知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「神社の古代史」(岡田精司著)

2017年04月18日 13時09分34秒 | 神社・神道
2011年、學生社。

以前から読みたい読みたいと思いつつ、諸般の事情でなかなか手が出せなかった本をようやく読むことができました(^^)。

期待に違わず、充実した内容でした。

日本における神の概念から始まり、
神社そのものの起源、
有名神社の成立の背景、
1000年前の神社をめぐる環境、
神社と政治の関わりの変遷、

などなど盛りだくさん。
私のような初級者にはうってつけの入門書です。

ただし、古文や初めて聞く単語が羅列するところでは、なかなか頭に入らずちょっとくじけそうになりました(^^;)。

一番印象に残ったのは「延喜式」の解説です。
奈良時代の延喜年間に作成した律令の細則ですが、日本全国の神社を歴史上初めて格付けした貴重な資料とされています。
しかしその実は、政権は力による日本統一だけでなく、伊勢神宮を頂点とする神社のピラミッドを造ることにより国民のこころをも支配することを目論んだ、という政治絡みの法律なのでした。
質は違うけど、政治に利用されたという点では、明治時代に国家神道の元に神社を統制し、世界戦争へ突入していった史実と一部重なるところがありますね。
・・・そのおかげで昔の神社の記録が残ったという功績もありますけど。

それから、奈良時代には奴隷がいたとサラッと書いていることに驚きました。
奈良時代の人口600万人の中で、よい生活を保障された支配階級はその家族も入れてせいぜい1000人だったと。
一般民衆は租庸調に苦しむばかり。


<備忘録>

■ 古代日本の神々の特徴
1.あらゆるもの(物体でも生物でも)に神霊が宿っていると考えられ、多様な神格が存在する。
2.神は平常は人里に住まない。遠方の清浄の地、それは山の奥や海の彼方と考えられ、そこから祭りの日だけやってくる。
3.神は目に見えないもの。だから神の形(神像彫刻など)は本来はけっして造らなかった。つまり偶像崇拝はかつてはなかった。現在残されている神像彫刻は、すべて仏教の影響を受けた平安時代以降のもの。
 姿を見せぬ神が人々の前に現れて祀られる時には、神様が憑(よ)り付く物体などが祭りの対象として必要となる。
 神社ではご神体を見せない構造になっているのは、神の姿は見えない、また見てはならないという神社以前からの古い信仰が潜在的に伝わっているためと推測される。
4.神と死者の霊とは本来まったく区別されたものであった。
 平安時代に入ると天神さまなどの御霊信仰以後、人を神に祀る風習が始まるが、それが拡大されるのは近代の国家神道のもとにおいてのこと。
5.イネの祭りが日本の神と強く結びついている

■ 山の信仰(大場磐雄氏の説)
1.浅間型:山容が秀麗で周囲の山々から一際高く目立つ形をしている(例:富士山、白山)。浅間型の山は麓の聡美屋から仰いで拝むのが原則であり、古くは登る対象ではなかった。信仰のために登山が始められるのは修験道以後のこと(例:男体山、穂高岳、立山)。
2.神南備型:人里に近い比較的低い山で、傘を置いたようななだらかな優しい山容が特徴(例:奈良の三輪山、春日山)。全山緑で覆われていることも特徴。
 浅間型が峻険な山容で人々を寄せ付けないのに対し、神南備型の方は村里に近い緑の小山だから、人々の生活と密着していることが特徴。


■ 桃太郎伝説
 神聖な山の中から流れ出す川、川の上流から流れてくるものは神の世界から来たもの。川を媒介にして神の世界から来臨する神の子。

■ 磐座(いわくら)と神木
・磐座:岩、岩石を崇拝対象とするもの。大きいものとは限らない(例:鹿島神宮の要石)
・・・やがて信仰が進むと、そのような岩石は神そのものではなく、神を祭るときに神霊を憑り付ける依り代と考えられるようになる。
・神木:常緑樹を崇拝対象とするもの。ケヤキは例外で、巨木になり枝振りがいいせいか、落葉樹だがしばしば御神木になる。大きさは問わない。
 常緑樹の立木でも、切り取った枝でもよく、そこに神霊を迎えるものがヒモロギ。
(例)老蘇神社(滋賀県安土):老蘇森(おいそのもり)という森そのものを神として祭っている。

※ サカキはサカキだけではない?
 ヒモロギや玉串などに用いられる植物をひっくるめて榊と呼ぶ。神事に使われる榊は、ツバキ科のマサカキだけではなく、今でも地方ごとに榊の名で呼ばれる植物はさまざま。ツバキ・ナギ・スギ・マツなどさまざまな植物が、各地で「サカキ」として神事に用いられている。共通の条件は「常緑樹」。

■ 神社が成立する条件3つ
1.一定の祭場と祭祀対象
 祭りを行うための場所は、日常の生活の場から切り離された神聖な空間でなければならない。弥生時代・古墳時代の祭祀遺跡の多くが生活・生産の場から離れた山麓や水辺に営まれている。
 古い神社の境内地では樹木の伐採や立ち入りを禁じている例が早くから見られ、おそれくそれは古い祭場の慣行に基づくものであろう。古い神社の境内地は、背後に山か森があり、手前には川や溝があって、水によって俗界と判然と区別されていることが多い。水流が境界となっている場合には、祭りに参加する人がその水で身を清めたと思われる。
2.祭る人の組織
3.祭りのための建造物の成立
 古代の神祭りの場所は、はじめは特に建造物は造らず、祭場の一角に神霊を迎えるための磐座やヒモロギ=神木があるだけの簡素のものであった(古墳時代の祭祀遺跡の多くはこの段階のもの)。やがて祭りの日だけ神を迎えるための何らかの構造物を立てるものに発展し、さらにその社殿(=本殿、とは限らない)が立派になるとともに常設化する。
 神社建築の起源は多元的であり、各地でそれぞれの土地の神祭り岡達に相応しい社殿の形が生み出されていった。例えば、伊勢神宮の神明造は稲倉様式から発展し、出雲大社の大社造は豪族の住宅様式から発展した。

■ 神祭りは夜に行われた
 灯火の普及しない時代には、人の行動する昼間と神の行動する夜間とがハッキリ区別されていた。古代の宮廷祭祀でも、天皇が自ら行う新嘗祭(にいなめさい)や月次祭(つきなみさい)の神今食(じんこんじき)という神事は深夜の行事だった。村々の神社でも、近世以前からの古い夜の祭りが現在では宵宮・夜祭として大祭の前夜の行事として保存されている場合も少なくない。

■ 「氏神」には2通りの意味がある
1.血縁氏族
 古くは氏神といえば、物部氏とか大伴氏とか、蘇我氏とかそういう氏族、あるいは共同の氏神祭を行う同族の守護神として祭る神であった。
 氏族ごとの氏神の名残として、民俗信仰の中に残っているのが屋敷神である。一族の本家の屋敷の隅とか、裏での丘の上とかに小さな祠として祭られている。お稲荷さんが多いが、八万三があったり、ご先祖の霊を祭るという所もある。土地によっては内神(うちがみ)とか内鎮守(ないちんじゅ)とかいろんな言い方をする。
 お祭りには神主さんを呼ぶ場合もあるが、大抵は本家のご当主が祭主となって行われる。神前に幣(ぬさ)を捧げたり神酒・神饌を備えたりするのは女性(家刀自・・・本家筋の主婦)であった。
 氏神祭は2月または4月と、11月行われた。
2.地域の鎮守さま
 中世になって血縁的な集団から地縁的な関係が主になる集団に代わると、氏神という名前だけが残って、実際にはその土地の鎮守さま、別の言い方でいうと産土神(うぶすながみ)のことに変わってしまう。

■ 古代の祭りにおける男女の役割分担
 古代の祭りは女性と男性が役割分担してペアで行っていた例がたくさんある。お供えはいまでは男の神職がしているが、昔は伊勢神宮のように、女性が神饌を供える役であった。彼女たち(斎女)によって神を喜ばせるために歌があり、舞があったりと思われる。
 その時に祈願のことを申し上げる祝詞の奏上とか、正式に参拝する主役になったのは斎主で男性、音楽演奏も男性の分担と思われる。
 祭りは、神秘的な夜の祭りの部分と、晴れがましい昼の祭りの部分と、それがセットになり行われていた。
 祭りから女性を排除したのはむしろ仏教の影響などがあってからあと、とくに中世以後だと思われる。中世の封建社会で、本土ではお祭りが男だけになり、沖縄では女だけになった。

■ 氏神は祖先神なのか?
 柳田国男は「氏神さまはご先祖」と言っているが、戦後になり「氏の守護神はご先祖さまと違う」という学説が有力になってきている(和歌森太郎ほか)。
 ご先祖のお祭りの仕方と、氏の守護神の祭りの仕方とは大きく違う。
 お社を建ててお祭りするのは守護神である氏の神様である。2月または4月ち11月に行う。
 ご先祖についてはお正月とお盆の年2回、定期的にご先祖さまをお迎えして家の中でお祭り(先祖祭り)をすればよい。
 氏神(守護神)はお祭りしなかったら祟るかもしれない。その祟る神が祭ることによってはじめて自分たち一族の守り神になる。こういう性格のものだから、お社を建てたりして厳粛にお祭りしなければならない。
 守護神が人格神化する以前の状態は守護の精霊と言った方が相応しい。守護の精霊が祖神化するまでには神の通婚があり、そこで若宮の誕生がある。この若宮が人間になる場合はご先祖になる。

■ 『延喜式』と式内社
 “式”は律令の施行細則という意味で、延喜5(905)年に編纂が開始されたため延喜式と呼ぶ(それ以前にも『弘仁式』『貞観式』などが存在)。全50巻からなり、巻第一から巻第十までが神祇に関する内容で、そのうち巻第九と巻第十が一般に「神名帳」と呼ばれる神々のリスト。
 最高神としての伊勢神宮を頂点として、全国の神々を序列化することが律令制度の神祇政策の目的であった。「神名帳」に載っているのは、あくまでも神祇官でお供え物を配ったりする祈年祭の、その対象になる神社だけ。このような神々の階層化・序列化ということは、現実の天皇を頂点とした中央帰属集団による律令的な全国支配の形態を、そっくり神々の体系として反映させたものと言える。
 延喜式の一番始めに四時祭(春夏秋冬の祭)が記されており、その中で一番重要なのが2月4日の祈年祭(トシゴイノマツリ)という、天皇の名で行う稲の豊作祈願の祭儀である。
 この祈年祭に調停から幣帛つまり供物を下賜する3132座の神々のリストが神名帳で、これらの神社が「式」の内に載せられているという意味で「式内社」と呼ばれる。この時代の「幣」というのはゴヘイのことではなく、神に供える絹などのお供えの品物を指す。
 式内社の分布には非常に偏りがある。
 式内社のうち神祇官の祭る神737座、これがいわゆる「官幣社」であり、神祇官から幣(供物)を奉る社ということで官幣社と呼ぶ。官幣社は案上官幣304座と案下官幣433座に分けられる。
※ 「案」とは机のこと。神職達を神祇官に集めて班幣するとき、机の上に供物を置く、丁寧な扱いの神社が大社。机なしに床に直に薦(ごも)を敷いて供物を並べるのが案下の官幣社であり、幣物の品がグッと落ちる。
※ 「座」というのは神社の数ではなく祭神の数。

■ 奉幣と班幣〜神社の序列化/主従関係
 祈年祭の時に、天皇の使いという形で勅使が幣物を持って出かけてお供えをするのは伊勢神宮だけでありこれを奉幣と呼ぶ。それ以外の神社に対しては班幣といって、“神主と祝集まれ”と命令して、祈年祭の幣物を神祇官に集まった神職達に配布する。
 その集まりの時に祈年祭の祝詞を読み聞かせることになるが、その内容は、祈願の対象としては天皇が祭る神祇官西院の神々と、同じく伊勢神宮の神、そして古来天皇家と縁の深い南大和のいくつかの神々だけを挙げているだけ。そういう神々たちをお祭りする言葉を地方の神々に言い聞かせて「おまえ達よく承って天皇の祭る尊い神々を助けて五穀豊穣になるようにせよ」と命令している。
 つまり、朝廷が尊んでお祭りする神々と、朝廷に服従して命令される神々とがはっきり分けられている。
※ 延喜式ができる前後の頃に、祈念班幣の制度はすでにがたがたに崩壊しつつあったことが記録(三善清行による「意見十二箇条」)からわかっている。

■ 国弊社2395座
 国司の庁が神祇官に代わって弊を班(わか)つ社で官幣社に対して国弊社という:大188座位、小2207座。
 国司が国弊社にお供えする品々は、官幣社に比べてずっとレベルが落ちている。

■ 神社の社格
1.名神(みょうじん):延喜式では大社は304座で、その中の285座を「名神」にする。名神祭というのが神祇官で行われるが、そこでお祭りされるのが名神社で、これが最高の待遇になっている。
 名神大社と他の大社、地方の小社、まったくの無格社という区別。
2.神階:神々に位を与えること。たいていの神に与える位階は五位か六位であり、国司(受領)クラスであった(今の県知事にあたる)。
※ 律令制度の下でいろいろな点で優遇を受けるのは五位以上の官人であり、位田という領地や位禄または位封(いふ)、封戸(ふこ)といった莫大な給与をもらう。

■ 奈良時代の日本の人口は奴隷を入れて約600万人。
 奴隷がどれくらい板かという推定はおそらくできない。

■ 奈良時代の神社の序列
 天皇・畏施腎盂宇野元に中央貴族と関係の深い畿内の少数の大社の神々と、地方のごくわずかの特定の神にだけ名神大社の社格と高い神階を与える。園下の地方豪族の祭る神々は式内の官社に組み入れる。そしてその神々の間にも社格の大・小や神階に差を付けて階層化する。村里の神々はその下にあって国家祭祀の対象にはならなかった。

■ 国司神拝と一の宮制度・総社制度
 奈良時代に始まる制度で、本来は祈念祭班幣を行う官社制度に対応していたもので、国司が管内の官社を掌握し、管理するために巡検したもの。
 神宝、つまり盾や矛などを国司が作って都から持っていき、その国の有力な一の宮、二の宮などに奉納した。これは国司が代わるたびに行い、前の御神宝と取り替えた。つまり、地方の神々の真の祭祀権はその地方の豪族にはなく、本当は天皇が握っているのだ、ということを示威するために国司が行う、祭祀権者である天皇に代わって、国司が地方の神社の祭祀権を行使することを意味すると考えられる。
 やがて平安時代中頃になると参拝する神社の順序がやかましくなり、格の高い神様のところから順番に参拝するようになる。これが“一の宮”の制度で、一の宮、二の宮と順番を付ける。このように形式化されていくのは平安時代の半ば10世紀から11世紀で、鎌倉時代にも引き継がれ、室町時代になると消えていく。
 形式化が進んでくると、全部回るのが面倒くさいという国司が出てくる。そこで“総社”という制度が始まる。国内の有力な神社を国衙(こくが)つまり国庁の近くの1箇所に国内の神々を勧請してお祭りする制度で、現在も国府跡の近くに総社神社、六所神社という名前で残っているものが多い。
※ 大國魂神社(府中市)は延喜式に出てくる大國魂神社ではなく、武蔵の国府の側につくられた総社で六所宮といったのを、明示になって式内社の大國魂神社にしたもの。
※ 群馬県の総社神社は、上野国内の神々の名簿が巻物になってご神体になっている。

■ 明治時代に始まった祈念祭は古代の祈年祭とは別物
 明治時代になり全国の神社の大祭として2月17日に祈年祭が行われるようになった。これは国家神道の元で全国一律に開始されたもので、それぞれの神社の伝統や事情を無視して共催されたものであり、古代の祈年祭とは名前は同じでも全く別物。戦後はこの行事は廃れたが、まだ戦前の形式を続けている神社が少なからず存在する。

■ 明治時代の官社制度復活
 国家神道の立場からの序列として官幣社・国弊社・府県社・郷社・村社という社格が新たに設けられた。形式上のもので古代のものとは目的・性格も全く異なる。そこでは天皇=宮内省から幣帛を供える神社が最高の官幣社、つぎが政府=大蔵省が共進する国幣社となる。
 また官幣社・国幣社の中でもそれぞれ大社・中社・小社のランクがあり、その地位を巡って昇格運動があったりした。また古代にはなかった別格官幣社、勅祭社というものができた。
 この制度も敗戦とともに崩壊した。
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神様の罰が当たりそう・・・。

2015年08月05日 18時17分44秒 | 神社・神道
 伊勢神宮周辺のお店で脱税が発覚しました。
 「神様の罰が当たる」という感覚はなかったのでしょうか・・・残念です。

■ 式年遷宮:伊勢神宮周辺の32業者所得隠し2億円超
(毎日新聞 2015年08月05日)
 「式年遷宮」で多くの観光客が訪れ、特需となった三重県の伊勢神宮周辺の飲食店やホテルなど32業者が名古屋国税局の税務調査を受け、主要行事が行われた2013年までの7年間で計約2億1000万円の所得隠しを指摘されたことが5日、分かった。経理ミスによる申告漏れも約7000万円あり、追徴税額は重加算税も含め約5000万円とみられる。
 関係者によると、指摘を受けたのは同県伊勢市にある神宮周辺の飲食店や土産物店、隣接する鳥羽市のホテルなど。売り上げを実際より低く装ったり、経理操作をした帳簿を作ったりして所得を圧縮していた。
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「神社と日本人」(島田裕巳監修)

2014年08月02日 18時51分47秒 | 神社・神道
別冊宝島、2014年発行。



宗教学者の島田裕巳氏監修。
私にとってある意味「目から鱗が落ちる」内容で、想定外の収穫のあった本です。

神社には祀られている神様達がいます。
その神様達に、以前から私はある疑問を持ってきました。

「なぜ、『古事記』や『日本書紀』に出てくる神様ばかりなんだろう?」

もともと、神社はその土地の守り神である「産土神」を祀る場所であったはず。
田舎の小さな神社に「天照大神」とか「大国主命」などの天皇家の祖先神が祀られている違和感。

なので、私が好きな神社は、仏教や『古事記』『日本書紀』の影響を受けない産土神を祀る場所です。
滅多にお目にかかれませんが・・・。

島田氏がその理由を教えてくれました。
神様達は、皆明治時代に再編されたとのこと。
「明治になると神話を歴史的な事実としてとらえて、神話に登場する神様も重要なものと考えるようになるから、それまで各地域で祀られていた神様を、記紀に因んだ祭神置き換えていく作業が行われた。」

疑問が氷解するとともに、がっかりしました。
市町村統廃合による地名の喪失よりひどい。
明治時代に南方熊楠が「神社合祀反対運動」を繰り広げましたが、それ以前に神様のすり替えが行われていたとは・・・呆然。


メモ
 自分自身のための備忘録。

「磐座」(いわくら)
 神道の一番古い信仰の形は、岩に神様が降りてくるというもの。そしてその岩そのものが、現在でも信仰の対象となっている。これを「磐座」と呼ぶ。

神道の柔軟性
Q. 海外の場合、原始信仰の上にキリスト教が乗ったことで、実体が見えなくなった。しかし日本において、仏教と混ざりながらも原始信仰が現在まで残ってきたのはなぜか?
A. 神道には、開祖も教義も「ない宗教」であるがゆえに、仏教という「ある宗教」と衝突することがなかった。時代に応じて、状況に応じて融通無碍にその姿を変えていけるという、神道の性質そのものが存続した理由である。

神社と記紀神話の神様
 神社にとって、記紀神話の神様は、それほど重要なものではなかった。日本で一番数の多い八幡神社を見ても、八幡神は記紀神話とまったく関係ない。稲荷、天神も関係ない。
 例えば、「祇園さん」で有名な京都の八坂神社の祭神は素戔嗚(すさのお)ということになっているが、もともとは牛頭天皇(ごずてんのう)という正体不明の神様を祀っていた。長野の諏訪大社ももともとはミシャグチ神という正体不明の神がいたのに、後に記紀の国譲り神話に因む建御名方(たけみなかた)という神が祀られたということになっている。
 つまり、日本人は記紀神話に記載された神を祀ってきていなかったということになる。結局、記紀で体系化されている今の神社の世界を一度忘れないと、昔の姿はわからない。
 明治時代になると神話を歴史的な事実としてとらえて、神話に登場する神様も重要なものと考えるようになるから、それまで各地域で祀られていた神様を、記紀にちなんだ祭神に置き換えていく作業が行われた。すでに置き換えから百数十年経っているので、みんな自分たちの神社の神様は昔からのものだと思っているけど、実際にはそんなに古いものではない。根本的に日本の宗教世界というものは、近世から近代にかけて偽造あるいは変容させられたのである。
 その目的は、近代の日本国家において、国民全てが共通の「神話」をもった一つの民族であるというふうに統合するため。それ以前の日本は藩のゆるやかな集合体であり、それぞれの地域の神様を拝んでいた。そういう意味では、今、我々が知っている神社神道は、近代が生んだ「新宗教」である。

日本の神社システムはコンピュータのクラウドに似ている
 家の神棚にお札を祀れば、本来の神様と家の神棚はつながったということになる。
 これは現代でいうと、コンピュータの「クラウド」の構造に近い。だからインターネットの論理で考えた方が、神道の論理はわかりやすい。
 神を降ろすのはダウンロード、お札の更新はソフトのバージョンアップ、穢れや災難はウイルスだと考えればしっくりくる。

神籬(ひもろぎ)と 磐境(いわさか)
 神道の起源は縄文時代にまで遡るといわれる。
 初期の神道では、自然の中でも異彩を放っている巨木や巨石を神の降りる「依代」として崇拝するようになったと考えられる。
 このとき、巨木の代わりに榊などの樹木に神を降ろしたものを神籬、神を祀るための岩でできた祭場を磐境という。現在でも家やビルなどを建築する前には結界としてその中に簡単な祭壇を作り、地鎮祭を行うが、この祭壇が神籬である。
 ちなみに磐境に似た言葉で「磐座」(いわくら)というものがある。厳密にいうと、神が直接降りる石を磐座といい、その磐座を中心とした祭祀場磐境と呼ぶようだ。
 良くも悪くも神道には「実体」がない。さまざまなことを受け入れ、いかようにも姿を変えていく。それでいて、本質はまるで変えられることもない。

稲と神道と天皇
 日本は「豊葦原の瑞穂の国」だと『古事記』には書いてある。瑞穂は稲だから、日本は稲の国であり、国の繁栄が永遠に続くように神に祈り続ける役割を担った祭祀王、それが天皇ということになる。
 神道では神への供物として食料が捧げられる。これを「神饌(しんせん)」というが、一般的には以下のようなものが品目として定められている。
にきしめ(白米)・あらしめ(玄米)・酒・餅・海魚・川魚・野鳥・水鳥・海菜・野菜・果物・塩・水
 筆頭は米であり、いかに稲が重視されていたかがわかる。
 現在でこそ日本は米余りだ。しかし、稲穂あふれる国はずっと日本人にとっての理想郷であり、夢の国だった。白い米を誰もが好きなだけ口にできるようになったのは比較的最近(せいぜい第二次世界大戦後)であり、日本の歴史全体から見ればわずかな期間でしかない。逆に言えば、神道が理想とする稲穂の国は、最近になってようやく実現したと云えるのかもしれない。


神社の社はいつできたのか。
 神籬(ひもろぎ)や磐座(いわくら)をルーツとするが、初期の神社は祭祀のたびに設けられるものであり、常設されるものではなかった。
 宗像神社の沖津宮が置かれた沖の島(福岡県宗像市)の古代祭祀場跡が参考になる。祭祀は4世紀後半にはじまり、以後600年にもわたり神への祈りが捧げられてきたことが調査で判明しており、この遺跡をみれば4~10世紀の日本人の信仰形態が窺い知れる。
 沖の島では島内で祭祀が行われた場所が時代と共に変化している。もともと神への祈り、祭祀は神が降りる巨大な岩(磐座)の上で行われていたのだが、時代と共に磐座の陰になり、ついには磐座から離れた露天で行われるようになる。その結果、最終的に神の降りる磐座と祭祀場は分離され、祈りのための社ー神社が人里に近い山の麓などに造られるようになったのではないか、と想像される。
 一つの説として、神社の社は寺院建築の影響を受けて造られるようになったのではないか、というものがある。もしそうなら、神社の出現は仏教伝来(6世紀中頃)よりも確実に後ということになる。
 仮に神社建築が仏教建築の影響を受けて始まったものだとしても、その後の発展過程では、意図的に神社側が仏教建築の特徴を排除しようとしたらしい。

呪術としての神道
 魏志倭人伝(魏の史書『魏志』の「倭人の条」)での記載。
 倭国では、人が死ぬと喪に服して泣き、他の者は歌い踊って飲酒していた。その後、遺体は棺に納められ、土に埋められて塚が作られた。そして葬儀が終わると、人々は水に入って体を清めた。
 これを読むと、基本的には後の土葬による葬儀の風景とあまり差はない。また、水に入って体を浄めるというのはいわゆる神道の禊ぎであり、今日の神道儀式につながる思想が既にあったことがうかがわれる。
 呪術的な面では、倭の船が海を渡るときに「持衰」(じさい)という航海の無事を神に祈る生け贄を置いた記述もある。食事も肉は決して口にせず、ひたすら船の帰りを待つ。そして無事に船が帰ってくれば褒美が与えられ、不幸にも災難があれば殺されてしまう。
 同書には卑弥呼が行った「鬼道」という言葉も出てくる。卑弥呼は生涯独身で、弟が彼女を助けていたとされ、女王になってからは彼女の姿を見た者はほとんどなく、一人の男子だけが給仕で出入りしていたと伝えられている。この形態から推測されるのは、卑弥呼が神に仕える巫女で、神の言葉を取り次ぐ役割を担っていた可能性がある。
 神道には「亀卜(きぼく)」という占いが残されている。九州・対馬の雷(いかづち)神社では、現在でも亀の甲羅に焼けた棒を指し、一年の吉凶が占われている。これは中国の「令亀(れいき)の法」という、亀の甲を焼き、熱によってできる裂け目を見ることで吉凶を占う方法に由来する。
 また、『古事記』には雄鹿の肩の骨(肩甲骨)を使った占いの記述も見られる。こちらは雄鹿の肩の骨を抜き、そこに波波迦(ははか)(朱桜)の枝を突き刺して占うもので、天皇家の伝統的な占いとされた。この方法は東アジア全般に広く見ることができる。
 古代の日本には亀卜と鹿卜の二つの占い法が存在していたが、律令時代になってからは朝廷の役所である神祇官ではもっぱら亀卜のみが行われるようになった(『令義解(りょうのぎげ)』・・・『養老令』(757年)の注釈書)。そして驚いたことにこの亀卜は、現在でも天皇の即位式である大嘗祭において悠紀(ゆき)・主基(すき)の斎場を卜定する宮中祭祀の秘儀とされている。朝廷での亀卜は応仁の乱以降に急激に衰退し、本格的に復活したのは大正天皇の即位大典のときだったといわれている。
 かつて、朝廷内に占いを専門とする役所「卜部(うらべ)」が置かれていた。もともとは諸国の神社に属していたが、なかには神祇官に所属する者もいた。その一部は役職を世襲するようになり、ついには「卜部氏」と称するようになっていく(例:吉田兼好の本名は卜部兼好)。興味深いのは、朝廷内に卜部氏が存在していたにもかかわらず、国家に関わる大きな占いでは、地方の神社からも人が集められていたことだ。『延喜式』には辺境であるはずの壱岐と対馬から3/4が集まられているところを見ると、いかに壱岐と対馬地方の卜部の力が優れていたかがわかる。

■ 分霊・勧請
 神社は、もともとその土地の神様を祀る信仰から始まった。一般にいう「氏神」「鎮守の森」「産土神」と呼ばれる神々がそれで、神社は全てローカルな存在であった。
 そのローカルな神々が全国展開するシステムが分霊(あるいは勧請)である。勧請とは神仏の来臨を請うことを意味し、神道・仏教のどちらでも用いられる。全国展開する契機はさまざまだ;
【八幡神】
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「砂漠と鼠とあんかけ蕎麦」(五味太郎&山折哲雄の対談集)

2014年06月13日 12時46分06秒 | 神社・神道
2011年、アスペクト社発行。

絵本作家の五味太郎と宗教学者の山折哲雄という、不思議な組み合わせの対談集。
この対談のきっかけは、1995年の某TV番組での司馬遼太郎と山折哲雄の対談だそうです。

神道とはどういう宗教なんですか?
と司馬が質問すると、
あれは宗教ではありません、生活の礼節ですよ
と山折が軽く答えるのを五味太郎が見て(この人はすごい!)とその瞬間から恋に落ちたらしい。

五味は早速「神って、いったい何ですか?」と聞いてみたくて山折に対談を申し込んだそうな。
という経緯で成立した、延べ30時間にわたる対談をまとめたモノがこの本です。



五味の素朴な疑問に対して、古今東西の知識を縦横無尽に駆使して答えを探す山折のやり取りが見物です。
ホントに山折先生、博識です。

一神教と多神教、その成立の背景は風土の違いによる、という指摘には納得させられました。
ユング心理学の神髄は「聞く人間がいないと必ず狂気を発する、不安定になる。それがさまざまな犯罪を発生させる原因になっている。」を見抜いていたこと、という記述にも驚きました。
他にも「ははあ、そういうことなのか・・・」と目から鱗が落ちる情報がたくさんあり、読後感良好です。

ただ、対談集の欠点として、詰めが甘いことは否めません。
まあ、読みやすいからいいんですけど。


メモ
 自分自身のための備忘録。

宗教を定義づける必要十分条件
 世界の大宗教、普遍的な宗教と言われているもののほとんどが、「教祖」「教義」「儀礼」を必ず備えている。
 その次に「伝道」が必要になってくるが、これはしばしば攻撃的で、救済の教えを伝えるという大義名分のもとに、実際は戦争をやり続けてきている。それが二千年、三千年経って、今日の世界における宗教対立、民族対立、国家と国家との対立、殺し合い、血で血を洗う状況を作り上げてきた。

「神道」が“宗教”ではない理由
 本来の日本の神道は「教祖・教義・儀礼・伝道」という四要素を持っていなかった。
 人間の心の奥底に潜んでいる、あるいは自然との調和を自然に準備するような、そういう世界。
 ところがその神道も、仏教と結びついたり儒教と結びついたりして国家神道になったときに、おかしくなる。
 平安時代に律令国家と結びついた神道というものができあがり、中世になると仏教と結びついたり密教的な神道ができあがったりして、その延長線上に明治以降の国家神道がある。
 国と結びついたときに日本の神道は変質して、ふつうの宗教が持っている狂気を持つようになった。

宗教と近代化の関係
(五味)宗教的なものからなるべく離れていくことが近代化という感覚をもっている。
(山折)そうならば、近代になればなるほど宗教というものは乗り越えられていっていいはず。ところが、近代を準備したヨーロッパ世界を中心に、宗教対立がますます盛んになってきている。結局、近代というものは宗教を乗り越えることができなかった。

一神教/多神教が発生する風土
 イスラエルの砂漠を歩いたときに、この地上にはなんら頼るべきものがないんだなあという実感に襲われた。だからこの砂漠の民は、天上の彼方に唯一の価値あるもの、絶対神を考えざるを得なかったのだ。
 一神教というものが発生する風土的な条件というのは砂漠である。キリスト教とかイスラム教の発生を考えるときには、砂漠的風土というものを考えなければならない。
 一方、日本は列島全体が森と山に覆われていて海の幸・山の幸が豊かであり、なにも天上の彼方に唯一価値のあるものを求める必要がない。つまり多神教的なものが発生する風土的条件というのは日本的風土なのだ。

「祟り信仰」が日本の信仰のベース
 八百万の神のうちの一人が祟ったために、地震が起こるとか、誰それが病気になるとか、死んでしまうとか、政治が混乱するとか、社会が乱れるとか、全部そういう何者かの祟りだっていう考え方が、昔からず~っと続いている。
 これは「祟り信仰」というもので、日本人の信仰の一番ベースに流れているもの。
 誰かの祟りによって誰かが敗北に追い込まれていく。それを鎮めなければならない。そこで鎮魂の儀礼が登場する。大昔からそういう知恵が働いている。鎮魂の儀礼を怠ると社会は乱れる。
 世界の中で日本が非常にずば抜けて、こういうメカニズムを政治に転用してきた。

2種類の多神教
 一つは目に見える多神教。
 ギリシャの多神教とか、ヒンドゥー教の世界とか、中国の道教の世界のは、全部目に見える多神教。神々が全部人間の姿をしている、つまり肉体性を持っている。
 もう一つは目に見えない多神教。
 それが日本の記紀神話に現れる日本の多神教的な世界と私(山折)は考えている。本来の記紀神話に現れてくる神々というのは、形を、肉体性を持っていない。それは自然の中に隠れている。日本の神様は、みんな記号で表現できる。あるいは、場所で表現できる。
 そういう神々はなぜ存在したかーこの日本の風土と非常に大きな関係がある。それは森の中に鎮まっている、川に存在している、樹木の中に神々がいる、そういう考え方である。
 自然の中に存在しているそういうものを人格化したのが、目に見える多神教であり、ここが大きな違いである。
 今から五千年前とか一万年前の人類の全体の状況は、圧倒的に「目に見えない多神教」だった。キリスト教とか仏教が発生する以前の地球上の人間が考えたことは、天地万物に命が宿っているという信仰だけだったはず。
 それをそのままに受け継いでいるのが日本の神道である。
 自然に鎮まっている目に見えない神々を人格化したヨーロッパが、一神教を生み出した。
 ところが、「あらゆるものに命が宿っている」という信仰もずっと生き続けている。
 それがカトリックの世界に吸収されていった。だからカトリックはかなり多神教的な要素をたくさん持っている。あれを一神教というふうに言ってしまうと間違う。

イスラムの特異性
 イスラムは形あるものに対する徹底した拒否の考え方を持ち、それは中心的地域である砂漠的な世界に起因する。砂漠的世界では、どうしても抽象的な一神というものにこだわる。

「ノアの方舟」は“生き残り”戦略の象徴
 地球に大洪水が襲ってきて、ほとんどの人類は絶滅するけど、ノア一族だけは船に乗って助かるという物語、つまりこれは人類の「生き残り」の物語である。
 このサバイバル、生き残りという思想は、ヨーロッパの歴史、あるいはユダヤ、キリスト教の歴史にずーっと貫いて、それこそ生き抜いている。哲学、宗教、経済、倫理、あらゆる分野の学問のそこを流れているのは、生き残り戦略である。
 アングロ・サクソン(※)というのは、その生き残り戦略に基づいて世界制覇を続けてきた。
 今日のアングロ・サクソンのグローバリゼーションというのは、アングロ・サクソンが作り上げた正義とか理性とか公平さというものを、いわば契約の条件として、それで生き残れといっているのである。
 アングロ・サクソンが“生き残り作戦”と言う場合、それはアングロ・サクソンの生き残り作戦であり、人類全体の生き残りという意味ではない。
※ アングロ・サクソン:5世紀、現在のドイツ北岸、デンマーク南部よりグレートブリテン島に移住してきたアングル人、サクソン人らゲルマン系の部族の総称。

“生き残り”ではなく“覚悟する文明”としての仏教
 ノアの方舟の大洪水のような大災害が地球を襲って、大部分の人間が死ななければならないという運命に落とされたとき、オレも一緒に死んでいこう、我また多くの人々と共に死滅しようという物語、そういう“覚悟する文明”というものがある。それが仏教の無情の物語であり、老子や荘子が考え出した混沌という物語である。
 “生き残り戦略”に対する“無常戦略”と云うべきか。

20世紀は夏目漱石の時代~21世紀に引き継ぐのは宮沢賢治
 「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」という、いわば人類的な黄金の戒律を裏切り続けてきたのが人間だという、その痛烈な認識を文学作品に表した、これが漱石である。
 ところがこれからは、あらためてその3つの文言はどういう意味かというのを考えなければならない時代になってきた。
 それを象徴する作家が宮沢賢治である。
 賢治は黄金律を自分の生活の場で実践するとすればどういうことができるのか、ということを考え続けた男である。とりわけ『なめとこ山の熊』(熊捕りの名人が最後に熊のために自分の体を投げ出して食べさせる物語)にその問題が現れている。「オレはお前たちを捕って食べてそれで生活してきた、だから最後はオレの体をお前たちにやろう」と。熊と人間との関係はギブ&テイク、まったくの平等な関係という世界観。それは犠牲の精神の具現化というレベルの話ではない。人間が動物のために犠牲になるという考え方は、動物を対等に扱っていないことになる。人間は動物を殺して食べる、動物もまた人間を襲って人間の肉を喰らう、そのことを受け入れるという思想。
 人間は動物を殺して食べてもいいけれど、動物は決して人間を襲って食べてはいけないという倫理を、我々が勝手に作った。その歴史が数千年続いているわけで、それを銅生産するかという問題である。

海を見た民族・宗教家
 海を眺めることのできた民族と、まったく見ることのできない民族とは、精神形成においてものすごく違いがある。
 日本の代表的な宗教家(親鸞、道元、空海、最澄)は、海によって精神的に成長している。
 海は無限、山は有限。
 キリストは砂漠地帯で生きたが地中海を見ている、一方ブッダは海を見ていない。

武力を持たないで武力をコントロールしてきた公家の思想
 日本人の潜在能力は「ニコニコへらへら生き抜いていく」「風に柳」という感じ。
 「二枚腰」「三枚腰」「二重三重の複眼的な思考」は公家的なものの考え方。身に寸鉄を帯びずして、軍事力を一つも持たずに、武力というモノをコントロールしてきた、千年の歴史は一種の“日本的非暴力”である。
 ところが現代社会は、その曖昧、中途半端、いい加減を、ほぼ全面的に否定する。「間」のない文化は窮屈である。

人類が唱え続ける「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」という黄金律は実現不可能?
 “近代化”とは“殺し合わないでいける方法”?
 大昔から「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」ということを言い続けてきた。モーゼが云い、ブッダが云い、あらゆる宗教のリーダーたちが言い続けた黄金律。ところが人類はこれを裏切り続けてきている。
 現代では黄金律をうまく言い換えてマイルドな響きにしている。「殺すな」を「命を大切に」と言い換え、「嘘を言うな」という代わりに「真実を語ろう」、「盗むな」の代わりに「与えよ」と云っている。
 これは黄金律を「もうそろそろあきらめようや」と言い始めていると見ることも可能であり、危機的である。

ヨーロッパの矛盾
 大航海時代にヨーロッパの国々があちらこちらの出かけていって略奪三昧し、ヨーロッパは富み、産業革命を経てさらに豊かになった当たりでヒューマニズム(人文主義)が出てきた。メチャクチャ他の世界をやっつけて、そこから奪っていったもので金持ちになって余裕が出てきて、ヒューマニズムが出てきたというのが、笑っちゃうね(五味)

キリスト教以前・以後のヨーロッパ
 古代ギリシャは非常に科学的で冷静に物を見ている。明るくてエロティックで生命を謳歌していた。
 それがキリスト教という一神教が出てきて灰色に変わった。
 塩野七生の『ローマ人の物語』では、キリスト教がヨーロッパの国教になるまでは、ヨーロッパ(ギリシャ、ローマ)の歴史は上昇している。キリスト教が国教化されたときからローマは衰亡の道を辿り始めたという歴史認識を示している。
 上昇した段階の宗教は多神教、一神教になって下降する。

人間の完成度は半分位まで来た、いや来ない
 脳と内臓器官と消化器官と筋肉、血管、神経、その繋がりがどうなっているかということになると、西洋医学でもお手上げ状態。局部的な研究はできているけれども。
 ところが、全体の体の流れがどうなっているか、これについては漢方、東洋医学の方が非常に進歩している。
 
永遠に生きる天津神と寿命のある国津神
 日本の記紀神話の中において、天津神、天上の高天原で活動した神々の世界には、神が死ぬという考え方はなかった。
 ところが、天孫降臨以降は地上の神々ー国津神が出てきた。この国津神というのは全部死んでお墓に葬られている。つまり、神々は死ぬんだよという考えが出てきた。天孫降臨したニニギノミコト以降、神武天皇にいたる尊たちは全部、日向の周辺の山陵(みささぎ)に葬られている。

生け贄の歴史
 日本は、民俗学の研究では生贄としてかつては人間を殺していた。やがて人間から動物とか鳥を殺すことへと変わっていった。たぶんかなりすごく古い時期に。
 アステカでは15世紀まで人肉を喰っていた。

世界中にある太陽信仰
 人類の歴史というのは、最初は太陽信仰がほとんど地球を覆っていたような気がする。エジプトも日本も、どこ行ったってお天道様信仰。そこへ一神教が出てきて、神が出てくる。神と太陽の戦いの時代があって、これが人類史における重要な戦いだったのかもしれない。やがて太陽信仰がやっつけられて、神信仰が前面に出てくる。キリスト教とそれ以前の宗教との戦いも含めて、それ以来、人類は不幸に陥ってきたと考えられる。

文明は砂漠から
 人類というのは乾いた風土から創造的な物を生み出してきたという感じがあって。大きな声では言えないけれど、農業地帯からはあまり創造的な物を生み出していない。何もしなくても、天然の恵みがたくさんあるから、創造的な思考力を必要としない。

間伐材で人間を焼こう
 森が非常に荒れ始めている。間伐が必要だが、間伐材をどうするかが次の問題になる。昔の日本人にとって間伐材は燃料だった。そのエネルギー資源が、石油あるいは原子力に取って代わられ、放ったらかしにされたら山が荒れた。
 私(山折)の提案は「間伐材で人間を焼こう」ということ。インドでは今でもそうしている。
 人が亡くなれば、山から切り出してきた薪や柴を積んで、最小限の油をかけて焼く。じーっと4時間。白骨化するまで見送る。それをガンジス川のように目の前の鴨川に流す。そういうところまでいけば、我々は初めて万葉の時代に戻ることができる。
 今は石油を使って人間を焼いている。火葬場で焼いている。

極楽のイメージ
 日本人にとっての極楽は、魂になって山の上に行って神様仏様になる、ただそれだけ。
 絢爛豪華な極楽をイメージしたのは乾燥地帯の人たち。

キーワードは“捨て子と多聞”
 人間というのは要するにみんな捨て子。
 ブッダ自身、生まれて7日目にお母さんが亡くなって捨て子状態。それから自分の子どもに「悪魔」という名前をつけている。その名前をつけることによって子どもを一遍捨てている。そして出家をして、妻と子どもを勝手に捨てて自分は一人旅に出てしまった。ここでも捨てている。つまり、ブッダの子どもは二重に捨てられていることになる。
 その仕打ちを受けた子どもは、絶対に父親に対する殺意を抱いたと思う。
 最後にその捨てた子どもは釈迦の9番目の弟子(羅睺羅、ラゴラ)になる。
 二度捨てられて父親に敵意を持ち殺意を抱いたに違いないその子どもが、最終的にはその父親の弟子になるという構図。これはもう、人類が二千年、三千年追求してきた大いなる謎に対する答えが、そこに横たわっているという気がする。
 私(山折)の直感では、親父に対する敵意まで持つに至った羅睺羅の不平不満、愚痴、身の上話を、朝から晩まで年がら年中聞いて聞いて聞いた人間が、阿難尊者(10番目の弟子、特徴は“多聞”)だったのではないか、究極的にカウンセリングをしていたんだろうと思う。聞くということに優れた阿難が側にいたから、羅睺羅は立ち直ることができたのだ、と。
 学生と教師、あるいは患者と医者、患者とカウンセラー、その根本の問題は“聞く”っていうことだろうと思う。母親と子ども、父親と子ども、その関係で一番大事なのは、やはり“聞く”ということ。それで開放されていく。

「人というのは罪を犯すものだ」への2種類の対応
1.殺すな、嘘を言うな、盗むなという黄金律を守らせる
2.聞いて聞いて聞くことに徹する
 すべての宗教的なシステム、人間の知恵として、そういう2つの方法があった。

ユングの慧眼
 今日、臨床心理学、ユング的な心理学というのは非常に多くの人に受け入れられ、ほとんど宗教の変わりをしている。
 聞く人間がいないと必ず狂気を発する、不安定になる。それがさまざまな犯罪を発生させる原因になっているということを、ユングは非常に早い時期に知っていた。
 彼は西洋文明の危機的な状況を肌で感じていた。それがフロイトに対して反抗していく契機になる。
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「高知~神々と棲む村」

2013年02月17日 08時52分35秒 | 神社・神道
 NHK-BSの「新日本風土記」シリーズで「高知~神々と棲む村」という番組が放映されました。

~番組紹介文~
 四国山地の奥深く、高知県物部(ものべ)町。ここに、400年以上伝えられてきたと言われる、古い民間信仰が残されている。「いざなぎ流」と呼ばれるその信仰は、神道や仏教、修験道、自然崇拝などさまざまな要素が重なりあい、山の暮らしに合わせて変容した、独特のものだ。
 その祈りを伝えてきたのは、「太夫(たゆう)」と呼ばれる人々。物部の人々は、生活の様々な場面で、太夫を通じて神と語らい、その意志を問いながら暮らしてきた。
 いざなぎ流の大きな特徴のひとつが、太夫が作るさまざまな形の「御幣(ごへい)」。小刀一本で和紙を切って作られる御幣は、神々の似姿であり、神の宿る依り代。その種類は200ともそれ以上とも言われる。またいざなぎ流の祭では「祭文」と呼ばれる唱えごとで、神を喜ばせることが重要とされている。
 山の恵みの中で生きる物部の人々。いざなぎ流の信仰は、かつて日本のどこにでもあった、神と人が語り合い、共に生きる暮らしの記憶を伝えている。


 古来、村に伝わってきた民間神道「いざなぎ流」。
 いわれはありますが、元々はアミニズム、つまり万物に神が宿ると考える民間信仰だと思われます。その後仏教や他のあらゆる宗教を排除することなく受け入れ融合して今に至る日本独特の宗教。
 アミニズムはたくさん神様が居るので、一人や二人増えてもなんの問題もありません。
 そこが、他の宗教神をやっきになって排除しトラブルを生みやすい一神教(キリスト教やイスラム教)と異なるところ。

 山で狩猟し獲物を捕らえるとまず山の神に感謝し捧げ物をします。
 自然と共に生きる人間ほど、一人では何もできない、人間は無力であることを知っているので、物事がうまくいった時に自分以外の物・人・自然に感謝しますし、物事がうまく行くように祈ります。

 その対象を「カミサマ」と日本人は呼んできました。
 山の神様として、巨木にお供え物をする村人の姿が印象に残っています。

 また、秋祭りでは、太夫(神社で云えば宮司)が祝詞を上げている外で、村人が持ち寄った食材に舌鼓を打ち談笑しているというちょっと不思議な光景が。
 祈っているときに飲み食いして笑っているなんて神様に無礼ではないか!と怒るなかれ。
 むしろ村人が楽しそうに笑い、幸せに過ごしている姿を見せると神様が喜ぶと考えられているそうです。

 うん、神様は心が広い。

 底抜けに明るい笑顔の輪が広がります。
 みなしわくちゃのおじいさん、おばあさんですが。
 不思議なことに、彼らの表情には歳を取り死が近づく恐怖がまったくありません。
 太夫がつぶやく言葉がその理由を物語っていました:

 「山に生まれて山に育ち山に帰っていくだけ

 その笑顔を見ていて、私は「どこかで見たことのある表情だなあ」と感じました。
 思いを巡らすと、能の「翁面」にたどり着きました。
 そうか、翁面の笑顔は、自然に感謝し神に感謝する日本人の笑顔を象徴化した表情ではなかろうか・・・。
 調べてみると、能の「」という演目は、ストーリーと呼べる物がなく天下泰平・五穀豊穣・国土安穏を祈る「神事」的要素が強いそうです。
 100年前の日本人も、500年前の日本人も、1000年前の日本人も同じ笑顔で自然に感謝し祈ってきたのであろうと想いを馳せました。

 さて、今に生きる自分はどうなんだろう。
 あんな笑顔で笑ったことがあるだろうか。
 歳を取った時に、底抜けに明るく笑えるのだろうか・・・。
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神社を売却?

2012年04月20日 06時23分54秒 | 神社・神道
神社が自己破産し売却するというニュースを目にしました。
なんでも、宮司が過大な設備投資を行った結果、収支が赤字になり立ちゆかなくなった・・・まるで一般企業です。
「祈り」の聖域が神職により穢されるとは、祖先に顔向けができません。

弘前東照宮 国重文本殿売却へ 負債2億円破産手続き開始
(2012年04月20日:河北日報)

 国の重要文化財「東照宮本殿」(青森県弘前市笹森町)を所有する宗教法人「東照宮」(同市)が、青森地裁弘前支部から破産手続きの開始決定を受けたことが19日、明らかになった。工藤均代表役員によると、負債総額は2億円以上。本殿は競売などで売却される見通しだ。
 神社本庁(東京)によると、神社の破産は2003年の伊勢山皇大神宮(横浜市)に続き、全国で2例目。
 青森県神社庁によると、同宗教法人は「弘前東照宮」=?=を運営。1990年代に先々代の宮司が結婚式場建設などに過大投資をし、経営危機に陥った。2008年に競売にかけられ、本殿を除く拝殿や社務所と境内地は東京の不動産会社に売却。その後も債務の返済は滞り、先月30日、破産手続きの開始に踏み切った。
 県神社庁参事でもある工藤代表役員は「再建に向けて努力してきたが、資金面で行き詰まり万策尽きた」と話した。
 破産管財人の三上和秀弁護士は「文化価値の高い本殿を一般の方に売却した場合、管理に問題が生じる可能性がある」と話し、自治体など公的機関に売却を働き掛ける考えを示した。

[弘前東照宮]1617年、徳川家康の養女を妻に持つ弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)が、徳川家との縁を強化しようと弘前城内に創建。24年、現在の弘前市笹森町に移った。本殿は1628年建立。1953年、国の重要文化財に指定された。



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「日本人は何を考えてきたのか~南方熊楠」 by NHK

2012年01月26日 12時31分46秒 | 神社・神道
 先日放送された内容は「第3回:森と水と共に生きる~田中正造と南方熊楠~」でした。
 田中正造編も興味深く視聴しましたが、私の心をつかんだのは南方熊楠(みなかた くまぐす)の方です。

 明治時代に生きた熊楠は、人間と森の関係を深く思索した「知の巨人」。昨今の里山ブームとは一線を画す、総合的な視点からその重要性を説いていました。
 1906年(明治39年)、明治政府は「神社合祀令」を発令します。
 その内容は、一つの村には一つの神社のみを残し、他は統廃合するというもの。明治政府の目的は、統廃合するとともに伊勢神宮を中心とする国家神道に収束させ、戦争に都合のよい世論を作る体制を形成することでした。
 このときに消滅した神社の数は、日本全国で約5万社。鎮守の森は伐採され、悲しいかな、それを木材として売ってもうける輩も少なからずいたようです。

 なんということでしょう!
 祈りの空間を喪失し、多数の民が心のよりどころをなくしたことは想像に難くありません。

 熊楠は反対運動を起こします。勢い余って役人の講演会に乗り込んで激昂し、投獄されたこともありました。囚われの身にあるとき「石神問答」という書物が熊楠の元に届けられました。民俗学者である柳田国男が自分の著書を送ったのです。熊楠はその内容に共感し、二人の親交が始まるのでした。後年柳田は「わが南方先生ばかりは、これだけが世間なみというものがちょっと捜し出せようにもない」と言葉を残しています。

 熊楠が「神社合祀に関する意見」の中で展開した神社合祀の弊害8箇条を紹介します;

 第一、敬神思想を薄うし、
 第二、民の和融を妨げ、
 第三、地方の凋落を来たし、
 第四、人情風俗を害し、
 第五、愛郷心と愛国心を減じ、
 第六、治安、民利を損じ、
 第七、史蹟、古伝を亡ぼし、
 第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。


 明治時代にエコロジーの概念を掲げて森を守ろうとした熊楠の精神に敬意を表したいと思います。私の知りたいことは熊楠が残した文章にすべて書いてあるのではないか・・・そんな期待さえ生まれてきました。
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「相撲」はスポーツではなく「神事」です。

2012年01月09日 08時26分42秒 | 神社・神道
 相撲は神事であることを「ブラタモリ~両国編」で再認識しました。

 隅田川東側の土地はもともと江戸郊外で田んぼが広がっていた土地。
 そこに江戸を焼き尽くした「明暦の大火(1657年)」で出た約10万人の死者を弔うために「回向院」というお寺が造られました。お寺とはいうものの、郊外のため幕府の取り締まりがゆるく、繁華街と化してアミューズメントパーク的性格を帯びていたそうです。実際、一時は境内にサーカスとかスケートリンクがあったと住職さんが説明していました。

 さて、江戸時代に寺社仏閣を建立する費用を捻出する目的で行われたのが「勧進相撲」。
 各地で行われていましたが、回向院近くでは仮設の建物が造られるほど盛んで、明治時代末、ついに常設されるに至りました。これが「両国国技館」です。

 「相撲はスポーツではなく神事です」と元大関栃東の玉ノ井親方がコメントされていました。
 土俵の上にぶら下がっている屋根は神社本殿の屋根と同じ形をしています。
 千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)に注目。千木が外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)で、堅魚木が5本と奇数ですから男神を表しています。

 土俵は毎場所、新たに造られます。
 呼び出しの方々が総出で、場所の6日前から3日間かけて造り直します。崩して盛って形を整え、踏み固めて叩き固めて・・・すべて手作り。
 完成後に「土俵祭」が行われます。宮司立会いのもと、土俵中央に縁起を担ぐ意味で勝栗や昆布・米・スルメ・塩・榧の実が神への供物として埋められるのです。
 相撲の古来の性格として「健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を尽くし、神々に敬意と感謝を示す行為である。そのため礼儀作法が非常に重視されている。」とWikipedia にもあります。かつての朝青龍のような不作法は他のスポーツ以上に咎められる所以です。土俵入りの際、力士が手をたたくのも神社参拝の「柏手(かしわで)」ですし、しめ縄も神社由来です。
 
 私は「鎮守の森巡り」と称して、近隣地域の小さな神社を訪ねる趣味がありますが、時々境内に土俵を見つけることがあります。「奉納相撲」(※)の名残ですね。今でもやっているのかなあ。

※ 祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い(Wikipedia より)。
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福島県飯舘村の神社

2011年08月08日 22時30分48秒 | 神社・神道
 原発事故の被害で有名になった飯舘村。
 先日、放射能汚染と向き合う村人達の苦悩を特集番組でみました。

 農業・畜産を生業とする人々は、生活が成り立たなくなりました。
 今年の稲作をあきらめて土地を離れる人、あきらめきれずに田んぼに水を張って放射能が洗い出されるかどうか試す人、等、さまざまな村人の思いを映し出していました。
 都会の人々の利便性と、自分たちの補助金のために失ったものはあまりにも大きかった。

 さて、番組の中で私が注目したのは「神社」です。
 農家の人たちの集会所は、400年来祈りと語らいの場であり続けた村の鎮守様である神社。
 小さな社ですが、御神木の巨木(樹種は不明)が遠目でみても見事でした。

 さびれるばかりの市街地の神社と異なり、第一次産業が盛んで自然と向き合っている土地では、今でも自然に感謝し神に祈る生活が当たり前のように続いていることを垣間見ることができました。

 その拝殿に集まり、宮司が祝詞を歌い上げます。
 毎年、豊作を祈願する内容なのに、今年は原発事故に言及し、皆悲痛な面持ちで聞いています。
 年老いた農民達は「ここに皆が集まるのはこれで最後かもしれない」と心の中で思っていたのでした。

 福島原発が完成したときに宮司を呼んでお祓いをした映像を見たことがあります。
 原発と神様?
 今回の事故に関しては、その神頼みも無効でした。
 というより、神の怒りを買ったのかもしれない。
 人間の力では制御できない、手を出してはいけない神の領域に踏み込んでしまったのではないでしょうか。

 原発事故はひとつのふるさとを消してしまいました。あまりにも大きな、大きすぎる代償です。
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「神社が教えてくれた、人生の一番大切なこと」by 和田裕美

2011年06月22日 06時18分00秒 | 神社・神道
 「神社」というキーワードでたどり着いた本です。
 著者はカリスマ営業ウーマンとして有名な方らしく、その方面の著書もたくさんあります。「神社」と「カリスマ営業ウーマン」・・・ピンと来ない組み合わせですね。

 内容は「現代版観光的神社参拝法」といったところでしょうか。
 彼女にとって「神社」はプラス思考をサポートするアイテムのひとつであり、たまたま巡り会った気の合う友達のようなもので、必ずしもそれが神社でなくてもよかったような印象を受けました。

 神社の何が魅力的か・・・彼女は「気持ちいい」と記しています。
 私も神社巡りを趣味とする一人ですが、気持ちのよい神社は「手入れされている神社」であることが多いですね。つまり、氏子さん達が元気で宮司さんもいて、その地域で存在する意義を持ち続けている社です。

 一方、地方の小さな神社巡りをしていると、氏子さん達に見放された廃寺のような荒れた神社も目にすることがあります。
 そんな時、私は先人達の祈りの痕跡を拾いながら参拝しますが、著者は「そういうところへは行きません」とハッキリ書いており、彼女の神社好きは信仰と云うより観光的要素が大きいことがうかがい知れます。その証拠といってはなんですが、彼女の参拝はお食事処・温泉・宿などとセットになっています。
 
 この辺はスピリチャル本を乱発している江原啓之さんの影響もあるのでしょうか。
 最近の神社関係~パワースポットの本は、神社とその周辺の観光をセットにして記載されていますね。
 もっとも、江戸時代でも神社仏閣は観光地であり、参拝の旅は唯一庶民に許された旅行であったことを考えると”宜なるかな”ですが・・・。

 なぜ日本人は神社に惹かれるのか、については鎌田東二さんの「聖地感覚」を読んだ方がよく理解できるでしょう。

 御神木についての記載はうなずけること多し。一部を抜粋します;

樹齢1000年や3000年の木を眼前にし、その木に触れてみるとそこにはすごい過去からのつながっている命そのものがあるのです。・・・自分の悩みとかがちっぽけに感じて原点に戻ろうと思えます。

 私の好きな神社は地方の田舎にある「山神社」です。下の写真は近隣の山神社の鳥居で「山神」と書いてありますね。御神木は樹齢700年のケヤキです。



 山神社は古事記・日本書紀に登場する神様達以前の「山」そのものが信仰対象になっている古社。小さくて、素朴で、でも彼の地に住んできた人達には祖先とつながる祈りの場です。
 私の参拝は、何かをお願いすると云うより「古人と祈りの空間を共有する」感覚でしょうか。
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両さんの神社講義

2011年01月23日 14時10分14秒 | 神社・神道

 子どもが読んでいる「少年ジャンプ」をパラパラめくってみると・・・「こちら葛飾区 亀有公園前派出所」を発見。まだ連載は続いていたんですね。久しぶりの両さんの顔をみてちょっと懐かしい気分。

 レギュラーメンバーの江戸っ子婦警さんがお正月に巫女のバイトをやることになり一騒動。ギャグ・ストーリーの中でそれとなく神社に関する知識も盛り込まれて興味深く読みました(笑)。

■ 鳥居をくぐることは人間の俗界から神の域に立ち入ることになるので一礼する。御神輿には四方に鳥居があるのも同じ意味。

■ 参道の真ん中は神様の通り道なので端を歩く。

■ 手水舎で清めるための順番;まず左手、次に右手、最後に口をすすぐ(飲んじゃダメ)が、ひしゃくに直接口はつけない。

■ 参拝の作法は「二礼二拍手一礼」;賽銭を済ませた後一歩下がり二回礼をする、そして祈念を込めて音が出るように二拍手、最後にもう一度礼をして終了。

■ おじぎの仕方には3種類あり、角度が異なる;15度の小捐(しょうゆう)、45度の深捐(しんゆう)、90度の拝(はい)。

などなど。

話はちょっとはずれますが、神社の御神木にイチョウが多いのは、イチョウの木が水を多く含むために燃えにくいから・・・つまり防災の役割もあると昨日の「世界一受けたい授業」で先生がコメントされていました。関東大震災の時も浅草寺の五重塔が焼けなかったのはイチョウの御神木のおかげとのこと。

昨年夏に浅草寺・浅草神社に行ったときに撮影した写真を載せておきます。
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2011年、初詣風景

2011年01月16日 08時23分34秒 | 神社・神道
 私自身の初詣のお話です。

 歩いて行ける距離に「元三大師」があり、毎年そこへ初詣に出かけることが習慣になっています。
 数年前にはカウントダウンの時刻に行ったら、すでに100人近くが並んでいてビックリ。みんな元気あるなあ。

 今年は家族とともに3日に訪れ、雰囲気を味わってきました。たくさんの人出で、門前の出店も賑わっていました。チョコバナナの好きな長女は2本も食べ、長男は友達と会って話し込んでいました。
 おみくじを引くと「末吉」。最近、「吉」「中吉」「末吉」のローテーションですねえ。どれが一番よいのか今ひとつわからない・・・「コツコツ努力すればいずれよいことがある」と書いてあるのは共通していますが(苦笑)。

 このお寺は長らく住職さんが不在で、私の子どもの頃は廃寺のイメージがあり、境内には”メジヤン”という名の乞食さんが住んでいました。なんだか昔話のよう。
 メジヤンもいつの間にかいなくなった数十年前、地域住民により復興し、現在は賑わいを取り戻しています。
 ただ、有名になるにつれ、里山にいたカブトムシやクワガタが姿を消し、少々寂しい気もします。

 先日、比叡山の特集番組をTVで見ていたら、そこに元三大師の名が出てきました。”源信”という高僧の尊称なのですね。

 さて、昨年は近隣の神社巡りをしたので、気になる神社にも参拝してきました。
 
八幡八幡宮(別称:下野国一社八幡宮、栃木県足利市)
 天に昇るアカマツの巨樹のある神社。社務所もあります。3日というのに10台スペースの駐車場はいっぱいで、それなりに賑わいがありました。鳥居の奥に縄の輪があり、そこを抜けるとよいことがあると記してありました。夏に来たときに工事中だった建物が完成していました。真新しい「神楽殿」です。
 東隣には住居跡の遺跡もあります。昔から生活の中心だったのですね。

樺崎八幡宮(栃木県足利市)
 足利氏や足利市内の鑁阿寺(大日様)とも関連のある山裾の神社です。樹齢600年のスギの巨樹があります。しばらく前に宮司さんがいなくなってしまったと聞き、そういう神社のお正月はどうなっているんだろう、という興味もあり覗いてみました。すると、氏子さん達がちゃんと準備してお札も配っていて、何となくホッとしました。
 御神木のスギの巨樹は健在で、相変わらず枝振りが見事。
 ちょっと気になったのは、ひっそりした境内に不釣り合いなアニメ・キャラの看板があったこと(以前はありませんでした)。そういえば、「らき☆すた」という人気アニメのモデルになった埼玉県久喜市の鷲宮神社ではファン中心に27万人の初詣があったらしく、そんな流れなのかなあ。
 神社の手前に工事をしている区域がありましたが、寺院の発掘調査中のようです。やはり足利氏にゆかりのお寺らしい。まもなくこの近くに北関東自動車道のインターができる予定であり、観光化する気配を察知しました。静かなのは今のうちでしょうか・・・。

 以前から、社務所のない小さな神社でも”紙垂”はいつも白くて新しそうに見えるので不思議に思っていましたが、氏子さん達が定期的に替えているのでしょうね。ここが廃寺になると荒れ地化するお寺と違うところです。
 
人丸神社(栃木県佐野市)
 お話好きの宮司さんと湧泉池のイメージが残る神社です。住居跡の遺跡が児童公園となっており、いつも人の気配がする地域に愛された神社。狛犬はその目に青いガラス玉がはめ込んである珍しいタイプ。
 お正月が終わる頃に行きましたが、やはり数グループが参拝していました。
 透明度の高い湧泉池に泳ぐコイの魚影を眺めていると、気持ちが落ち着いてリフレッシュされます。

 考えてみると、元三大師はお寺、他は神社とごっちゃで節操がないですね。神仏習合の日本らしい。
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「神社とみどり」

2011年01月01日 23時24分45秒 | 神社・神道
神社新報ブックス、神社本庁編、神社本庁発行(昭和58年)

発行元は「神社本庁」とあります。
この存在、ご存じでした?
 http://www.jinjahoncho.or.jp/
私も最近知ったばかりですが、なんと全国の神社を統括する宗教法人です(昔は官庁に所属)。ちなみに栃木県支部もあります。
 http://www.tochigi-jinjacho.or.jp/
そこで神職(神主=宮司、禰宜など)を対象に発行している新聞が「神社新報」であり、その増刊号・単行本が「神社新報ブックス」という位置づけ。

ま、ある意味「専門書」であり、一般人が読むにはマニアックな書物ですね。当然Amazonでは売ってません(笑)。
しかし、神社~鎮守の森~御神木に興味のある私にはとても魅力的な題名であり、ネット・オークションでみつけて即落札&購入しました。

この本の前に植物生態学者の宮脇昭さんによる「鎮守の森」という本を読了しました。
 http://blog.goo.ne.jp/cuckoo-cuckoo5
植物学的に神社にある木々を分析した内容は、日本人の知恵の凝集したものとして大変参考になりました。

では神社という「信仰」の視点から鎮守の森はどう捉えられているのか知りたくなり、この本に辿り着いたのでした。

すると、前半は宮脇さんの本と共通する記述が驚くほど多いことに気づきました。

鎮守の森では、その土地に最も適応した樹木が生育し、安定した生態系が形づくられています。その土地の気候・風土に最も適した原植生が保存されているような森は、種々の公害などに対する抵抗力も強いものがあり、昨日今日に植えた緑とは比べものにならないほど価値があるのです。

そして宗教的意義を記した箇所も興味深い;

神社の古い形は ”森” そのものだったのです。万葉集では ”神社” や ”社” をモリと読んでいます。古い時代には、神社の建物はなく、森が神社そのものでした。鎮守の森というのは神社の付属物ではなく、森が神社そのものであって、社殿の方が後からできたものなのです。時代が下ると、神社そのものであった森は、神社を囲むみどりの環境として残されました。

森にお祭りの時だけ社を建てて神を迎えるという神事は、今でも平城京の春日大社に残っていますね。

日本人が如何に木々を大切にしたか、日本書紀の記載からも窺われます;

出雲の国にやってきたスサノオノミコトが『私の子孫が治めるこの国に ”ウクタカラ”(舟のこと)がないのはよくない』とおっしゃって、ヒゲを抜いてあたりにまき散らすと、これがたちまちにスギになった。また、胸毛を抜いてまき散らすと、今度はヒノキになった。尻の毛はマキになった。眉毛の毛はクスになった。それぞれの木の用途についても定められて ”スギとクスの二つの木はウクタカラを作るのに使いなさい。ヒノキはこれで立派な宮殿を作る材料にしなさい。マキは人々を埋葬するための具としなさい』とおっしゃって、たくさんの樹種を植えるよう命じられました。

・・・そんな神話上のことを信じてどうなるの、と思いきや、最近の考古学の調査によれば弥生時代から古墳時代にかけて使われた木簡の材質はコウヤマキが多いことがわかってきました。
 また、この記述はアマテラス一族が海と舟を使い日本を制覇した、そこから巨木信仰が始まった、という説を支持するものです。

 戦国時代~江戸時代まで鎮守の森は信仰の対象として、また中央の政権からの指示で保護され伐採から逃れてきましたが、明治以降の戦渦に巻き込まれた時代にあっては残念ながら武器の材料として使われ出したのでした。戦後、かろうじて残っていた鎮守の森が再評価されるようになったのは昭和40年代以降です。

識者の座談会での興味深い発言の数々;

ヨーロッパでは森林を破壊することで文化を築いてきました。特に一神教になってからは自然と対立して人間がそれを乗り越えて新しい文明を創造していくという考え方です。ところが日本では、森林を育てることで文化を育ててきた。木を植えながら、水をいただきコメを作ってきた。森林面積も大昔と今とではほとんど違いはない。

同じ植物の愛し方でも西洋人と日本人は違いますね。西洋人はバラとかチューリップとかの花を中心にする。ところが日本人は盆栽などが好きで小さな森を持とうとするような面があります。

鎮守の森の存在感が薄れてきた背景には、日本人の生活基盤の変化があったことを指摘しています;

鎮守の森は稲作文化の中心であり、同族結合の象徴であった。ところが近代になると生活が変わり、考え方が変わって、ヒトの生活と森との関係が希薄になってきた。とくに都会では別もののように分離しているように見えてしまう。

最後に「森の造り方」として、鎮守の森という視点から見た木々の特徴と選定の仕方、配置、手入れ方にも詳細に言及しています;

針葉樹の特徴
スギ・ヒノキ
 数が揃うと圧迫感に近い荘厳味を発揮して迫力有り。欠点は煤煙・砂塵・防風・防火・防音に弱いことで、近年の都市郊外に最も弱く年及びその近郊においては将来性は望むべくもない。類するものにサワラ、ヒバ、アスナロなどがあり、カヤ、イチイ、ツガは以上の被害に対してやや強い。
マツ
 クロマツの樹幹は剛健、樹冠や樹姿は変化があって男性的、アカマツは繊細で雅致に過ぎるきらい有り。神社林苑として好ましくはなく、都市公害はじめその他の被害に弱いのが欠点。特に近年はマツクイムシの被害が目立つ。類するものにヒメコマツ、ゴヨウマツ、エゾマツ等がある。
幅広の針葉樹】(ナギ、イヌマキ、ラカンマキ、コウヤマキ
 公害には針葉樹より強く広葉樹に準じる。よく繁茂して森に深みを与える。
カラマツ
 落葉針葉樹で、その性質は落葉広葉樹に準じる。

常緑広葉樹の特徴
カシ・シイ・クス
 樹冠は曲線的でまるくおだやかで軟らか味を持つものが多く、枝張りは変化に富んで雄大に生長し、針葉樹が端厳であるのに対して鬱蒼とした森の深み、厚み、濃さを表わし、風致的に森に雅味を加える。排ガス、煤煙、防風、防音、砂塵、防潮によく耐え、抵抗力が強い。しかし寒地においては成育が難しいのが欠点。
モチ・サカキ・ツバキ・サンゴジュ
 森の中層中堅木を形成する。性質は前項と同じ。
イヌツゲ・ヒサカキ・アオキ・アセビ
 森の下層下木を形成する。公害その他の被害に強い抵抗力がある。

落葉広葉樹の特徴
ケヤキ・エノキ・ムク】【ナラ・クヌギ・ソロ・トチ
 上層林を形成し、林況の変化、すなわち林苑の階調、風致の転換に効果有り。寒地においては郷土木として主体であり境内林として差し支えない。排気ガス、煤煙の被害は比較的少ないが、風、音、砂塵、潮などに対する防衛には効果がない。
サクラ・ウメ・モミジ
 林内・林縁に転々と混在することは風情があってよい。
ハゼ・ヌルデ・ネムノキ・カマツカ
 林内の中層木として混成するのが妙味。
ヤマブキ・ハビ・ウメモドキ・ムラサキシキブ・ニシキギ
 森の下木として風情があるばかりでなく、これらの木の実は野鳥の好むもので、小鳥を森に誘致するに必要なエサを供給するものとして欠かさぬ事が必要。

混交林と単純林

1.混交林の効果
① 林苑景観の印象の強化・風致の増進
② 陽光の分配
③ 地力の維持
④ 天然下種(実生)の促進
⑤ 林層の保続
⑥ 各種の被害に対し抵抗力が強大になり、被害にあっても目立たない。

2.単純林の弊害
 多くの樹種入り交じっての混交林に対し、スギばかり、ヒノキばかり又はマツばかりというような1種類のみの森を単純林と呼ぶ。地方の神社によくある例で、このような森は最低の林苑である。その理由は;
① 風致が単調
② 風害に弱い ・・・台風にあって一斉に将棋倒しになり、丸坊主になったという例がしばしばある。
③ 病虫害の被害顕著 ・・・ことにマツの場合、マツクイムシなどの蔓延のために全林一斉の被害を受けやすい。

・・・この本もいろいろ勉強になりました。日本人が木々を大切にする民族であることをさらに確信できました。
 私の今までの「鎮守の森巡り」(http://www.takei-c.com/cn32/pg224.html)は御神木中心で、森全体には目が向いていませんでした。後から思い出すと、確かに多様な木々がある森は風が吹き抜けるスギだけの林より神様の居心地が良さそうでしたね。
 平成になって建て替えられた某神社を訪れたとき、妙な違和感を感じたことがあります。鎮守の森が伐採されて皆無の上、祠はコンクリートの土台に立つという有様で、そこに安らぎの空間を感じられません。暑い夏だったので、神様が熱中症にならないか心配になりました。
 これからは林層も鑑賞対象に入れたいと思います。でも、その前にこの本に出てきた樹木を覚える必要がありますね。ちょっとハードルが高い(苦笑)。

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「神社のススメ」

2010年10月07日 06時47分57秒 | 神社・神道
田中ユキ著、講談社アフタヌーンKC、2005年発行。

ふとしたきっかけから知った「神社マンガ」です。
神社で働く神主さん(今は宮司さんと呼ぶことが多い)や、巫女さん、バイトなどの人間模様を中心に、かつ現代神社台所事情も垣間見せるなかなかのストーリーで楽しめました。

まあ、分野としてはラブ・コメディで、「いい人系宮司見習い」と「ミステリアス美少女系巫女バイト」(実はお寺の娘の女子高生)が織りなす恋模様がメイン。昔のときめきを思い出させてくれました(笑)。

神社とお寺を絡ませたところが、ポイントの一つですね。
両者とも世襲が色濃く残るいまや希少な職種ですが、跡継ぎ問題を巡る親子の確執も描かれており、ストーリーにふくらみを持たせています。
あっけなくハッピーエンドなので少々肩すかし気味でしたが。

今時の狛犬フェチや、巫女さんフェチなども出てきました。
ネットで検索すると、結構ヒットします。
そういえば、鳥居フェチの出番はなかったなあ。

神社の台所事情について;

一般に神社にはお墓はありませんので、お寺の檀家さんのように固定客・収入がありません。
昔から「管理するお金はどうしているんだろう?」と疑問を持っていた私です。
その収入源は、そこそこの規模の神社であれば地域の人々(氏子さん)の組織によるサポートがあり、また賽銭や神前結婚式の祝詞やお祓いなどで成り立っているようです。

私は「鎮守の森巡り」と称して神社参拝することを趣味としていますが、田舎の小さな神社は氏子組織が空中分解しているのか、管理されず放置され荒れ放題の社に出会うことも少なからずあり、このマンガで取り上げられている都市部のそれとは事情が異なるように感じます。
公民館や集会所が併設され、地元の人が集うシステムが生きているところも多いのですが。
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「ご近所の神様」

2010年09月23日 21時32分16秒 | 神社・神道
久能木紀子著、マイコミ新書(2008年発行)

著者は「神社ライター」という肩書きの持ち主。東京中の神社参拝をクリアした強者です。
有名神社だけではなく、身近にある神社の解説も試みた内容です。

残念ながら、目からウロコが落ちるような情報はあまりありませんでした。
既に何冊か神社に関する本で読んでいるためかもしれません。

そんな私におぼろげに見えてきた「神社」像。

古来、日本の神社に祀られる神様は「自然の驚異」の類でした。
災禍をもたらす自然力を祭り祈ることで人間の益にもなり得ると信じたのです。
そこから派生して、大きな力を持った人物の怨念を鎮めるために神として祀るパターンも登場しました。菅原道真や平将門がその例ですね。

古事記・日本書紀に登場する神様達も祀られていますが、これは、天皇家がその正当性を説明するために神社を政治利用した結果と捉えることもできます。
時の権力が宗教を利用することはよくあることです。
明治・大正・昭和時代は「国家神道」として政治家が天皇を現人神に祭り上げ、「天皇のために命を捧げる」というカラクリを作り出して戦争を正当化したことは記憶に新しい。
というわけで、神話上の神様や実在の人物を祀った神社はどうも私にはしっくりきません。

神社の始まりの頃、社はなく場所だけ決まってましたらしい。
そこに社が造られるようになったのはインパクトのある伽藍を有する仏教の影響も指摘されています。
日本最古の神社と云われる大神(おおみわ)神社には本殿(神様が鎮座する場所)がないそうです。
では神様がいないか、というとそうではなく、後ろに控える三輪山そのものが御神体なのです。

最近気づいたのですが、里山には「山神社」という社が点在します。
「山」という自然を神様として祀った最も原始的な神社です。
その素朴さが好ましい。
1000年前からこの地で畑仕事・山仕事に汗を流した日本人が、この神社へ祈りを捧げてきたのですね。

先日訪れた栃木県佐野市の「丸嶽-山神社」。
こぶケヤキと呼ばれる巨樹の勇姿が見事ですが、本殿周囲の薄暗い鎮守の森の中で、翁顔をした神様達が談笑しているようでした。

「千と千尋の神隠し」の世界ですね。

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