「本居宣長とは誰か」(子安宣邦著)
平凡社新書、2005年発行。
日本好きな私は、以前から江戸時代の国学者である本居宣長という人物に興味があり、手ごろな本はないかなと探してこの新書をたどり着きました。
入門書のつもりで読みはじめたところ・・・なんだかとてもわかりにくく、読みづらいのです。
なぜなんだろう? と感じつつも強引に読了し、後書きを読んでその理由がわかりました。
宣長は日本のアイデンティティを巡る最初の言説的構成者であった。
宣長を今読み直すのは、彼に従って「日本」をもう一度言説上に作り出すためではない。宣長に従って「日本」を再構成するといったことは、すでに昭和初期の日本で盛んに行われたことである。私たちに今必要なのは、宣長における「日本」の再構成作業そのものの検討である。
著者の中では「宣長による日本論の解説」ではなく「宣長の業績の再評価・再検討」という位置づけなのです。
つまり、現在の宣長像は正しいのか?という自問自答で展開する内容なのでした。
すると、「現在の宣長像」を知らない私のような読者は混乱するばかり、ということになります。
残念。
読むんじゃなかった、1日無駄にした(?)、と久しぶりに後悔した本でした。
本居宣長に対する興味が萎んでしまいました・・・。
<備忘録>
□ 『玉勝間』(全15巻)は、宣長の『古事記』や『源氏物語』などの研究過程で書きためた歴史や文学・言語、そして人物などについての覚え書き、そして人生や学問についての時々の感想などを編集した散文集。
□ 漢意(からごころ)
外部から日本に導入された漢字文化に伴われた儒教などの考え方。
それに対抗する古意(いにしえごころ)は、漢意を排除することにより明らかにされる日本古代固有の心意。
□ 「もののあはれ」
宣長は『万葉集』『古今和歌集』『後撰集』『古語拾遺』の歌における「あはれ」の語の用法を分析して、人に歌をもたらす根本的で普遍的な心情概念として「あはれ」を再構成した。
「もののあはれを知る心」とは、事に触れ、ものに触れることの多い人間の生活において、さまざまに動く心のあり方をいう。
事に触れて心が激しく動くとき、すなわち「もののあはれ」に堪えないとき、人は思わず声に出す、その声は長く、しかも文なる言葉となるだろう、それがすなわち歌なのだ。
□ 物語を読むということ
物語を読むことは、かつては音読を通じて複数の人々に同時的に共有されるものであったが、やがて一人で個別の空間で読むということに変化した。
□ 『源氏物語』を読むということ
もののあわれは知る心から作者(紫式部)は、もっとも「もののあはれ」を知る人をもっともよき人として物語を書き出し、読者はその「もののあはれ」を知る人々の物語に深く共感し、「もののあはれ」をともにする、それが『源氏物語』を読むことである。
人はすぐに勧善懲悪の教えと解しようとするが、それは浅々しい理解であり、紫式部の本意ではない。
物語の意味とは、人情とかくあることを人に教えるところにある。
□ 『古事記』と『日本書紀』の位置づけ
『日本書紀』を歴史書と呼ぶことに我々は躊躇しないが、同様に『古事記』を歴史書だということには躊躇する。
『古事記』は神武天皇以降の人の世の記録としてよりも、神の世の説話的記録としての特質を持つ。『古事記』は後の『伊勢物語』などの歌物語の祖型としての性格が強い。『古事記』は『日本書紀』のサブテキストとみなされてきた。
『日本書紀』神代巻は神道家にとっての神典であり、神道の教えといわれるものは、この神代巻の解釈として説かれていった。そのあり方に疑いを持った宣長により『古事記』は再発見され、『古事記』こそが第一の神典の意義を担うことになる。
□ 宣長の「漢字借り物観」
宣長は『古事記』のテキストを構成している漢字を、やまと言葉を表記するために借りた文字だと考えた。漢字は借り字・仮り字すなわち仮名・仮字である。漢字が仮名であるのは万葉が長そうであった。しかし宣長は『古事記』のテキストを構成する漢字を基本的に仮名と考えた。
(例)『古事記』冒頭部分は「あめつち」が先であって、それに漢字「天地」が当てられたと考える。
(例)やまと言葉「かみ」に漢字「神」を当てているだけ。
平凡社新書、2005年発行。
日本好きな私は、以前から江戸時代の国学者である本居宣長という人物に興味があり、手ごろな本はないかなと探してこの新書をたどり着きました。
入門書のつもりで読みはじめたところ・・・なんだかとてもわかりにくく、読みづらいのです。
なぜなんだろう? と感じつつも強引に読了し、後書きを読んでその理由がわかりました。
宣長は日本のアイデンティティを巡る最初の言説的構成者であった。
宣長を今読み直すのは、彼に従って「日本」をもう一度言説上に作り出すためではない。宣長に従って「日本」を再構成するといったことは、すでに昭和初期の日本で盛んに行われたことである。私たちに今必要なのは、宣長における「日本」の再構成作業そのものの検討である。
著者の中では「宣長による日本論の解説」ではなく「宣長の業績の再評価・再検討」という位置づけなのです。
つまり、現在の宣長像は正しいのか?という自問自答で展開する内容なのでした。
すると、「現在の宣長像」を知らない私のような読者は混乱するばかり、ということになります。
残念。
読むんじゃなかった、1日無駄にした(?)、と久しぶりに後悔した本でした。
本居宣長に対する興味が萎んでしまいました・・・。
<備忘録>
□ 『玉勝間』(全15巻)は、宣長の『古事記』や『源氏物語』などの研究過程で書きためた歴史や文学・言語、そして人物などについての覚え書き、そして人生や学問についての時々の感想などを編集した散文集。
□ 漢意(からごころ)
外部から日本に導入された漢字文化に伴われた儒教などの考え方。
それに対抗する古意(いにしえごころ)は、漢意を排除することにより明らかにされる日本古代固有の心意。
□ 「もののあはれ」
宣長は『万葉集』『古今和歌集』『後撰集』『古語拾遺』の歌における「あはれ」の語の用法を分析して、人に歌をもたらす根本的で普遍的な心情概念として「あはれ」を再構成した。
「もののあはれを知る心」とは、事に触れ、ものに触れることの多い人間の生活において、さまざまに動く心のあり方をいう。
事に触れて心が激しく動くとき、すなわち「もののあはれ」に堪えないとき、人は思わず声に出す、その声は長く、しかも文なる言葉となるだろう、それがすなわち歌なのだ。
□ 物語を読むということ
物語を読むことは、かつては音読を通じて複数の人々に同時的に共有されるものであったが、やがて一人で個別の空間で読むということに変化した。
□ 『源氏物語』を読むということ
もののあわれは知る心から作者(紫式部)は、もっとも「もののあはれ」を知る人をもっともよき人として物語を書き出し、読者はその「もののあはれ」を知る人々の物語に深く共感し、「もののあはれ」をともにする、それが『源氏物語』を読むことである。
人はすぐに勧善懲悪の教えと解しようとするが、それは浅々しい理解であり、紫式部の本意ではない。
物語の意味とは、人情とかくあることを人に教えるところにある。
□ 『古事記』と『日本書紀』の位置づけ
『日本書紀』を歴史書と呼ぶことに我々は躊躇しないが、同様に『古事記』を歴史書だということには躊躇する。
『古事記』は神武天皇以降の人の世の記録としてよりも、神の世の説話的記録としての特質を持つ。『古事記』は後の『伊勢物語』などの歌物語の祖型としての性格が強い。『古事記』は『日本書紀』のサブテキストとみなされてきた。
『日本書紀』神代巻は神道家にとっての神典であり、神道の教えといわれるものは、この神代巻の解釈として説かれていった。そのあり方に疑いを持った宣長により『古事記』は再発見され、『古事記』こそが第一の神典の意義を担うことになる。
□ 宣長の「漢字借り物観」
宣長は『古事記』のテキストを構成している漢字を、やまと言葉を表記するために借りた文字だと考えた。漢字は借り字・仮り字すなわち仮名・仮字である。漢字が仮名であるのは万葉が長そうであった。しかし宣長は『古事記』のテキストを構成する漢字を基本的に仮名と考えた。
(例)『古事記』冒頭部分は「あめつち」が先であって、それに漢字「天地」が当てられたと考える。
(例)やまと言葉「かみ」に漢字「神」を当てているだけ。