Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/横須賀・横浜

2023-06-24 12:00:23 | 旅行

2023年の記録

晴天のゴールデンウィーク、混雑を避け、近場を散策した時の記録。

 

 

威厳を感じる指路教会の入り口扉。

 

 

横須賀から鎌倉、保土ヶ谷(横浜市)、そして横浜へと移動した。さすがに鎌倉は、人流まで大渋滞。

 

 

紺碧の空の下、京急横須賀駅から横浜、横須賀らしい坂道を登っていったところに日本基督教団横須賀上町教会があった。外装は下見板張で尖頭アーチ型のギロチン窓を礼拝堂の各面に配置し、道路側に設けられた切妻屋根の塔屋に十字架を掲げる。1930年(昭和5年)頃の建設当時は平屋であったが、2階を居住として1950年(昭和25年)に増築している。設計は、ウイリアム・ヴォーリズの弟子、横田末吉。国の登録有形文化財。

 

 

激混みの小町通りを抜け、路地を1本入ったところに日本聖公会鎌倉聖ミカエル教会はあった。増改築が行われた外観は、建設当時の面影はほぼ無いものの昭和初期に建てられた教会堂である。内部は建設当初のままで残っているが、一般公開はされてない。日曜日の礼拝に参加すれば内部も見ることができるとのこと。

 

 

鎌倉駅(JRと江ノ電)を挟み聖ミカエル教会と点対称の位置にあるのが、日本基督教団鎌倉教会会堂である。1926年(大正15年)にハリス記念鎌倉メソジスト教会会堂として建てられた戦前のプロテスタント教会会堂の代表的建築物。稀に観光客が迷い込んで来て、壮大な教会建築を目にすると“和”の鎌倉とのイメージのギャップに驚く。しかし、敷地内の立派な松は、明らかに“和”の鎌倉を連想させる。

 

 

日本基督教団鎌倉教会附属のハリス記念鎌倉幼稚園は、1910年(明治43年)の創立。現在の園舎は、関東大震災後の1925年(大正14年)に建て直された。「梅鉢型園舎」と呼ばれ、中央に遊戯室があり、それを取り囲むように舞台と教室が配されている。教会堂とともに鎌倉市景観重要建築物等に指定されている。

 

 

激混みの鎌倉を早々に後に、これまた激混みのJR横須賀線に乗り、横浜市保土ヶ谷にある保土ヶ谷カトリック教会へ向かう。

保土ヶ谷カトリック教会は、台風による建設地の地すべりなどの障害を乗り越え、フランス出身のシェレル神父の私財、神田教会信徒からの寄付、神父母国・フランスからの資金協力により1938年(昭和13年)に竣工。設計はチェコ出身の建築家ヤン・ヨセフ・スワガー。

聖堂の建つ霞台は、建設当時には、ぶどう畑が広がり、少し前までは、古い洋館(文化住宅)が数多く建ち、磯子や鶴見などと共に“横浜第2の山手” といったところであったが、現在は、郊外の一般的な住宅地となっている。

 

 

保土ヶ谷から関内、石川町方面へは、鉄道だと一旦横浜駅を経由することになるので、多少の渋滞を覚悟して路線バス移動した。

 

 

日本基督教団横浜指路教会の現在の教会堂は、関東大震災後の1926年(大正15年)に再建されたものである。(その後の横浜大空襲で内部は、全焼している。)横浜市認定歴史的建造物

 

都市部の教会は、大きな道路に面しているところが多く、教会堂の撮影には制約が多い。横浜指路教会も国道16号線に面し、目の前に信号機のポールに阻まれている、おまけに訪問時は逆光。

 

 

横浜正金(しょうきん)銀行は、東京銀行(現在の三菱UFJ銀行)の前身の外国為替銀行。1880年(明治13年)設立当時、外国為替システムが未確立だった日本の不利益を軽減するよう現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としていた。

 

横浜正金銀行本店建物は1904年(明治37年)に竣工。東京銀行横浜支店として使われていたが、現在は神奈川県立歴史博物館となっている。国重要文化財・史跡

 

 

旧富士銀行横浜支店は、1929年(昭和4年)に安田銀行横浜支店として竣工。その後、財閥解体により安田銀行から富士銀行に行名変更、2000年(平成12年)のみずほホールディングス傘下入りを機に2002年(平成14年)に横浜市が建物取得、現在は、東京藝術大学大学院校舎として使用されている。

 

 

旧横浜生糸検査所(現・横浜第2合同庁舎)は、震災後の1926年(大正15年)に鉄筋コンクリート構造4階地下1階の2代目生糸検査所として竣工。横浜市認定歴史的建造物

 

 

神奈川県本庁庁舎は、1928年(昭和3年)竣工の鉄骨鉄筋コンクリート構造5階、地下1階で、現在も現役である。

 

 

横浜開港資料館旧館(2代目横浜英国総領事館)は、関東大震災により崩壊した初代横浜英国総領事館を1931年(昭和6年)に復興させた左右対称で直線的なジョージアン様式の鉄筋コンクリート造3階・地下1階。横浜市指定有形文化財

 

 

日本キリスト教会(日本基督教団から分離)横浜海岸教会の現教会堂は、関東大震災後の1933年(昭和8年)に献堂された。1945年(昭和20年)の横浜大空襲の際には、当時の渡辺連平牧師が、会堂の屋根にのぼって焼夷弾による建物の延焼を食い止め、会堂を守ったと記されている。その結果、会堂は窓ガラス数枚を壊しただけで大きな被害は免れたが、1945年9月に進駐軍に接収されている。1949年(昭和24年)に宗教法人「日本基督長老教会」が設立された。日本基督教団からの離脱を経て、現在は日本キリスト教会として活動している。

 

 

旧・関東財務局横浜財務事務所は、総合商社の双日の前身会社の1である日本綿花横浜支店として1928年(昭和3年)竣工。現在は、「THE BAYS」(横浜DeNAベイスターズが運営する、スポーツを軸にした複合施設)として活用されている。

 

 

激混みの鎌倉を避けて、保土ヶ谷カトリック教会訪問前にJR保土ヶ谷駅近くで昼食を摂った。

食べログで見つけたリーズナブル食堂として入ってみたのが、「天丼 天たま家」。1,000円ほどでボリューム満点の創作天ぷら(牛肉やトマト・・・・といった変わり種)の丼を頂ける。野菜天増量無料、有償パックを買えば持ち帰りもOKと、財布にも優しい。ちょっと油が強いかな、と思うところもあるが、また食べたくなる味。機会があれば再訪したい。

 

 

【メモ】

マイナンバーカードの行政ミスの騒ぎ、マスコミやSNS議論は、一服した感じ。ある意味、ブログの更新が滞って、オワコンになってしまった。それでも、行政ミスを擁護するような意見なので、「何を言っているんだ!」とお叱りを受けることを覚悟して投稿する。

 

「日本社会を“デジタル社会”ならぬ、“デタラメ社会にする気か? 」と非難囂々。

 

多くの日本国民は、日本を“先進国”だと思っているだろうが、ことデジタルに関しては、日本は“後進国”そのものだ。マイナンバーカードは、12桁の数字で、全国民の個人識別をする壮大なプロジェクトだ。“後進国”の不慣れな役人が考え、実行するのだからノーミスな訳がない。トライ&エラーで、レベルアップするしかないのだ。それを最初から「完璧に熟せ!」などと言って、ミスを許容しないと、「何もやらない、今までのまま」となって、世界が、トライ&エラーを繰り返し、日進月歩で発展する中、日本は、“後退国”になってしまうだろう。

 

そもそも、デジタルの世界は、ベータ版のPCソフト(アプリ)が、世にリリースされるようにエラーへの許容度が高いのだ。日本は、「不完全な商品(ベータ版)をお客様に配布(販売)するなど、けしからん!」と言っていて、世界から置いていかれちゃったのだ。

 

「命に関わらないぐらいのことは、大目に見てよ!」などと言ったら、お怒りの火に油を注ぐようなものだが、世界は、もっと失敗を許容しているのだ。

 

 

旅は続く


大連の街角から 第3回 /教会巡礼

2023-06-11 11:51:49 | 旅行

2023年の記録

大連に戻ってきた日の翌日と帰国日の教会巡礼の記録

 

 

大連天主教堂を訪問した朝、空は厚い雲に覆われいたが、天主教堂にカメラを向けると、雲が動き、一瞬だけ青空が広がった。

 

 

玉光街礼拝堂は、中山広場を越えた南側に、それ以外の教会は、長江路を西に向かった方向に点在している。

 

 

玉光街礼拝堂の現在の教会堂は、1928年にイングランド国教会と日本聖公会の共同で、英国領事館の近隣の玉光街に建設された。(初代教会堂は、中山広場の英国領事館敷地内に聖公会教会として建設。)

 

第二次世界大戦後、日本の建物はすべて中国に接収され、宗教関係建築物は、他の目的に使用されるようになったが、大連聖公会は、半分が戦勝国・英国所有であったため、教会堂として残され、中華人民共和国の設立後も、玉光街礼拝堂と改名されて残った。1966年~1977年の文化大革命時期には宗教迫害が行なわれ、教会堂として機能せず、窓のステンドグラスなども壊され、子供たちの学習場として使われた。1980年代初頭から超教派の中国基督教協会の教会として礼拝が再開された。2001年大連市重点保護建築指定

 

玉光街礼拝堂は、ホテルから徒歩で15分ほどのところにあるため、真っ先に訪問した。以前、常宿にしていたビジネスホテルの目と鼻の先にあったので、何度目かの訪問であるが、外壁が塗り替えられ、鮮やかになったと思った。綺麗になったものの、歴史的な重みが軽くなったような気がする。礼拝時間外は、門が閉ざされていたため、門の外から撮影することになったのは残念。

 

 

大連天主教堂は、大連が日本の租借地であった時代に南満洲鉄道に勤めるカトリック信者を中心に教会活動が始まり、メリノール宣教会(本部は米国ニューヨーク州、東京に支部)の教会堂として完成し、1926年に献堂された。初期の外壁を模し、2013年に大規模改修している。なお、大連天主教堂は、大連で唯一のカトリック教会。建物は大連市保護建築(第1回)に指定されている。

 

 

北京街礼拝堂は、大連ルーテル教会と呼ばれ、デンマーク国教会により1914年竣工している。教会堂は、現在も1914年建設当時のままの姿をとどめ、大連市重点保護建物に指定されている。2006年に「大連市承恩堂」に改名されているが、通常は「北京街礼拝堂」と呼ばれている。

 

訪問した時は、ミサが行われていて、女性の信者さんが招き入れてくれようとしたが、僕も友人も異教徒(僕はカソリック、友人は別の会派のプロテスタント)なので、遠慮した。礼拝堂は、壁に囲まれた狭い敷地にあるため、正面からしか写真撮影ができなかったが、それは、僕の我が儘にすぎない。

 

 

大連沙河口区興工街礼拝堂は、新しく建替えられているが、教会としての歴史は長いようだ。ハングル文字が示すように朝鮮族の人たちの教会で、ハングルのミサが行われているのだと思う。中国東北部(旧満州)は、吉林省を中心に朝鮮族が少なくない。また、朝鮮族(韓国人)には、キリスト教徒も多い。帰国日の教会散策に同行してくれた友人も吉林省出身、母親は朝鮮族である。

 

 

【メモ】

中国から帰国して、多くの人から「コロナ前後で、中国の何が変ったの?」と訊ねられる。まぁ、色々あるけど、出張者がトップに掲げるとすると、「スマホ(アプリ)を持っていることが前提」になったことだと思う。確かにコロナ前にもスマホアプリの配車サービスで、クルマを呼ぶことはあった。しかし、コロナ後にアプリを使わずに空車のタクシーを見つけて乗車することはむずかしくなった。仮に乗車まで漕ぎ着けたとしても、現金支払を拒否されるか、拒否されなくともドライバーが小銭を持っていないため釣銭を放棄しなくてはならない。

 

そもそも、中国入出国時にスマホに中国海関(税関)のアプリをインストールしなくてはならない。

コロナ前は、スマホを使いこなせれば便利だったが、コロナ後はスマホを使えないと、旅行者であっても、生活できないのである。

そんな話をすると、訪中経験のあるビジネスパーソンでも、「中国には出張したくない、そもそも、中国政府のアプリなんて自分のスマホにインストールしたくない。」と言う。

 

中国の経済を支えているのは、何やかんや言っても、外需と投資だ。経済の投資依存が、中国政府にとって、リスキーなことは承知済のはずだ。外需を現在の不景気脱却の起爆剤にしようというならば、海外のビジネスパーソンが、訪中しやすい環境を作るべきなのにそれをしない。中国政府が意識してか、否かは別にして、「内需で経済を廻す、経済的半鎖国も辞さない」といった決意表明に思えてしまう。

 

 

旅は続く


大連の街角から 第2回 /人民歴史建築

2023-06-04 18:55:15 | 旅行

2023年の記録

大連の人民歴史建築街である旧ロシア人街と東関街(旧中国人街)を散策した時の記録。

 

 

ロシア風情街のメインストリート(団結街)のとば口にある錦江之星(中国のビジネスホテルチェーン)が、歴史的建築物か、否かは、定かではないが、大連芸術展覧館に負けない雰囲気がある。

 

 

大連はコンパクトにまとまった都市で、旅順口区、金州区、開発区といった郊外を除くと中心部からはクルマで30分以内である。日航飯店から旧ロシア人街までは、徒歩で10分。東関街までは徒歩35分。

 

 

遼東半島南端の旅順(軍港)と大連(商業港)を租借した帝政ロシアが、日本軍のダーリニー(大連)占領までの僅かな期間で完成した行政市街が、旧ロシア人街である。日本統治時代は、南満州鉄道関係の施設、社宅として利用されていた。

 

 

大連芸術展覧館は、ロシア風情街入口に建つ象徴的な歴史的建築物で、旧東清汽船鉄道会社事務所である。

東清鉄道南満洲支線(ハルビン~大連、旅順)は、帝政ロシアの満州支配とシベリア内陸部と不凍港旅順港、大連港接続を目的に敷設された。日露戦争後は、南満州鉄道(満鉄)として、日本に引き継がれた。

 

 

ロシア風情街のメインストリート沿いには、小洒落たロシア風の建造物がならび、土産物屋や飲食店が軒を連ねる。

メインストリート突きあたりにある広場に面して建てられた旧大連自然博物館は、改装中のため、壁に覆われ、外観さえ見ることができなかった。

 

 

団結路と烟台街の間には、旧満鉄(旧東清鉄道)職員宿舎をリノベーション(2011年着工、2013年ホテル開業)した「鉄道1896花園酒店」(別荘ホテル)がある。築100年を超える建物に見えないほど綺麗にリノベーションされ、さながらロシア風テーマパークである。職員宿舎ではあるが、建物すべてが違う形をしていて見ていて飽きない。とは言っても、以前のスラム時代を知っている者としては、ちょっと寂しい。

 

 

「タイムスリップする」 と言っても約15年前の2008年と2009年へ。

旧ロシア人街のメイン道路を散策していた僕は、いつもの好奇心からゲートを抜けて、細い路地に入っていった。華やかな表通りとは、まったく異なる世界が拡がっていた。生ごみの腐敗した悪臭のするいわゆるスラムだ。廃品回収を生業としている民工(出稼ぎ労働者)が住んでいた。いつものように子供たちのスナップを撮影し、半年後に写真を持って行ったときには、彼らはいなかったのだ。

今はスラムでも、中国国有鉄道の職員宿舎の表示が残り、歴史的な建造物であることは、すぐにわかった。

 

 

そして、2010年の暮れ、住民の立ち退きが完了した頃

いつものように旧ロシア人街のスラムを訪問すると、住民の立ち退きが終わり、解体を待つばかりといった光景が目に飛び込んできた。唖然とするしかなかった。中国の駅の近くにあるスラムは、次々と解体され、高層ビルが建設され、浄化されていくことがお決まりだ。むしろ大連は、遅い方だろう。

(その後、僕が旧ロシア人街のスラムに通っていることを知っている友人が、「解体ではなく、お洒落にリノベーションされるらしいよ。」と教えてくれた。

 

建物の周囲を囲んでいた塀が取り壊されたことで、建築物が丸見えになっていた。そんな早朝のスラムのあちこちで、黙々とスケッチをする若者がいた。

僕が 「君、大学生?」 と声を掛けると、「はい」 と答えが返ってきた。

「君の専攻は建築科?」 と続けると、「?」 といった表情をされた。

僕は慌てて、「美術かい?」 と言い換えると、

「そうです」 と爽やかな答えが再び返ってきた。

どの学生も、皆、穏やかで、物静かだった。それでいて溌剌とした、爽やかさがあった。

 

僕は消えてゆく建築物が、彼らの絵画の中で、いつまでも輝き続けるのなら、それもまた素晴しいことだと思えた。そして、僕は、静かにシャッターを切った。

 

 

メインストリートの北側にも旧満鉄職員宿舎がある。「まだ、残っているかなぁ」とあまり期待せずに向かった。幸いかつてとほぼ変わることなく残っていたが、住民の立ち退きは、進んでいるようだった。2階建ての集合住宅の造りから推測すると、戦後の新中国になってからの建築かもしれない。

 

 

銘板が示すように、中東鉄路(東清鉄道の中国名)の上級幹部住宅として、ロシア風ネオクラシック様式で1902年建築。その後は、他の東清鉄道職員住宅と同様、満鉄職員住宅として使用された。現在も民間住宅として使用されているようだが、近いうちに住人退去、リニューアルとなるかもしれない。(以前は、廃品回収業の老板=ボスのベンツが無造作に駐車していた。)

 

 

旧ロシア人街をあとにして、鉄道の在来線を跨ぐ勝利橋を渡る。跨線橋からは、大連客車整備庫を眺められる。中国の鉄道は、基本的に超長編成だ。

 

 

東関街は、かつては小崗子と呼ばれ、大きな市場や繁華な商店街があり、中国人(漢族、満族)を中心とした街で、最盛期は12万の人口を抱えていたという。建物は2、3階建ての洋風や折衷様式のものが多い。

 

 

東関街は、常宿にしていた民航大廈の近くにあったので、しばしば散策していた。旧ロシア人街とは、ちょっと異なる趣きだったが、民工の人たちが住み、スラム化したところは、旧ロシア人街と同じだ。

その東関街の再開発が始まったと聞き、どんなことになっているのかを見に行った。(2017年期限の住民立ち退きは、決まっていたらしい。)

旧ロシア人街のときと同じく、安全鋼板で囲われ、修復作業が進められていた。良くも悪くも、僕の記憶にある歴史と現代の貧困が混在した猥雑さは、浄化されてしまうのだろうな。

 

 

再び約15年前にタイムスリップ

 

2009年、多分、初めて東関街を散策した頃の記録

 

2010年の記録

 

 

現在の大連の路面電車(大連公交客運集団)は、1909年(明治42年)に南満州鉄道電気作業所の運営で軌道事業を開始している。さすがに開業当初の車両は使っていないが、戦前の1937年(昭和12年)導入の日本車輌製造製の車両が、車齢86年の今も現役で活躍している。

 

 

【メモ】

大連の友人(漢族)と食事をしていた時、「もう少し日本が、(日中戦争で)踏ん張ってくれていたらなぁ」 と妙なことを言った。

 

友人曰く、「旧満州から日本が撤退していなければ、中国東北3省(旧満州の大半)は、日本の一部になっていただろう。日本の人口は、約1億人。東北3省の人口も約1億人。日本は、民主主義だから中国人の立場は守られるだろう。中国の改革開放まで、東北3省は、工業の先進地域だった。それは、日本が残していった工業施設や技術の蓄積があったからだ。しかし、その貯えが尽きると、中国の成長から取り残されてしまった。もし、東北3省が日本の一部になっていたら我々は、もっと自由に、そして豊かになっていただろう。」

 

友人の話を聞いた時、高校時代の教師の言葉を思い出した。「戦後、アメリカの占領のまま、日本が、アメリカ51番目の州になっていたら・・・・・・。」 当時のアメリカの人口は、約2億4千万人、日本は、ほぼ半分の約1億2千万人。日本がアメリカに併合されていれば、アメリカの人口の1/3を占め、日本人が世界を動かしていたかもしれない。

 

現代の国際関係を見ていると、「最後は、国土と人口の絶対値の大きさなのかな」 と考えてしまう。

歴史に“If”はないけどね。

 

 

旅は続く