2023年の記録
3年ぶりの海外出張、3年ぶりの中国出張。上海でホテル周辺を散歩した時の記録。
中国への入出国が、やたらと面倒になった。ビザなし渡航が認められなくなり、そのビザ取得も指紋採取のために出頭しなくてはならない。まあ、日中関係が改善すれば、いずれ元のレベルに戻るだろうし、そうなって欲しい。
上海の常宿となった建国賓館の前に建つイグナチオ大聖堂を見ると、「あ~上海に帰って来たな!」といった気持ちになる。(実は上海に住んでいたことはないが、中国に初めて降り立った上海は、僕の中国人生の原点だ。)
大連入国後、上海まで南下、再び大連まで北上、半月で20社ほどを訪問する。過去に経験のない強行軍と出張前の過労、それに3年分の“キチガイ水”(=白酒)のために前半はヘロヘロの毎日。とても早起きして散策する余力などなかった。何とか、調子を戻したのが、折り返し点の上海。
高鉄(中国版新幹線)専用の上海虹橋站を使うことが多かったが、久しぶりの上海站に高鉄で到着。今でも、上海・北京間を走る在来線列車があるんだな、高鉄の開通する前の泰安から夜行列車で、毎月上海に出張した日々が懐かしい。
徐家匯聖イグナチオ大聖堂は、中世フランスのゴシック様式に倣って1910年落成している。赤レンガ、白い石柱、青灰色の石板の棟瓦で、二つの鐘楼は高さ60メートルに達する。建設当時は、極東一のカトリック聖堂であった。
美しい教会を、上空から毎日眺められることだけで、上海滞在期間は、心が安らかになる。
大聖堂の脇に建つ天主教上海教区主教府。
上海徐家匯中学校は、イグナチオ大聖堂を建設したイエズス会によって徐家匯公学校として建設された。
主教府と上海徐家匯中学校の間に建つ徐家匯蔵書楼は、1847年イエズス会宣教師の中国語学習施設として開館した。その後、図書館として拡張し、1897年にヨーロッパ様式の2階建の現在の建物に建て替えられた。
建国賓館の自室から大聖堂と逆の方向を眺めるとビルの谷間に歴史的建造物が見える。徐家匯とは、そんな街なのだ。
3年ぶりに上海の街を歩いていて感じたことは、東京よりはるかに安全なこと。かつてのようにクラクションが鳴ることもなければ、横断歩道に歩行者がいればクルマは確実に停まる。「歩行者優先」というあたりまえが、あたりまえになっている。もちろん、それは、街じゅうに設置された監視カメラの効果である。それに引きかえ今の東京、信号が青に替わり横断歩道を渡り始めた時、信号無視の自転車が突っ込んでくること多々。日本に来た上海人には、「信号が青でも左右を確認して」と、かつて上海人に言われたことを言わなくてはならなくなった。完全に逆転しちゃったことに気がついていないのは、日本人だけか。(中国の地方都市では、依然としてクルマ優先、道路の横断には、細心のご注意を!)
四川人の友人が、上海まで会いに来てくれた。3年ぶりの夕食は、定番の火鍋。「辣的不辣的?(辛いの辛くないの?)」と僕が訊く。「微辣!(ちょっとだけ辛い)」と友人が答えて、僕が口にする。あまりの辛さで、水をカブのみする僕を見て、友人が笑う。(友人は、もっと辛くして、顔色ひとつ変えずに食べている) 会うと繰り返される他愛もないやりとり。あ~、コロナ禍、終わったんだね。
【メモ】
G7広島サミットが閉幕した。
僕は、今まで感じたことのない複雑な気持ちになった。
G7サミットは、その時々の国際社会における重要な課題について、自由、民主主義、人権などの基本的価値を共有するG7各国の首脳が自由闊達な意見交換を行う。国際社会の現在の重要な課題とは、言うまでもなく武力による現状変更を許さないことである。だからゼレンスキー大統領が招待され、各国に兵器支援を求めたのだ。武力には武力でしか対抗し得ないといった根源的な矛盾があからさまになった。それは、核兵器の抑止が、核保有に行きつくことに繋がる。核のない平和を希求する国際会議で、兵器支援を求めるゼレンスキー大統領に一部の被爆者が強い嫌悪感をあらわにした気持ち、理解できる。
原爆投下国アメリカのバイデン大統領が、原爆投下を謝罪しないことに目くじらを立てる人がいる。当事者の気持ちは、痛いほど解る。しかし、誤解を恐れずに書くと、韓国が歴史問題で、日本に謝罪を求め続ける姿勢と重なって見えてしまう。原爆投下に対して、アメリカ国民の多く(1945年時点では85%、2016年でも43%)が、「戦争(=日米双方の人的被害)を終結させるために必要」と肯定していることを考えると、謝罪することが、アメリカ人にとっては、正義ではない。韓国に設置された慰安婦を表現した少女像にひざまずいて謝罪する安倍晋三首相をモチーフにした像を見せられた時のことを思い出した。
旅は続く