Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

大連の街角から 第3回 /教会巡礼

2023-06-11 11:51:49 | 旅行

2023年の記録

大連に戻ってきた日の翌日と帰国日の教会巡礼の記録

 

 

大連天主教堂を訪問した朝、空は厚い雲に覆われいたが、天主教堂にカメラを向けると、雲が動き、一瞬だけ青空が広がった。

 

 

玉光街礼拝堂は、中山広場を越えた南側に、それ以外の教会は、長江路を西に向かった方向に点在している。

 

 

玉光街礼拝堂の現在の教会堂は、1928年にイングランド国教会と日本聖公会の共同で、英国領事館の近隣の玉光街に建設された。(初代教会堂は、中山広場の英国領事館敷地内に聖公会教会として建設。)

 

第二次世界大戦後、日本の建物はすべて中国に接収され、宗教関係建築物は、他の目的に使用されるようになったが、大連聖公会は、半分が戦勝国・英国所有であったため、教会堂として残され、中華人民共和国の設立後も、玉光街礼拝堂と改名されて残った。1966年~1977年の文化大革命時期には宗教迫害が行なわれ、教会堂として機能せず、窓のステンドグラスなども壊され、子供たちの学習場として使われた。1980年代初頭から超教派の中国基督教協会の教会として礼拝が再開された。2001年大連市重点保護建築指定

 

玉光街礼拝堂は、ホテルから徒歩で15分ほどのところにあるため、真っ先に訪問した。以前、常宿にしていたビジネスホテルの目と鼻の先にあったので、何度目かの訪問であるが、外壁が塗り替えられ、鮮やかになったと思った。綺麗になったものの、歴史的な重みが軽くなったような気がする。礼拝時間外は、門が閉ざされていたため、門の外から撮影することになったのは残念。

 

 

大連天主教堂は、大連が日本の租借地であった時代に南満洲鉄道に勤めるカトリック信者を中心に教会活動が始まり、メリノール宣教会(本部は米国ニューヨーク州、東京に支部)の教会堂として完成し、1926年に献堂された。初期の外壁を模し、2013年に大規模改修している。なお、大連天主教堂は、大連で唯一のカトリック教会。建物は大連市保護建築(第1回)に指定されている。

 

 

北京街礼拝堂は、大連ルーテル教会と呼ばれ、デンマーク国教会により1914年竣工している。教会堂は、現在も1914年建設当時のままの姿をとどめ、大連市重点保護建物に指定されている。2006年に「大連市承恩堂」に改名されているが、通常は「北京街礼拝堂」と呼ばれている。

 

訪問した時は、ミサが行われていて、女性の信者さんが招き入れてくれようとしたが、僕も友人も異教徒(僕はカソリック、友人は別の会派のプロテスタント)なので、遠慮した。礼拝堂は、壁に囲まれた狭い敷地にあるため、正面からしか写真撮影ができなかったが、それは、僕の我が儘にすぎない。

 

 

大連沙河口区興工街礼拝堂は、新しく建替えられているが、教会としての歴史は長いようだ。ハングル文字が示すように朝鮮族の人たちの教会で、ハングルのミサが行われているのだと思う。中国東北部(旧満州)は、吉林省を中心に朝鮮族が少なくない。また、朝鮮族(韓国人)には、キリスト教徒も多い。帰国日の教会散策に同行してくれた友人も吉林省出身、母親は朝鮮族である。

 

 

【メモ】

中国から帰国して、多くの人から「コロナ前後で、中国の何が変ったの?」と訊ねられる。まぁ、色々あるけど、出張者がトップに掲げるとすると、「スマホ(アプリ)を持っていることが前提」になったことだと思う。確かにコロナ前にもスマホアプリの配車サービスで、クルマを呼ぶことはあった。しかし、コロナ後にアプリを使わずに空車のタクシーを見つけて乗車することはむずかしくなった。仮に乗車まで漕ぎ着けたとしても、現金支払を拒否されるか、拒否されなくともドライバーが小銭を持っていないため釣銭を放棄しなくてはならない。

 

そもそも、中国入出国時にスマホに中国海関(税関)のアプリをインストールしなくてはならない。

コロナ前は、スマホを使いこなせれば便利だったが、コロナ後はスマホを使えないと、旅行者であっても、生活できないのである。

そんな話をすると、訪中経験のあるビジネスパーソンでも、「中国には出張したくない、そもそも、中国政府のアプリなんて自分のスマホにインストールしたくない。」と言う。

 

中国の経済を支えているのは、何やかんや言っても、外需と投資だ。経済の投資依存が、中国政府にとって、リスキーなことは承知済のはずだ。外需を現在の不景気脱却の起爆剤にしようというならば、海外のビジネスパーソンが、訪中しやすい環境を作るべきなのにそれをしない。中国政府が意識してか、否かは別にして、「内需で経済を廻す、経済的半鎖国も辞さない」といった決意表明に思えてしまう。

 

 

旅は続く