Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

大連の街角から 第2回 /人民歴史建築

2023-06-04 18:55:15 | 旅行

2023年の記録

大連の人民歴史建築街である旧ロシア人街と東関街(旧中国人街)を散策した時の記録。

 

 

ロシア風情街のメインストリート(団結街)のとば口にある錦江之星(中国のビジネスホテルチェーン)が、歴史的建築物か、否かは、定かではないが、大連芸術展覧館に負けない雰囲気がある。

 

 

大連はコンパクトにまとまった都市で、旅順口区、金州区、開発区といった郊外を除くと中心部からはクルマで30分以内である。日航飯店から旧ロシア人街までは、徒歩で10分。東関街までは徒歩35分。

 

 

遼東半島南端の旅順(軍港)と大連(商業港)を租借した帝政ロシアが、日本軍のダーリニー(大連)占領までの僅かな期間で完成した行政市街が、旧ロシア人街である。日本統治時代は、南満州鉄道関係の施設、社宅として利用されていた。

 

 

大連芸術展覧館は、ロシア風情街入口に建つ象徴的な歴史的建築物で、旧東清汽船鉄道会社事務所である。

東清鉄道南満洲支線(ハルビン~大連、旅順)は、帝政ロシアの満州支配とシベリア内陸部と不凍港旅順港、大連港接続を目的に敷設された。日露戦争後は、南満州鉄道(満鉄)として、日本に引き継がれた。

 

 

ロシア風情街のメインストリート沿いには、小洒落たロシア風の建造物がならび、土産物屋や飲食店が軒を連ねる。

メインストリート突きあたりにある広場に面して建てられた旧大連自然博物館は、改装中のため、壁に覆われ、外観さえ見ることができなかった。

 

 

団結路と烟台街の間には、旧満鉄(旧東清鉄道)職員宿舎をリノベーション(2011年着工、2013年ホテル開業)した「鉄道1896花園酒店」(別荘ホテル)がある。築100年を超える建物に見えないほど綺麗にリノベーションされ、さながらロシア風テーマパークである。職員宿舎ではあるが、建物すべてが違う形をしていて見ていて飽きない。とは言っても、以前のスラム時代を知っている者としては、ちょっと寂しい。

 

 

「タイムスリップする」 と言っても約15年前の2008年と2009年へ。

旧ロシア人街のメイン道路を散策していた僕は、いつもの好奇心からゲートを抜けて、細い路地に入っていった。華やかな表通りとは、まったく異なる世界が拡がっていた。生ごみの腐敗した悪臭のするいわゆるスラムだ。廃品回収を生業としている民工(出稼ぎ労働者)が住んでいた。いつものように子供たちのスナップを撮影し、半年後に写真を持って行ったときには、彼らはいなかったのだ。

今はスラムでも、中国国有鉄道の職員宿舎の表示が残り、歴史的な建造物であることは、すぐにわかった。

 

 

そして、2010年の暮れ、住民の立ち退きが完了した頃

いつものように旧ロシア人街のスラムを訪問すると、住民の立ち退きが終わり、解体を待つばかりといった光景が目に飛び込んできた。唖然とするしかなかった。中国の駅の近くにあるスラムは、次々と解体され、高層ビルが建設され、浄化されていくことがお決まりだ。むしろ大連は、遅い方だろう。

(その後、僕が旧ロシア人街のスラムに通っていることを知っている友人が、「解体ではなく、お洒落にリノベーションされるらしいよ。」と教えてくれた。

 

建物の周囲を囲んでいた塀が取り壊されたことで、建築物が丸見えになっていた。そんな早朝のスラムのあちこちで、黙々とスケッチをする若者がいた。

僕が 「君、大学生?」 と声を掛けると、「はい」 と答えが返ってきた。

「君の専攻は建築科?」 と続けると、「?」 といった表情をされた。

僕は慌てて、「美術かい?」 と言い換えると、

「そうです」 と爽やかな答えが再び返ってきた。

どの学生も、皆、穏やかで、物静かだった。それでいて溌剌とした、爽やかさがあった。

 

僕は消えてゆく建築物が、彼らの絵画の中で、いつまでも輝き続けるのなら、それもまた素晴しいことだと思えた。そして、僕は、静かにシャッターを切った。

 

 

メインストリートの北側にも旧満鉄職員宿舎がある。「まだ、残っているかなぁ」とあまり期待せずに向かった。幸いかつてとほぼ変わることなく残っていたが、住民の立ち退きは、進んでいるようだった。2階建ての集合住宅の造りから推測すると、戦後の新中国になってからの建築かもしれない。

 

 

銘板が示すように、中東鉄路(東清鉄道の中国名)の上級幹部住宅として、ロシア風ネオクラシック様式で1902年建築。その後は、他の東清鉄道職員住宅と同様、満鉄職員住宅として使用された。現在も民間住宅として使用されているようだが、近いうちに住人退去、リニューアルとなるかもしれない。(以前は、廃品回収業の老板=ボスのベンツが無造作に駐車していた。)

 

 

旧ロシア人街をあとにして、鉄道の在来線を跨ぐ勝利橋を渡る。跨線橋からは、大連客車整備庫を眺められる。中国の鉄道は、基本的に超長編成だ。

 

 

東関街は、かつては小崗子と呼ばれ、大きな市場や繁華な商店街があり、中国人(漢族、満族)を中心とした街で、最盛期は12万の人口を抱えていたという。建物は2、3階建ての洋風や折衷様式のものが多い。

 

 

東関街は、常宿にしていた民航大廈の近くにあったので、しばしば散策していた。旧ロシア人街とは、ちょっと異なる趣きだったが、民工の人たちが住み、スラム化したところは、旧ロシア人街と同じだ。

その東関街の再開発が始まったと聞き、どんなことになっているのかを見に行った。(2017年期限の住民立ち退きは、決まっていたらしい。)

旧ロシア人街のときと同じく、安全鋼板で囲われ、修復作業が進められていた。良くも悪くも、僕の記憶にある歴史と現代の貧困が混在した猥雑さは、浄化されてしまうのだろうな。

 

 

再び約15年前にタイムスリップ

 

2009年、多分、初めて東関街を散策した頃の記録

 

2010年の記録

 

 

現在の大連の路面電車(大連公交客運集団)は、1909年(明治42年)に南満州鉄道電気作業所の運営で軌道事業を開始している。さすがに開業当初の車両は使っていないが、戦前の1937年(昭和12年)導入の日本車輌製造製の車両が、車齢86年の今も現役で活躍している。

 

 

【メモ】

大連の友人(漢族)と食事をしていた時、「もう少し日本が、(日中戦争で)踏ん張ってくれていたらなぁ」 と妙なことを言った。

 

友人曰く、「旧満州から日本が撤退していなければ、中国東北3省(旧満州の大半)は、日本の一部になっていただろう。日本の人口は、約1億人。東北3省の人口も約1億人。日本は、民主主義だから中国人の立場は守られるだろう。中国の改革開放まで、東北3省は、工業の先進地域だった。それは、日本が残していった工業施設や技術の蓄積があったからだ。しかし、その貯えが尽きると、中国の成長から取り残されてしまった。もし、東北3省が日本の一部になっていたら我々は、もっと自由に、そして豊かになっていただろう。」

 

友人の話を聞いた時、高校時代の教師の言葉を思い出した。「戦後、アメリカの占領のまま、日本が、アメリカ51番目の州になっていたら・・・・・・。」 当時のアメリカの人口は、約2億4千万人、日本は、ほぼ半分の約1億2千万人。日本がアメリカに併合されていれば、アメリカの人口の1/3を占め、日本人が世界を動かしていたかもしれない。

 

現代の国際関係を見ていると、「最後は、国土と人口の絶対値の大きさなのかな」 と考えてしまう。

歴史に“If”はないけどね。

 

 

旅は続く