2021年の記録
1週間ほど前から電信柱に貼られていた猫探しのチラシ、帰宅するとポストにも入っていた。飼い主は、彼女を家族として愛していたのだろう。その一方で、ゴミと一緒に生きている仔猫をポリ袋に入れて、ゴミ捨て場に遺棄する飼い主もいる。ペットは飼い主を選べない。
捜索中のハクちゃんが、無事飼い主のところに戻れることを願いたい。(メモに続く)
カトリック赤羽教会に彩湖、いずれも以前に紹介している定番の散歩コース。
白亜のカトリック赤羽教会は、青空に映えて美しい。付属幼稚園の園児が遊ぶ、穏やかな午後。
夕焼けを撮影しに彩湖に行くと、足元に彼岸花を見つけた。彼岸花を見ると、僕は何とも悲しい気持ちになる。過ぎた夏への想いのためだろうか。
残照の中に富士山と巣に帰る鳥が見える。今日1日、無事に終えることに感謝!
【メモ】
最近、「親ガチャ」という言葉が、論争の種になっている。「親ガチャ」とは、子供は親を選べない→成育環境によって人生が決まってしまう→格差社会、貧困の連鎖→将来の夢を持てない、持たない、努力の放棄へと繋がる負のスパイラルの起点。
※ガチャ:カプセルトイの無作為販売機の通称ガチャガチャ、ガチャポンに由来する。
海外の底辺に近い人たちを知っている僕からすると、日本の格差など、誤差みたいなものと思ってしまう反面、格差の本質は、意識そのものなのかもしれない。
インドネシアにいた8年ほど前のことを思い出した。インドネシアのマジョリティに立身出世のない時代があった。貧しい家庭に生まれた若者は、どんなに頑張って大学を卒業しても、それに見合う職に就くことはできなかった。なぜなら、行政機関や国営企業に就職するためには、コネと賄賂が必須だったからだ。(コネや賄賂がなくとも優秀ならば採用される外資系企業が進出したのは最近のことだ)
「俺は貧しい家庭に生まれたから貧しいのだ」と、皆が異口同音に話す。救いは宗教、コーランの戒律を守り、1日5回の礼拝に勤めれば、来世は裕福な家庭に生まれられると信じている。
インドネシア経済の中心の官から民への移行は、マジョリティの若者の生き方を変えたのかもしれない。
一方、同じインドネシアでも華僑は違っていた。貧しくとも優秀な子供には、一族が支援という名の投資をするシステムがあるからだ。中華民族には、“蜘蛛の糸のような科挙”という希望が、意識の根底にあったからではないだろうか。そう、あったという過去形、中国大陸では、急速にその希望は、日本と同様萎みつつある。
仔犬を遺棄した人の育った環境は、幸せなものではなかった気がする。仔犬の遺棄は、人間社会の縮図であり、不幸の連鎖だ。
人間もペットも親(飼い主)を選べないのは一緒で、これを変えることはできない。できることは、どんな親のもとに生まれても、どんな飼い主に飼われても、幸せになれる社会にすることだ。
旅は続く
コメント、ありがとうございます。
「親ガチャ、ハズレ」なんていうのは、努力を放棄する自分への言い訳みたいなもの、と言ったら、昭和ガンコおやじですかね。
でも、「ハズレ」と思えるのは、ギリギリセーフですよ。「ハズレ」と思ったら、それを連鎖させない努力だけはしてもらいたい。例えば、ネグレクトがあたりまえだ、と思うようになったら、ほんとうに世も末です。
成人したら自分の責任で生きることは正しい考えです。僕の父はある意味で、それを体現していた。家父長制をそのままを生きているオヤジだったので、社会人になるまでの干渉は、凄かった。それも、すべて母親経由で言ってくる。社会人になるまで、父親とまともに会話することさえ、なかったですよ。ところが、僕が社会人になってからは、一切何も言わなくなった。逆に自由でいたいから息子と同居はもちろん、一切面倒を見てもらいたくないと。
中国は、元々、もの凄い格差、階級社会、それを是正しようとしたのが、毛沢東率いる共産党です。その共産党幹部が、今じゃ、紅二代よろしく、格差、階級社会の元凶になっているのですから如何に格差の克服が困難か・・・。
秋、と言っても、気がつくと冬になっているのでしょうかね。
では、また。
お邪魔します。
相手を選べないという意味では、親も子も同じ。
立場の上下はなくどっちもどっち「親ガチャ、子ガチャ」。
その上で、子を成したのは親の裁量ですから、
親は子が成人まで責任を持つのが筋と考えます。
成人した子は、親の庇護を離れ、自力で自由に生き、
自分の人生に責任を取り、属する社会に貢献すべきかと。
(りくすけ個人の考えです)
他方、ペットは意味合いが違ってきます。
これは飼い主に絶対的選択権と、絶対的責任あり。
死ぬまで面倒を見なければならないと考えます。
海外の格差の実情---
僕はZhenさんのように肌感覚で深く理解している方には
遥か及ばず、耳学問の程度の知識でしかありません。
また、歴史ファンとしては「過去の国家・社会・格差」と
比較してしまいます。共和制、帝政、絶対王政、専制君主、
封建制、共産主義、民主主義。
様々な制度の元で、先達たちはそれぞれの格差に耐え、
知恵を絞り、克服してきました(克服できない例も多々)。
時代によっても格差の意味や質は変わってきます。
結局のところ、いつでも、どこでもStand and Fightしか
道はないのかもしれません。
おっと、取り留めのないことを長々と。
失礼しました。
残照の風景、まさに「遠き山に陽は落ちて」の世界観。
いいですね。
北陸でも曼殊沙華が盛りを迎えています。
秋分は季節の変わり目を意識しますね。
では、また。