Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

人民中国の残像/上海火車站界隈

2021-09-29 21:39:33 | 旅行

2001年の記録

 

上海火車站(上海駅)近くには、「××旅社」といった名前の木賃宿が軒を連ね、リヤカー付の自転車が走っていた。

 

 

漕宝路のホテルから地下鉄で北上した上海市中心街の反対側に上海火車站(上海駅)がある。高鉄(中国版新幹線)専用の上海虹橋站ができる以前は、上海の入り口だった。

 

 

なぜ上海火車站周辺を散策したのかの記憶がない。しかし、兄から聞いていた上海のカオスそのものが蠢いていた。知人にカメラをぶらさげて上海火車站周辺を散策したことを話すと、「エッ、危なくなかったの?」といった反応がふつうだった。ふつうの人ならば、わざわざ行くところではない、危険だと思われているところだ。(幸い危険な目にあうことはなかった)

 

 

今では上海の象徴にもなっている浦東新区の高層ビル群建設のために上海に行った兄は、労務の仕事をしていたので、出稼ぎ労働者のリアルを知っていたのだと思う。20世紀末の中国は、高度成長(1978~2012年)が始まっていたものの外国で考えるほど景気は良くなかったのかもしれない。「フォルクスワーゲンのモータープールは、売れないサンタナで溢れている。」と兄が吐き捨てるように話していたのを覚えている。

上海ではタクシーも、社有車もフォルクスワーゲン・サンタナ(日本でも、1980年代に日産がノックダウン生産していた)一色だった。トヨタが中国国営企業との不平等合資を回避したため、代わりに中国進出を果たしたフォルクスワーゲンは、広大な市場を占有し、莫大な利益を獲得した。

 

 

当時の中国では、携帯電話さえ特権階級の持ち物だったので、上海からの帰郷者の話が、地方に住む人の知る上海情報だった。上海の現実は、地方に伝わることなく、帰郷者に都合の良い虚像だけが伝わった。

地方の寒村から上海に出稼ぎに行くことは、海外に行くのと同じほどの時代である。(21世紀初頭まで、建前では出稼ぎは認められていなかったので、出稼ぎは不法就労だった。) 人一倍面子を大切にする中国、「上海で頑張ったけど、ダメだった」とは、口が裂けても言えない。どんなことをしてでも、つまり男ならギャング、女なら春を売っても、カネを作って帰らなくてはならない。しかし、帰郷して口外することは、「上海は稼げる」ということだけだ。真実は、親にも言えず、「私も上海に行く」と言いだす兄弟姉妹に告白できれば、良い方だ。そんな訳で、我も我もと地方から何十時間もかけて上京してくる人が後を絶たない。田舎から出てきた何の技術もない農民に仕事が行き渡る訳はなく、上海に来たものの職もなければ住むところもない出稼ぎ労働者は虚空を仰ぎ、上海火車站前広場に座り込むしかなかったのだろう。

 

 

一国一城の主志向が強い中国では、腕一本で商売を始められる露店の床屋は少なくない。

 

 

なぜだか中国では、家屋の表向きに洗濯物を堂々と干す。時には、目のやり場に困ってしまう洗濯物と店番のおばちゃんを見比べてしまうこともある。

 

 

建物に垂直に物干し竿を掛け、電線だろうが使えるものは使うのが中国流。

 

 

僕と同じようにカメラを首からぶらさげている若者2人組にあった。1人は日本人のような顔立ちをしていたが、2人ともイギリス籍の上海に住む英語教師だった。日本人と会うことはなかったし、僕自身も商店主から「韓国人か?」と声を掛けられた。日本人はいなくとも韓国人が商売しているところは多い。韓国人の進出力恐るべし!

 

 

【メモ】

次回は、現在の日記に戻るが、「人民中国の残像」シリーズは、今後も断続的に連載していく。

 

 

旅は続く

 


人民中国の残像/嘉善西塘鎮

2021-09-26 21:35:31 | 旅行

2001年の記録

 

上海の周辺には、水路沿いに発達した古鎮が多数あり、原形を残しているところは観光地化されている。(ここ西塘鎮も、今は観光名所になっている) 水路に石橋があり、両岸には白壁の木造家屋がならぶ。

 

 

漕宝路のホテルから地下鉄で1駅のところにある上海南站(上海南鉄道駅)から列車に乗り、上海市に隣接する浙江省嘉善県の嘉善站まで行き、クルマで西塘鎮に行った。

 

 

上海南站は、今でこそドーム型の近代的な駅に生まれ変わったが、当時は、場末の終着(始発)駅だった。その分、比較的落ち着いていて、次回紹介予定の上海站周辺のようなカオス感はなかった。

往路は軟座(1等座席車)に乗れたので、日本の列車内と大差ない雰囲気。同じボックス席に乗り合わせた乗客とは、英語で簡単な会話もできた。それなりのステータスの乗客が利用しているのだと思う。

 

 

西塘古鎮は、2001年当時でも、すでに景勝地であった。しかし、今のように観光を楽しむ経済的な余裕のある大衆は少なかったので、混雑することはなかった。写真のカップルは、新婚旅行客ではないだろうか? つまり、観光は、人生の特別な時限定のイベントだった

中国の観光地は、基本的に有料だが、さすがに当時の西塘古鎮への入場は無料だった。(今では、ゲートがあり、監視員がいて、1500円程度は徴収すると思う。)

 

 

すっかり観光地となった今の西塘古鎮は、観光船が目立つが、当時は、行き交う荷役船や水上生活者の住居船が多くあった。

また、運河そのものが、生活の場で、食器や衣類を洗う者もいた。

 

 

中国に限らず水運の中継地には、商業が発達する。西塘古鎮もそのような街の1つ。食料品や生活雑貨を売る商店がならぶ。

 

 

人民服を着た品の良いおじいちゃんと優しそうなおばあちゃん、そして可愛い双子の孫。快く撮影に応じてくれた。客観的には、単なる記念写真かもしれないが、僕にとっては、人との交流が始まる貴重な1枚だ。

 

 

ドライバーとの待ち合わせの時間が迫り、慌ただしく撮影を切りあげた最後の1枚。あれから20年、西塘鎮のガキンチョは、どんな大人になったのだろうか。

 

 

取引先のドライバーに駅まで送ってもらい鈍行硬座(2等座席車)で帰路へ。そこからが、楽しい経験だ。

満員の列車に乗り込み、自分の席にたどり着くと、案の定知らない男が座っている。ちょっと声を掛けても寝たふりをしている。肩を揺すり、衣服を引っ張ると、渋々席を空けた。(それでもダメな時は、胸ぐらを掴み引きずりださないとダメらしい) この話を聞いただけで、まともな日本人は、中国の旅行が嫌になるだろうな。

僕は取引先のドライバーがキップを買ってくれたので、席を確保できたが、車内は無座(立席)の客でごった返していた。(ダフ屋を使ったか、取引先の董事長=会長の口利きか)

車内には、生きた鶏を持ち込む客もいたし、ダブルブッキングなのか、台湾人グループ旅行者と1時間近く口論する男もいた。周囲の無関係な乗客まで口論に加わるので、なかなか見応えがある大論争だ。車掌が来て、男の持っていた乗車券が昨日のものだったことが判明したが、男は頑として引かない、「俺は切符売り場で、今日と言った」と主張する。男と車掌の争いとなったが、最後には公安が男を引っ張っていき、あっけなく幕引きとなった。

中国で生きていくには、鈍感なぐらいの太い神経がないとダメなのが良くわかった経験だ。

 

 

旅は続く


人民中国の残像/上海漕宝路

2021-09-23 18:11:32 | 旅行

2001年の記録

 

僕が初めて上海に行ったのが20世紀末。人民中国の残像は、2008年の北京オリンピック前までの写真を順不同、順次ご紹介していきたいと思っている。僕のカメラライフのデジタル転換は比較的遅く、大半の写真は、銀塩カメラで撮影したものになる。

 

 

2001年からしばらくは、漕宝路の安ホテルを常宿にしていた。地下鉄1号線で、上海火車站(鉄道駅)まで1本で行けるなど便も良かったが、1番の理由は、取引先の総経理(社長)の自宅があったことだ。

 

 

僕が上海に行く3年前まで、兄が上海に住んでいたので、上海のことを断片的に聞いていた。実際に自分の目で確かめると、ほんとうのこともあったし、首を傾げることもあった。

「上海の治安は悪い、女子供を連れて行けるところではない」と兄は言って、姉や姪が上海に行くことはなかったが、僕が見た上海は、そんなに治安の悪い街ではなかった。そのことを指摘すると、兄曰く、「『我々が、こんなことじゃ外資は来ないよ』と抗議したので、中国政府は、全国から公安(警察官)を集め、上海の治安を回復したのだ。今、治安がいいのは、我々のお陰だよ。」

兄の説明も、あながち嘘ではないと思う。以前の中国は、外国の目を意識する国だったので、外国人に対する犯罪は厳罰だった。誤って外国人をクルマやバイクで撥ねれば、死刑とも言われていた。また、国家的事業として開港した直後の上海浦東国際空港は綺麗で、空港から市内へと続く道路の中央分離帯は、何キロも続く長大な花壇そのものだったのを覚えている。

 

 

上海市内では、自転車から電動バイクへと転換が始まった頃だが、まだまだ山のような荷物を運ぶ自転車が、ふつうに走り回っていた。

 

 

子供たちは、おどけてポーズを取ってくれた。

 

 

珠江(Pearl River)S-201(国営明光兵器廠1972年製)は、千代田光学(現・コニカミノルタ)ミノルタSR-2のコピーモデルである。オリジナルはファインダー固定式であるが、本機はニコンFシリーズを模し、ファインダー交換式となっている。

上海火車站前の中古カメラ屋で買ったものだが、しばしば、巻き上げ不良になるのだが、持参すれば即座にオヤジさんが修理してくれるので、それはそれで良かった。(もちろん無料)

 

 

【メモ】

約1年前に2019年4月以降の記録投稿を開始して、やっと“今”に追いついたことを機に2000~2008年北京オリンピックまでの約10年間の記録を「人民中国の残像」というタイトルで、順不同で順次アップしていく。(なお、2009年以降は、mixi日記にて公開済)

写真を整理していて気がついたが、デジタル連写と違って、銀塩時代は、1枚1枚に想いを込めてシャッターを切っている。経済的な制約もあり、今とはコマ数も違えう。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/彩の国散策物語 第5回

2021-09-23 10:23:47 | 旅行

2021年の記録

 

1週間ほど前から電信柱に貼られていた猫探しのチラシ、帰宅するとポストにも入っていた。飼い主は、彼女を家族として愛していたのだろう。その一方で、ゴミと一緒に生きている仔猫をポリ袋に入れて、ゴミ捨て場に遺棄する飼い主もいる。ペットは飼い主を選べない。

捜索中のハクちゃんが、無事飼い主のところに戻れることを願いたい。(メモに続く)

 

 

カトリック赤羽教会に彩湖、いずれも以前に紹介している定番の散歩コース。

 

 

白亜のカトリック赤羽教会は、青空に映えて美しい。付属幼稚園の園児が遊ぶ、穏やかな午後。

 

 

夕焼けを撮影しに彩湖に行くと、足元に彼岸花を見つけた。彼岸花を見ると、僕は何とも悲しい気持ちになる。過ぎた夏への想いのためだろうか。

 

 

残照の中に富士山と巣に帰る鳥が見える。今日1日、無事に終えることに感謝!

 

 

【メモ】

最近、「親ガチャ」という言葉が、論争の種になっている。「親ガチャ」とは、子供は親を選べない→成育環境によって人生が決まってしまう→格差社会、貧困の連鎖→将来の夢を持てない、持たない、努力の放棄へと繋がる負のスパイラルの起点。

※ガチャ:カプセルトイの無作為販売機の通称ガチャガチャ、ガチャポンに由来する。

 

海外の底辺に近い人たちを知っている僕からすると、日本の格差など、誤差みたいなものと思ってしまう反面、格差の本質は、意識そのものなのかもしれない。

 

インドネシアにいた8年ほど前のことを思い出した。インドネシアのマジョリティに立身出世のない時代があった。貧しい家庭に生まれた若者は、どんなに頑張って大学を卒業しても、それに見合う職に就くことはできなかった。なぜなら、行政機関や国営企業に就職するためには、コネと賄賂が必須だったからだ。(コネや賄賂がなくとも優秀ならば採用される外資系企業が進出したのは最近のことだ)

「俺は貧しい家庭に生まれたから貧しいのだ」と、皆が異口同音に話す。救いは宗教、コーランの戒律を守り、1日5回の礼拝に勤めれば、来世は裕福な家庭に生まれられると信じている。

インドネシア経済の中心の官から民への移行は、マジョリティの若者の生き方を変えたのかもしれない。

 

一方、同じインドネシアでも華僑は違っていた。貧しくとも優秀な子供には、一族が支援という名の投資をするシステムがあるからだ。中華民族には、“蜘蛛の糸のような科挙”という希望が、意識の根底にあったからではないだろうか。そう、あったという過去形、中国大陸では、急速にその希望は、日本と同様萎みつつある。

 

仔犬を遺棄した人の育った環境は、幸せなものではなかった気がする。仔犬の遺棄は、人間社会の縮図であり、不幸の連鎖だ。

人間もペットも親(飼い主)を選べないのは一緒で、これを変えることはできない。できることは、どんな親のもとに生まれても、どんな飼い主に飼われても、幸せになれる社会にすることだ。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/下野探訪記 第3回

2021-09-19 14:29:03 | 旅行

2021年の記録

 

ひまわりは、夏の象徴だと思う。

 

 

2回目ワクチン接種から約3週間経過し、PCRモニタリング検査の結果も陰性。帰宅し自宅周辺を散策した時の記録。

 

 

今年1月に2019年の記録としてご紹介した天平の丘にある古民家を整備したシェアスペース・夜明け前。

 

 

今夏、最後に見るひまわりになるだろう。昨年の夏に続くコロナ禍のStay Home。 “一瞬の夏”として僕は記憶することになる。

 

 

【メモ】

東京都の新規感染者数は、8月13日5,773人を記録したあと減少に転じ、9月半ばの今は、1,000人前後を推移している。(医療の逼迫は、新規感染者数ほど改善していない。)

1年前の夏、感染者数の減少は、コロナ終息への期待が膨らみ、冬を乗り切れば、かつての日常を取り戻せると希望的な観測ができた。しかし、今は、そのような気にならない。先が見えないことが見えたといったところか。

 

 

旅は続く