知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「神社の古代史」(岡田精司著)

2017年04月18日 13時09分34秒 | 神社・神道
2011年、學生社。

以前から読みたい読みたいと思いつつ、諸般の事情でなかなか手が出せなかった本をようやく読むことができました(^^)。

期待に違わず、充実した内容でした。

日本における神の概念から始まり、
神社そのものの起源、
有名神社の成立の背景、
1000年前の神社をめぐる環境、
神社と政治の関わりの変遷、

などなど盛りだくさん。
私のような初級者にはうってつけの入門書です。

ただし、古文や初めて聞く単語が羅列するところでは、なかなか頭に入らずちょっとくじけそうになりました(^^;)。

一番印象に残ったのは「延喜式」の解説です。
奈良時代の延喜年間に作成した律令の細則ですが、日本全国の神社を歴史上初めて格付けした貴重な資料とされています。
しかしその実は、政権は力による日本統一だけでなく、伊勢神宮を頂点とする神社のピラミッドを造ることにより国民のこころをも支配することを目論んだ、という政治絡みの法律なのでした。
質は違うけど、政治に利用されたという点では、明治時代に国家神道の元に神社を統制し、世界戦争へ突入していった史実と一部重なるところがありますね。
・・・そのおかげで昔の神社の記録が残ったという功績もありますけど。

それから、奈良時代には奴隷がいたとサラッと書いていることに驚きました。
奈良時代の人口600万人の中で、よい生活を保障された支配階級はその家族も入れてせいぜい1000人だったと。
一般民衆は租庸調に苦しむばかり。


<備忘録>

■ 古代日本の神々の特徴
1.あらゆるもの(物体でも生物でも)に神霊が宿っていると考えられ、多様な神格が存在する。
2.神は平常は人里に住まない。遠方の清浄の地、それは山の奥や海の彼方と考えられ、そこから祭りの日だけやってくる。
3.神は目に見えないもの。だから神の形(神像彫刻など)は本来はけっして造らなかった。つまり偶像崇拝はかつてはなかった。現在残されている神像彫刻は、すべて仏教の影響を受けた平安時代以降のもの。
 姿を見せぬ神が人々の前に現れて祀られる時には、神様が憑(よ)り付く物体などが祭りの対象として必要となる。
 神社ではご神体を見せない構造になっているのは、神の姿は見えない、また見てはならないという神社以前からの古い信仰が潜在的に伝わっているためと推測される。
4.神と死者の霊とは本来まったく区別されたものであった。
 平安時代に入ると天神さまなどの御霊信仰以後、人を神に祀る風習が始まるが、それが拡大されるのは近代の国家神道のもとにおいてのこと。
5.イネの祭りが日本の神と強く結びついている

■ 山の信仰(大場磐雄氏の説)
1.浅間型:山容が秀麗で周囲の山々から一際高く目立つ形をしている(例:富士山、白山)。浅間型の山は麓の聡美屋から仰いで拝むのが原則であり、古くは登る対象ではなかった。信仰のために登山が始められるのは修験道以後のこと(例:男体山、穂高岳、立山)。
2.神南備型:人里に近い比較的低い山で、傘を置いたようななだらかな優しい山容が特徴(例:奈良の三輪山、春日山)。全山緑で覆われていることも特徴。
 浅間型が峻険な山容で人々を寄せ付けないのに対し、神南備型の方は村里に近い緑の小山だから、人々の生活と密着していることが特徴。


■ 桃太郎伝説
 神聖な山の中から流れ出す川、川の上流から流れてくるものは神の世界から来たもの。川を媒介にして神の世界から来臨する神の子。

■ 磐座(いわくら)と神木
・磐座:岩、岩石を崇拝対象とするもの。大きいものとは限らない(例:鹿島神宮の要石)
・・・やがて信仰が進むと、そのような岩石は神そのものではなく、神を祭るときに神霊を憑り付ける依り代と考えられるようになる。
・神木:常緑樹を崇拝対象とするもの。ケヤキは例外で、巨木になり枝振りがいいせいか、落葉樹だがしばしば御神木になる。大きさは問わない。
 常緑樹の立木でも、切り取った枝でもよく、そこに神霊を迎えるものがヒモロギ。
(例)老蘇神社(滋賀県安土):老蘇森(おいそのもり)という森そのものを神として祭っている。

※ サカキはサカキだけではない?
 ヒモロギや玉串などに用いられる植物をひっくるめて榊と呼ぶ。神事に使われる榊は、ツバキ科のマサカキだけではなく、今でも地方ごとに榊の名で呼ばれる植物はさまざま。ツバキ・ナギ・スギ・マツなどさまざまな植物が、各地で「サカキ」として神事に用いられている。共通の条件は「常緑樹」。

■ 神社が成立する条件3つ
1.一定の祭場と祭祀対象
 祭りを行うための場所は、日常の生活の場から切り離された神聖な空間でなければならない。弥生時代・古墳時代の祭祀遺跡の多くが生活・生産の場から離れた山麓や水辺に営まれている。
 古い神社の境内地では樹木の伐採や立ち入りを禁じている例が早くから見られ、おそれくそれは古い祭場の慣行に基づくものであろう。古い神社の境内地は、背後に山か森があり、手前には川や溝があって、水によって俗界と判然と区別されていることが多い。水流が境界となっている場合には、祭りに参加する人がその水で身を清めたと思われる。
2.祭る人の組織
3.祭りのための建造物の成立
 古代の神祭りの場所は、はじめは特に建造物は造らず、祭場の一角に神霊を迎えるための磐座やヒモロギ=神木があるだけの簡素のものであった(古墳時代の祭祀遺跡の多くはこの段階のもの)。やがて祭りの日だけ神を迎えるための何らかの構造物を立てるものに発展し、さらにその社殿(=本殿、とは限らない)が立派になるとともに常設化する。
 神社建築の起源は多元的であり、各地でそれぞれの土地の神祭り岡達に相応しい社殿の形が生み出されていった。例えば、伊勢神宮の神明造は稲倉様式から発展し、出雲大社の大社造は豪族の住宅様式から発展した。

■ 神祭りは夜に行われた
 灯火の普及しない時代には、人の行動する昼間と神の行動する夜間とがハッキリ区別されていた。古代の宮廷祭祀でも、天皇が自ら行う新嘗祭(にいなめさい)や月次祭(つきなみさい)の神今食(じんこんじき)という神事は深夜の行事だった。村々の神社でも、近世以前からの古い夜の祭りが現在では宵宮・夜祭として大祭の前夜の行事として保存されている場合も少なくない。

■ 「氏神」には2通りの意味がある
1.血縁氏族
 古くは氏神といえば、物部氏とか大伴氏とか、蘇我氏とかそういう氏族、あるいは共同の氏神祭を行う同族の守護神として祭る神であった。
 氏族ごとの氏神の名残として、民俗信仰の中に残っているのが屋敷神である。一族の本家の屋敷の隅とか、裏での丘の上とかに小さな祠として祭られている。お稲荷さんが多いが、八万三があったり、ご先祖の霊を祭るという所もある。土地によっては内神(うちがみ)とか内鎮守(ないちんじゅ)とかいろんな言い方をする。
 お祭りには神主さんを呼ぶ場合もあるが、大抵は本家のご当主が祭主となって行われる。神前に幣(ぬさ)を捧げたり神酒・神饌を備えたりするのは女性(家刀自・・・本家筋の主婦)であった。
 氏神祭は2月または4月と、11月行われた。
2.地域の鎮守さま
 中世になって血縁的な集団から地縁的な関係が主になる集団に代わると、氏神という名前だけが残って、実際にはその土地の鎮守さま、別の言い方でいうと産土神(うぶすながみ)のことに変わってしまう。

■ 古代の祭りにおける男女の役割分担
 古代の祭りは女性と男性が役割分担してペアで行っていた例がたくさんある。お供えはいまでは男の神職がしているが、昔は伊勢神宮のように、女性が神饌を供える役であった。彼女たち(斎女)によって神を喜ばせるために歌があり、舞があったりと思われる。
 その時に祈願のことを申し上げる祝詞の奏上とか、正式に参拝する主役になったのは斎主で男性、音楽演奏も男性の分担と思われる。
 祭りは、神秘的な夜の祭りの部分と、晴れがましい昼の祭りの部分と、それがセットになり行われていた。
 祭りから女性を排除したのはむしろ仏教の影響などがあってからあと、とくに中世以後だと思われる。中世の封建社会で、本土ではお祭りが男だけになり、沖縄では女だけになった。

■ 氏神は祖先神なのか?
 柳田国男は「氏神さまはご先祖」と言っているが、戦後になり「氏の守護神はご先祖さまと違う」という学説が有力になってきている(和歌森太郎ほか)。
 ご先祖のお祭りの仕方と、氏の守護神の祭りの仕方とは大きく違う。
 お社を建ててお祭りするのは守護神である氏の神様である。2月または4月ち11月に行う。
 ご先祖についてはお正月とお盆の年2回、定期的にご先祖さまをお迎えして家の中でお祭り(先祖祭り)をすればよい。
 氏神(守護神)はお祭りしなかったら祟るかもしれない。その祟る神が祭ることによってはじめて自分たち一族の守り神になる。こういう性格のものだから、お社を建てたりして厳粛にお祭りしなければならない。
 守護神が人格神化する以前の状態は守護の精霊と言った方が相応しい。守護の精霊が祖神化するまでには神の通婚があり、そこで若宮の誕生がある。この若宮が人間になる場合はご先祖になる。

■ 『延喜式』と式内社
 “式”は律令の施行細則という意味で、延喜5(905)年に編纂が開始されたため延喜式と呼ぶ(それ以前にも『弘仁式』『貞観式』などが存在)。全50巻からなり、巻第一から巻第十までが神祇に関する内容で、そのうち巻第九と巻第十が一般に「神名帳」と呼ばれる神々のリスト。
 最高神としての伊勢神宮を頂点として、全国の神々を序列化することが律令制度の神祇政策の目的であった。「神名帳」に載っているのは、あくまでも神祇官でお供え物を配ったりする祈年祭の、その対象になる神社だけ。このような神々の階層化・序列化ということは、現実の天皇を頂点とした中央帰属集団による律令的な全国支配の形態を、そっくり神々の体系として反映させたものと言える。
 延喜式の一番始めに四時祭(春夏秋冬の祭)が記されており、その中で一番重要なのが2月4日の祈年祭(トシゴイノマツリ)という、天皇の名で行う稲の豊作祈願の祭儀である。
 この祈年祭に調停から幣帛つまり供物を下賜する3132座の神々のリストが神名帳で、これらの神社が「式」の内に載せられているという意味で「式内社」と呼ばれる。この時代の「幣」というのはゴヘイのことではなく、神に供える絹などのお供えの品物を指す。
 式内社の分布には非常に偏りがある。
 式内社のうち神祇官の祭る神737座、これがいわゆる「官幣社」であり、神祇官から幣(供物)を奉る社ということで官幣社と呼ぶ。官幣社は案上官幣304座と案下官幣433座に分けられる。
※ 「案」とは机のこと。神職達を神祇官に集めて班幣するとき、机の上に供物を置く、丁寧な扱いの神社が大社。机なしに床に直に薦(ごも)を敷いて供物を並べるのが案下の官幣社であり、幣物の品がグッと落ちる。
※ 「座」というのは神社の数ではなく祭神の数。

■ 奉幣と班幣〜神社の序列化/主従関係
 祈年祭の時に、天皇の使いという形で勅使が幣物を持って出かけてお供えをするのは伊勢神宮だけでありこれを奉幣と呼ぶ。それ以外の神社に対しては班幣といって、“神主と祝集まれ”と命令して、祈年祭の幣物を神祇官に集まった神職達に配布する。
 その集まりの時に祈年祭の祝詞を読み聞かせることになるが、その内容は、祈願の対象としては天皇が祭る神祇官西院の神々と、同じく伊勢神宮の神、そして古来天皇家と縁の深い南大和のいくつかの神々だけを挙げているだけ。そういう神々たちをお祭りする言葉を地方の神々に言い聞かせて「おまえ達よく承って天皇の祭る尊い神々を助けて五穀豊穣になるようにせよ」と命令している。
 つまり、朝廷が尊んでお祭りする神々と、朝廷に服従して命令される神々とがはっきり分けられている。
※ 延喜式ができる前後の頃に、祈念班幣の制度はすでにがたがたに崩壊しつつあったことが記録(三善清行による「意見十二箇条」)からわかっている。

■ 国弊社2395座
 国司の庁が神祇官に代わって弊を班(わか)つ社で官幣社に対して国弊社という:大188座位、小2207座。
 国司が国弊社にお供えする品々は、官幣社に比べてずっとレベルが落ちている。

■ 神社の社格
1.名神(みょうじん):延喜式では大社は304座で、その中の285座を「名神」にする。名神祭というのが神祇官で行われるが、そこでお祭りされるのが名神社で、これが最高の待遇になっている。
 名神大社と他の大社、地方の小社、まったくの無格社という区別。
2.神階:神々に位を与えること。たいていの神に与える位階は五位か六位であり、国司(受領)クラスであった(今の県知事にあたる)。
※ 律令制度の下でいろいろな点で優遇を受けるのは五位以上の官人であり、位田という領地や位禄または位封(いふ)、封戸(ふこ)といった莫大な給与をもらう。

■ 奈良時代の日本の人口は奴隷を入れて約600万人。
 奴隷がどれくらい板かという推定はおそらくできない。

■ 奈良時代の神社の序列
 天皇・畏施腎盂宇野元に中央貴族と関係の深い畿内の少数の大社の神々と、地方のごくわずかの特定の神にだけ名神大社の社格と高い神階を与える。園下の地方豪族の祭る神々は式内の官社に組み入れる。そしてその神々の間にも社格の大・小や神階に差を付けて階層化する。村里の神々はその下にあって国家祭祀の対象にはならなかった。

■ 国司神拝と一の宮制度・総社制度
 奈良時代に始まる制度で、本来は祈念祭班幣を行う官社制度に対応していたもので、国司が管内の官社を掌握し、管理するために巡検したもの。
 神宝、つまり盾や矛などを国司が作って都から持っていき、その国の有力な一の宮、二の宮などに奉納した。これは国司が代わるたびに行い、前の御神宝と取り替えた。つまり、地方の神々の真の祭祀権はその地方の豪族にはなく、本当は天皇が握っているのだ、ということを示威するために国司が行う、祭祀権者である天皇に代わって、国司が地方の神社の祭祀権を行使することを意味すると考えられる。
 やがて平安時代中頃になると参拝する神社の順序がやかましくなり、格の高い神様のところから順番に参拝するようになる。これが“一の宮”の制度で、一の宮、二の宮と順番を付ける。このように形式化されていくのは平安時代の半ば10世紀から11世紀で、鎌倉時代にも引き継がれ、室町時代になると消えていく。
 形式化が進んでくると、全部回るのが面倒くさいという国司が出てくる。そこで“総社”という制度が始まる。国内の有力な神社を国衙(こくが)つまり国庁の近くの1箇所に国内の神々を勧請してお祭りする制度で、現在も国府跡の近くに総社神社、六所神社という名前で残っているものが多い。
※ 大國魂神社(府中市)は延喜式に出てくる大國魂神社ではなく、武蔵の国府の側につくられた総社で六所宮といったのを、明示になって式内社の大國魂神社にしたもの。
※ 群馬県の総社神社は、上野国内の神々の名簿が巻物になってご神体になっている。

■ 明治時代に始まった祈念祭は古代の祈年祭とは別物
 明治時代になり全国の神社の大祭として2月17日に祈年祭が行われるようになった。これは国家神道の元で全国一律に開始されたもので、それぞれの神社の伝統や事情を無視して共催されたものであり、古代の祈年祭とは名前は同じでも全く別物。戦後はこの行事は廃れたが、まだ戦前の形式を続けている神社が少なからず存在する。

■ 明治時代の官社制度復活
 国家神道の立場からの序列として官幣社・国弊社・府県社・郷社・村社という社格が新たに設けられた。形式上のもので古代のものとは目的・性格も全く異なる。そこでは天皇=宮内省から幣帛を供える神社が最高の官幣社、つぎが政府=大蔵省が共進する国幣社となる。
 また官幣社・国幣社の中でもそれぞれ大社・中社・小社のランクがあり、その地位を巡って昇格運動があったりした。また古代にはなかった別格官幣社、勅祭社というものができた。
 この制度も敗戦とともに崩壊した。
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