知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「高知~神々と棲む村」

2013年02月17日 08時52分35秒 | 神社・神道
 NHK-BSの「新日本風土記」シリーズで「高知~神々と棲む村」という番組が放映されました。

~番組紹介文~
 四国山地の奥深く、高知県物部(ものべ)町。ここに、400年以上伝えられてきたと言われる、古い民間信仰が残されている。「いざなぎ流」と呼ばれるその信仰は、神道や仏教、修験道、自然崇拝などさまざまな要素が重なりあい、山の暮らしに合わせて変容した、独特のものだ。
 その祈りを伝えてきたのは、「太夫(たゆう)」と呼ばれる人々。物部の人々は、生活の様々な場面で、太夫を通じて神と語らい、その意志を問いながら暮らしてきた。
 いざなぎ流の大きな特徴のひとつが、太夫が作るさまざまな形の「御幣(ごへい)」。小刀一本で和紙を切って作られる御幣は、神々の似姿であり、神の宿る依り代。その種類は200ともそれ以上とも言われる。またいざなぎ流の祭では「祭文」と呼ばれる唱えごとで、神を喜ばせることが重要とされている。
 山の恵みの中で生きる物部の人々。いざなぎ流の信仰は、かつて日本のどこにでもあった、神と人が語り合い、共に生きる暮らしの記憶を伝えている。


 古来、村に伝わってきた民間神道「いざなぎ流」。
 いわれはありますが、元々はアミニズム、つまり万物に神が宿ると考える民間信仰だと思われます。その後仏教や他のあらゆる宗教を排除することなく受け入れ融合して今に至る日本独特の宗教。
 アミニズムはたくさん神様が居るので、一人や二人増えてもなんの問題もありません。
 そこが、他の宗教神をやっきになって排除しトラブルを生みやすい一神教(キリスト教やイスラム教)と異なるところ。

 山で狩猟し獲物を捕らえるとまず山の神に感謝し捧げ物をします。
 自然と共に生きる人間ほど、一人では何もできない、人間は無力であることを知っているので、物事がうまくいった時に自分以外の物・人・自然に感謝しますし、物事がうまく行くように祈ります。

 その対象を「カミサマ」と日本人は呼んできました。
 山の神様として、巨木にお供え物をする村人の姿が印象に残っています。

 また、秋祭りでは、太夫(神社で云えば宮司)が祝詞を上げている外で、村人が持ち寄った食材に舌鼓を打ち談笑しているというちょっと不思議な光景が。
 祈っているときに飲み食いして笑っているなんて神様に無礼ではないか!と怒るなかれ。
 むしろ村人が楽しそうに笑い、幸せに過ごしている姿を見せると神様が喜ぶと考えられているそうです。

 うん、神様は心が広い。

 底抜けに明るい笑顔の輪が広がります。
 みなしわくちゃのおじいさん、おばあさんですが。
 不思議なことに、彼らの表情には歳を取り死が近づく恐怖がまったくありません。
 太夫がつぶやく言葉がその理由を物語っていました:

 「山に生まれて山に育ち山に帰っていくだけ

 その笑顔を見ていて、私は「どこかで見たことのある表情だなあ」と感じました。
 思いを巡らすと、能の「翁面」にたどり着きました。
 そうか、翁面の笑顔は、自然に感謝し神に感謝する日本人の笑顔を象徴化した表情ではなかろうか・・・。
 調べてみると、能の「」という演目は、ストーリーと呼べる物がなく天下泰平・五穀豊穣・国土安穏を祈る「神事」的要素が強いそうです。
 100年前の日本人も、500年前の日本人も、1000年前の日本人も同じ笑顔で自然に感謝し祈ってきたのであろうと想いを馳せました。

 さて、今に生きる自分はどうなんだろう。
 あんな笑顔で笑ったことがあるだろうか。
 歳を取った時に、底抜けに明るく笑えるのだろうか・・・。
コメント
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