Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/教会巡礼・1日目

2022-01-23 14:05:11 | 旅行

2022年の記録

 

 

1日目のハイライト、馬込教会のライトアップ

 

 

ひとまず長崎空港(大村市)から予約していた乗合タクシーで佐世保に向かう。乗合タクシーといっても、ハイエース9人乗りにドライバーと乗客の僕1人。(出張で使った時は満員、乗れないこともあった。バスより数百円高いが、ハウステンボスに寄らないので、ほぼ同時出発で、20分くらい早く着く。) 佐世保でレンタカーを借りて、西彼杵(にしそのぎ)半島西岸を南下し、今日の宿泊地・長崎市に向かって、教会を巡礼する。

長崎空港でレンタカーを借りず佐世保で借りたのは、返却が佐世保なので、2泊3日のレンタル料と大差ない乗り捨て手数料を追加で払うのが、バカバカしいと思っただけ、相変わらず、みみっちい。(笑)

 

 

佐世保で借りたレンタカー・スズキスイフトは、前回の巡礼の時に借りたオンボロ軽自動車と比べると格段にGood。「急発信するな!」、「スピードオーバーだ!」等々の音声が流れて、口うるさい女房が隣に乗っているような、気分にさせられるのが、玉にキズ。それとスピードメータの目盛位置が、ちょっと変わっていてスピードオーバーになりがち、まぁ、慣れれば、何ということもない。

 

 

太田尾教会は、1929年(昭和4年)に浦上天主堂などと同系統のゴシック様式の現聖堂が竣工されている。集落の中の細い道を登りつめた高台にある。最初にカーナビが、案内したところとは、だいぶ違い、カーナビ不信に。結局、グーグル先生に教わって、たどり着けたが、初っ端なからヤレヤレである。

 

 

東シナ海に沿って、ながさきサンセットロードを南下する。2017年5月に夕陽を見ながら走ったような記憶があるが、思い違いで、その時の記録を調べると真っ昼間、夕陽の写真もない。

 

 

大野教会堂は、フランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父が自費を投じ、設計と指導、信徒の奉仕によって、1893年(明治26年)に建てられた教会堂である。北面と東西側面の外壁は「ド・ロ壁」と呼ばれ、玄武岩の切石を漆喰で固めた壁が特徴的だ。

前回の巡礼(2017年5月)の時に比べると、整備が進んだように感じたが、説明係の信徒の方曰く、「雑草が繁らない冬だから」と。

2008年(平成20年)に国の重要文化財に指定され、2018年(平成30年)に世界遺産登録が決定した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する大野集落に包括されている。

 

 

出津(しつ)教会堂は、1882年(明治15年)にマルク・マリー・ド・ロ神父の設計により建設された。その後の信徒数増加等により2度の増築(いずれもド・ロ神父の設計による)を経て1909年(明治42年)にほぼ現在の姿が完成した。

教会堂は角力灘(五島灘)に面する風の強い当地の気象に対応して、レンガ造瓦葺き平屋建て(外壁は白漆喰を使用)の低い屋根を持つ建物となっている。

2011年(平成23年)に国の重要文化財に指定され、大野教会堂と同様、2018年(平成30年)に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「外海の出津集落」に包括される教会となっている。

 

 

黒崎教会は、小教区として独立した1887年(明治20年)に教会創建の機運が盛りあがり、1897年(明治30年)に土地造成したものの資金難により建築計画は頓挫する。ド・ロ神父没後の1918年(大正7年)、岩永信平神父の着任後、ようやく工事着工。信徒たちの血がにじむような労働奉仕と浄財により、1920年(大正9年)にコンバス司教によって献堂され、カトリック教会として正式に名を連ねた。しかし、教会堂建設に尽力した岩永神父は、すでに天に召され、ド・ロ神父とともに天国から式典を見守った。

外観はロマネスク様式の赤レンガ造り、内観はリブ・ヴォールト天井の美しい聖堂で、遠藤周作の代表作『沈黙』の舞台となった「トムギ村(外海地区)」に建つ。また、吉永小百合・二宮和也主演『母と暮せば』、本田翼・東出昌大・吉沢亮主演『アオハライド』にも登場する。

 

 

神ノ島教会は、1892年(明治25年)に当地に来住したデュラン神父が私財を投じ設計・建築したもので、1897年(明治30年)に竣工した。当初は漆喰塗りであったが、のちにセメント塗りに改装され、現在の白い外観になっている。半島の先端近くの岸壁上にあり、海を見渡せるところにある。

若い人が、チラホラ見えたので、夕方のミサがあるのかな?と思ったが、岸壁下の保育園に子供を迎えに来た親御さんたちだった。

 

 

1967年(昭和42年)三菱重工業の造船所誘致に伴う蔭ノ尾地区の集団移転に伴い1896年(明治29年)設立の蔭ノ尾教会を引き継ぎ、1971年(昭和46年)に香焼(こうやぎ)教会は、献堂されている。

神ノ島教会から馬込教会に向かう途中にあるのを偶然見つけて、急遽立ち寄った。

 

 

カーナビが案内した馬込教会に行くルートは、ガードレールもなく車幅ギリギリの山中の小道だった。カーナビやグーグル先生の案内では、しばしばあることだが、冷や汗ものである。とても車窓から夕陽を眺められる余裕はない。道幅が広くなり、樹々の切れ目から沈む太陽を見られるようになった。

 

 

馬込教会は、1931年(昭和6年)に地元伊王島船津の大工棟梁 大和和吉と指導者 松岡孫四郎神父により鉄筋コンクリート造、平屋、桟瓦葺で、竣工された。 大小の尖塔と尖塔状のオブジェ群、外壁に張り出した補強用の柱など、中世ヨーロッパの城郭を思わせるゴシック様式が、装飾上の特徴である。

日が暮れる前に到着、ひと通り撮影を終え、観光客用の駐車場で、ライトアップが始まるのを待って、ライトアップされた教会堂をあらためて撮影した。

 

 

宿泊した長崎ホテルは、長崎駅前は駅前だが、崖の上にあり、ある意味で“訳あり”だ。駅までの直線距離は近いが、その間には、墓地を抜ける500段の階段がある。クルマでワインディングロード走って行けば、駐車場も広く、市内の展望の素晴らしい格式のあるホテルだが、徒歩の投宿やチェックイン後の市街地散策は、相当の覚悟と体力がいる。東京から栃木まで“徒歩旅”をした僕も翌日は筋肉痛に悩まされた。歩行と階段登りでは、使う筋肉が違うのだろう。

 

 

長崎に来たら必ず食べるものが皿うどん。関東では、揚げ麺の皿うどんしかチョイスのない店が多いが、僕は揚げていない柔らかい平麺が好きなのだ。『キッチンえきまえ』の皿うどんは、チャンポンと同じ太麺だった。

 

 

皿うどんを食べた後に眼鏡橋まで散策した。以前、訪問した時と比較するとちょっと感激がダウン。見慣れたためか、ライトアップが変わったのか?

 

 

【メモ】

東京のコロナウィルス新規感染者数は、連日“過去最多”を記録。オミクロン株に比べると感染力の弱いデルタ株の時には、「すれ違っただけでも感染する」と言われていたものが、「ステーホームは必要ない、渋谷のスクランブル交差点では感染しない」と。(尾身会長談) 何がほんとで、何が誤りなのか?

それにしても不思議なことは、「なぜ、日本では、中国のように短期間で多人数にPCR検査をできないのか?」 僕らには、見せられない、不可思議な重力でもあるのか?

 

 

旅は続く