小国の日本が大国のロシアとの戦争に勝ったことを評価されることが多いようですが、着物姿で刀を下げていた侍の世からわずか半世紀後のことなのです。日露戦争の勝利はイギリスのおかげです。勿論、日英同盟を成し遂げた小村寿太郎という人物があってこそなのですが、下関戦争でイギリスに大敗した経験を持つ伊藤博文は日英同盟は不可能だと考えてようです。イギリスがスエズ運河を封鎖せず、バルチック艦隊がスエズ運河を通過していれば、燃料補給の不安もなく、連合艦隊に勝利していても全く不思議はなかったのです。当時の燃料は石炭で、途中の補給網をイギリスが遮断したことも大きかったといわれています。
これが太平洋戦争で燃料が石油に替わり、軍艦ではなく戦闘機が勝敗を分ける時代にアメリカと戦争して勝てるはずなどあるはずはなかったのです。これまで海戦では負け知らずだったこの国も空からの攻撃にはあまりにも無防備でした。最後は空からの原子爆弾2発で終戦になる訳です。
日清戦争は韓国の独立という名目で始められました。西郷の征韓論を諫めた政府が、結局、その先にある清との戦争に突入して行くのです。そもそも西郷の征韓論は朝鮮との平和的な国交回復でした。当時の朝鮮は、西欧化する日本を軽視する態度をとり、日本の国書を拒絶するなどの行動を続けていたのです。この状況を受け、西郷は自らを全権大使として朝鮮に派遣し、対話によって問題を解決しようと提案したのが後に征韓論と呼ばれるようになったのです。一方、共に明治新政府樹立に貢献した大久保利通は西郷の派遣に強く反対します。大久保は朝鮮の背後に清国やロシアといった大国の存在を見ており、戦争が日本の国家存亡を危うくする可能性を懸念していました。今は朝鮮を刺激せず、西洋と肩を並べる近代的な軍事力を持つことが先決と考えていたようです。共に考えていることは同じなのに、何故、この二人が対立することになったのか?
個人的には明治天皇に気に入られていた西郷に対する大久保の嫉妬だったと思っています。当時は参与ですらなかった大久保は様々な手を講じて参与という地位を手に入れます。ルール無視の強引な手法で、最終的に西郷の朝鮮派遣は中止に追い込んだのです。土壇場で覆された西郷は職を辞し、不平士族の受け皿となり西南戦争へと突入して行くのです。その大久保も不平士族の手により暗殺されてしまうのです。日清戦争は西南戦争から27年後のことでした。