓子
 和菓子と言えば花や葉っぱなど自然をモチーフにした形のモノが多いが、京都の茶会に出される和菓子は抽象的でわかりにくい形をしている。そこには、京都ならではの理由があった。茶会の席で客人たちは、その和菓子にどんな意味が込められているのか、想像して楽しむのだという。
★ 「紫野源水」さん登場。

 茶会で出される和菓子は、主人が和菓子店にイメージを言って職人がそれを表現するという創作の世界。客人は和菓子を食し、お茶を点ててもらっている間にその名前“菓名”を当てるというゲーム性もあるのですね。
 京都らしい、風流な遊びだと思いました。


6.お茶
 お茶の産地・宇治が近くに位置することから、京都ではお茶の文化が花開いた。そんな京都の庶民が一番親しんでいるのは、抹茶でも緑茶でもなく、実は、ほうじ茶。「食事の最後にほうじ茶でしめると気持ちが安らぐ」というのは作家の柏井壽さん。京都人とお茶との少し意外な関係を見つめる。
★ 「山本園茶舗」さん登場。

 私もほうじ茶の香ばしい香りは大好きです。
 京都に住んでみたいなあ。


7.漬け物
 京都人は漬物が大好きだが、中でも特に好まれるのがしば漬け。しば漬けの産地、京都市の北部に位置する大原では中国から伝えられた赤しそを800年以上にわたって守り継いできた。そして、おもてなしの原点とも言われる“しば漬けとある女性に関する物語”が語り継がれてきた。その物語とは…。
野呂本店の「御所しば」が登場。

 柴漬けは寂光院の住人であった平清盛の娘である建礼門院を慰めるために大原の人々がおもてなしに提供したもの。「この土地にはこんなものしかありませんが・・・」という一歩引いたスタンスがおもてなしの精神だそうです。
 柴漬けは京土産の定番ですね。でも食べ頃が1週間くらいで、それ以降は味が落ちてしまいます。


8.おばんざい
 最近、お料理やさんでも人気の京都のおばんざいだが、もともとは、家庭で作る質素なおかずのことを意味していた。毎日の食事が重ならないように料理の順番を決めていたことから、「お番菜」と呼ばれるようになったという。おばんざいには、京都のお母さんの知恵や工夫が詰め込まれていた。


 以前やはりNHKで拝見した老舗呉服問屋「杉本家」の『歳中覚(さいちゅうおぼえ)』が出てきました。商売をしていた杉本家で働く人々の賄い料理は、限られた素材で、倹約して、でも飽きないように工夫され、毎月出す料理の“順番”が決められていたのでした。
 また、保存が利いて応用しやすい食材としてがんもどき、湯葉などが紹介されていました。やはり蛋白源の大豆は偉大です。
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