Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/彩の国散策物語 第2回

2021-06-26 23:25:38 | 旅行

2020年の記録

 

 誠之堂の3色のレンガを組み合わせは、視覚的なアクセントになり僕好みだ。

 

 

下野市の自宅発の日帰りドライブの記録。

 

 

渋沢栄一ブームに乗って深谷に行った訳ではないが、渋沢栄一について、最初にちょっと触れる。(僕は超の付く天邪鬼で、「評判の」「人気の」・・・は、頑なに拒絶している。) 今、語られる渋沢栄一談の多くは、「偉人・渋沢栄一」である。そりゃ、新1万円札の肖像に決まったのだ、農民(といっても豪農)から政治家、実業家へと江戸末期から明治期を華々しく駆け抜けた偉人でなくては、国の面子が立たない。石川五右衛門が、紙幣を飾ることはないだろう。(笑)

 

一方、栄一の次男・渋沢篤二(長男・市太郎は夭逝)は、絵に描いたような“放蕩息子”で、「生活を楽しむことだけが商売みたいな、世にも気楽な一生を送った」と評され、実際に芸者・玉蝶のスキャンダルが表面化した翌々年廃嫡(相続権廃棄)となっている。栄一は、孫・敬三(篤二の長男)を後継者に指名し、敬三は期待通りの活躍をする。

 

「人格者の親からどうしてあんな子供が」といった話をしばしば聞く。(逆もある) 僕は「子供は親を映す鏡」だと思っている。人格者に見えている親も、他人の見えない“とんでも”な一面があるということだ。実際、偉人・栄一にも、光と影というものがあったのである。栄一は屋敷の女中にも手を出しており、関係を結んだ女性の数はわからないくらい多かったといわれる。いわゆる隠し子が、50~100人とも? まさにその名のとおり隠し子なので、実数はわからないとされている。

 

何でまた、栄一でなく、篤二なのかというと、僕自身が、“生活を楽しむことだけが商売”のように生きている。しかも、両親は人格者ということになっていて、息子も優秀であるので、篤二にシンパシーを感じるのである。

 

誠之堂(せいしどう)は、渋沢栄一の77歳の喜寿を記念して、1916年(大正5年)に現在の東京都世田谷区にあった第一銀行の保養施設・清和園内に建築された建物で、構造は補強煉瓦造りで、外観は焼き具合の異なる3色のレンガを組み合わせて積まれ、イギリスの田園農家風の外観をモチーフにデザインされた。(1999年=平成11年に現在地に保存のため移築され、2003年=平成15年重要文化財に指定された。)

 

 

誠之堂と並んで立つ清風亭は、第一銀行頭取・佐々木勇之助の古希記念として、1926年(大正15年)に清和園内に建築された建物で、鉄筋コンクリート造りの平屋建て、外壁は人造石掻落し仕上げの白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦によってアクセントのあるスペイン風デザインになってとなっている。誠之堂同様、現在地に移築されている。(埼玉県指定の有形文化財)

 

誠之堂も清風亭も経営者の喜寿だ、古希だといって建設したのだから今の感覚では、公私混同も甚だしい話だが、当時は、あたりまえのことだったのかもしれない。とは言いながらも、あらためて、そのように解説されると、「ムッ」とくるのは、僕だけだろうか。清貧の国・日本は、何処へ。

 

誠之堂、清風亭を訪問した後の帰り道に県境をちょっと越え群馬県伊勢崎市の小泉稲荷神社に行った。群馬県で一番大きいと言われている大鳥居に加え、信者から奉納された鳥居が3列、これでもかというほど約100m並んでいる。パワースポットにもなっているようだが、その類の感性が限りなくゼロの異教徒(カソリック教徒)にとっては、造形的な興味しかなかったのが本心。

 

 

旅は続く