レース・ディレクターとして過去9度のツール・ド・フランス制覇に貢献した名匠ヨハン・ブリュイネールがランス・アークストロングと共に自転車競技界から永久追放となった。
一方、ビャルヌ・リースは現役時代にミゲル・インデュラインのツール・ド・フランス6連覇を阻止しマイヨジョーヌを手にするなどの活躍を見せたが、レース・ディレクターとしてツール・ド・フランスに限っては、ヨハン・ブリュイネールほどの栄光を手にすることはできないでいる。
しかし、USポスタル時代のドーピング・スキャンダルによって、ヨハン・ブリュイネールの栄光は剥奪されるに至った。ビャルヌ・リースはCSCの監督であった2007年に「テレコム時代の1993年から1998年までドーピングを行なっていた」と自ら告白し、マイヨジョーヌを返還している。
2006年に自転車ロードレース界を揺るがせたオペラシオン・プエルトにより当時チームのエースとしてジロ・デ・イタリアを征し、ツール・ド・フランスでも優勝候補に挙がっていたイヴァン・バッソがヤン・ウルリッヒと共に出場を辞退せざるとえなくなる。後にバッソはドーピング関与を告白し2年間の出場停止処分を受けている。
ビャルヌ・リースはバッソは勿論、イエンス・フォイクト、カルロス・サストレ、ファビアン・カンチェラーラ、シュレック兄弟といったグランツールで活躍する選手たちを育成した名匠であるが、ヨハン・ブリュイネールによってマイヨジョーヌはことごとく奪われていったのである。ビャルヌ・リースがチーム・ディレクターとしてマイヨジョーヌの栄冠を手にするのは2008年のことである。2008年のツール・ド・フランスは前年のヴィノクロフのドーピング問題でディフェンディング・チャンピオンのコンタドールとヨハン・ブリュイネールが移籍したアスタナが招待されていなかった。
ビャルヌ・リースが所有・運営するチームであるリース・サイクリングは1999年に創設されている。これはヨハン・ブリュイネールがUSポスタルやディスカバリーチャンネルの運営母体であったテールウィンド・スポーツのレース・ディレクターに就任した年であり、ランス・アームストロングのツール・ド・フランス7連覇の始った年でもある。
既にUSポスタルという強力なスポンサーを得ていたテールウィンド・スポーツとは異なり、ビャルヌ・リースのリース・サイクリングが頭角を現すのはCSCというスポンサーを獲得した2003年以降となる。
2005年から施行されているUCIプロツアーでは2年連続総合のチーム優勝に輝き、この結果はチーム力の高さを証明していたものの、ランス・アームストロングの引退後も何故かツール・ド・フランスは総合優勝ができないという年が続いていた。
コンタドールが不参加だった2008年のツール・ド・フランスではカルロス・サストレとシュレク兄弟という3人の一流クライマーをフォイクト、カンチェラーラ、オグレディらで守るという強力な布陣で挑み、後半のアルプスステージでフランク・シュレクがマイヨジョーヌを得た後は抜群のチーム力でレースをコントロール。勝負がかかったラルプ・デュエズ山頂ゴールの17ステージではマイヨジョーヌのフランク・シュレクを囮に使ってサストレが飛び出す作戦を採用して見事にタイム差を稼ぎ、カルロス・サストレによるツール・ド・フランス個人総合優勝を成し遂げる。この年はアンディ・シュレクが新人賞も獲得している。
翌2009年のツール・ド・フランスでシュレク兄弟で連覇を狙ったビャルヌ・リースはコンタドールを擁したヨハン・ブリュイネールの前にまたまた苦渋を舐めることになったのである。
ヨハン・ブリュイネールがいるとツール・ド・フランスでは総合優勝ができないというジンクスを打ち破るべく2011年にドーピング疑惑の残るコンタドールを獲得し、ジロ・デ・イタリアとのWツール制覇を狙ったが、コンタドールの思わぬ不調でWツール制覇は霧散したのである。
そして今年2月CASはコンタドールのドーピング違反を認定し、2年間の出場停止の裁定が下る。チーム・サクソバンクはUCIとの規定に基づきコンタドールとの契約を解除せざるを得なかった。UCIプロチームライセンスの剥奪が懸念されていたが、UCIは、とりあえず当年度末まではライセンスを認める決断を下した。結果として、コンタドールは当年8月より、3年契約でチーム・サクソバンクと再契約し、8月6日開幕のエネコ・ツアーよりレースに復帰することとなる。
そして迎えたブエルタ・ア・エスパーニャ。ここはドーピングスキャンダルの汚名を晴らすべく、ビャルヌ・リースは万全の体制を整えて勝ちに出るも、絶好調のホアキン・ロドリゲスに加え、アレハンドロ・バルベルデまでが、調子が上がらないコンタドールの前に大きく立ちはだかる結果となった。
勝負ところで飛び出したコンタドールを頂上ゴール手前でホアキンとバルベルデが抜き去るという信じられない光景を目にし、誰もがホアキンのブエルタ・ア・エスパーニャ初優勝を確信した。そして第17ステージ、ゴールまで約51kmもある2級山岳カテゴリのラホス峠付近でアタック。残り約23㎞地点で先頭グループから抜け出しを図るべく再度アタックをかけ、後続を引き離す。不調に終わった2011年のツール・ド・フランスでも逃げの手に出たことはあったが、山岳にカテゴライズされていないステージで優勝候補が逃げに出るとは、おそらく誰も予想だにしていなかったはずである。隙をつかれたホアキン・ロドリゲスは2分38秒という大きな差をライバルに与えてしまうことになった。最後の逃げでコンタドールと共に抜け出したのはパオロ・ティラロンゴだった。ティラロンゴといえばアスタナ時代のコンタドールのアシストであり、昨年のジロ・デ・イタリア第19ステージでグランツールでの初勝利を飾ったことは記憶に新しい。しかも、その勝利はコンタドールのGIFTであった。
この時の作戦がコンタドールの判断だったのか、ビャルヌ・リースの作戦だったのかは明らかにされていない。勿論、その両方である可能性もある。ただ、ビャルヌ・リースのチームなら戦術だったと考えたくもなるのである。ビャルヌ・リースとはそう思わせずにはいない名匠なのである。
しかし、ビャルヌ・リースとコンタドールにとって難題がまだ残っている。それは2013年のUCIプロツアー・ライセンスが確定していないことである。コンタドールのブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝で確実と見ていたのだが、ドーピングで出場停止明けの選手のポイントは格付ランクに加算されないというのだ。
コンタドールの復帰とともにランス・アームストロングの形勢が悪くなり、10月22日、ランス・アームストロングのツール・ド・フランス7連覇のタイトル剥奪と永久追放が決まった。後にヨハン・ブリュイネールも永久追放処分となる。
自らドーピングを告白したビャルヌ・リースがレース界に残り、最後迄潔白を主張し続けたヨハン・ブリュイネールがレース界を永久に追放されるというのも皮肉な話しである。それも周囲の証言だけで物証が全く無い状況でである。心証は真っ黒なのに証拠不十分で無罪となった小澤某氏とは対照的な結果である。
正直言ってドーピング関連の話題はもううんざりである。しかし、現実問題として起きている以上、明確なガイドラインなど、誰もが見て納得できる基準が要求される。現状では「疑わしきは罰する」、つまりグレーとなれば理由を問わず罰するという姿勢になっており、真相解明が疎かにされていることは否めない。またUCIとWADA(世界アンチ・ドーピング機構)の足並みが揃っていないのもまた事実であるが・・・