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山形県米沢市 秘湯の立寄り湯 滑川温泉と姥湯温泉

2025年02月10日 08時42分03秒 | 山形県

滑川温泉・福島屋。山形県米沢市大字大沢。

2024年9月16日(月)。

 

道の駅「米沢」で起床。本日は、山形県旅行最後の目的地である米沢市南東山間部の秘湯滑川温泉と姥湯温泉への入湯である。滑川温泉へは、国道から抜けて、約8km山道を走ることになるらしい。姥湯温泉はさらに奥である。登山口へのアクセス道路みたいなものなので慣れてはいるが、離合困難な箇所があるらしく、対向車が慣れているとは限らない。三連休の最終日なので、平日よりは多いとは予測。

滑川温泉への標識から狭い道路へ入って2台と対向した。事前に対向車を見つけたので路肩で待ってやりすごした。

滑川温泉・福島屋の駐車場に8時30分ごろ到着。宿泊客の駐車でほぼ満車だったが、スペースはあった。立ち寄り湯は9時からで、料金は600円

入浴可能なのは、内風呂と露天風呂の2か所。

日本の滝百選の滑川大滝へは、旅館の中を通ってアクセスすることになっており、通行料が必要になる。登山装備の女性グループが2団体ほど登山靴を脱いで旅館の廊下を通り通過していった。露天風呂からは、大滝へ向かう登山客が見える。

石造りの混浴内風呂。

桧の露天風呂。

 

9時45分ごろに入浴を終え、姥湯温泉へ向かった。

姥湯温泉・桝形屋。米沢市大沢姥湯。

姥湯温泉の駐車場へは10時ごろ着いたが、旅館へは300mほど坂道を登ることになる。

受付前から駐車場方向を見下ろす。

受付で700円支払い、さらに歩いて露天風呂エリアへ向かう。

奥に露天風呂エリアの脱衣所がある。岩風呂は上と下にあり、裸足で往復することになる。

 

11時ごろに駐車場を出て、国道に戻り、12時ごろに道の駅「福島」に着いた。夕方に、道の駅「古河」に着き、車中泊。17日は東京と神奈川の2か所に立ち寄り、道の駅「清川」で車中泊。18日に名古屋へ帰った。

山形県長井市 小桜館(旧西置賜郡役所) 旧長井小学校第一校舎


山形県長井市 小桜館(旧西置賜郡役所) 旧長井小学校第一校舎

2025年02月09日 07時44分47秒 | 山形県

小桜館(旧西置賜郡役所)。長井市指定有形文化財。山形県長井市高野町。

2024年9月15日(日)。

 

南陽市の国史跡・稲荷森古墳を見学後、北西に向かい、降りしきる雨の中、文教の杜の一角にある小桜館に着いた。

旧西置賜郡役所は、現在の長井市・白鷹町・飯豊町などの西置賜郡を取りまとめる役所として、1878(明治11)年11月に初代山形県令三島通庸の命により建てられた。

様式は、欧米の建築構法を取り入れながら日本の棟梁が作った「擬洋風」造りである。

山形県には郡役所が11棟建てられたが、現在残っている6棟のなかでは山形県で最古、全国でも福島県郡山市の開成館(旧安積郡役所)に次いで2番目に古い。

旧西置賜郡役所の現状は、木造一部2階建。1、2階とも寄棟造、トタン葺。1階桁行15間、梁間4.5間、建築面積69.6坪。

外装の壁は全面ペンキ塗りのイギリス式下見板張り。1、2階とも隅に隅柱。軒周りには歯飾りとよばれる直方体の装飾部材である「ディンティル」、軒蛇腹。基礎は外周に布石基礎2段積み、床下は野面石に束立とし、基礎の上に土台。壁は大壁造。小屋組は1、2階とも真束小屋組。

玄関周りは、石製ベースの上に大面取り角柱。窓は額縁付で、一ヵ所のみ上げ下げ窓が残っていた。バルコニーのついた神社のような玄関ポーチ左方に庇付きの出入り口があり、庇の持ち送りに社寺風の意匠が取り入れられている。

庇の持ち送りに社寺風の意匠が取り込まれている。

内装は、床板張(斜め張り)。幅木。漆喰塗りの天井蛇腹。天井の一部に紙張りの跡が残り、紙張り天井であった。壁は、木摺(す)り下地漆喰塗壁。

2階正面中央の開口部にファンライト(扇形の窓)の色ガラス

明治初頭、現在の山形県はには山形・置賜・酒田の各県が置かれた。また、各県には大区・小区が置かれ、置賜県には六つの大区と28の小区が配された。その後明治9年8月、置賜県は山形県として合併、このとき大区・小区も再編された。現在の長井市の大部分が該当する第九大区小十区に区役所を設けることになったが、その建設費は、ほとんどを地元が拠出するというものであったため、建設位置を含めて各村の思惑が絡み合い、着工までには数年の時間を要することになった。

明治11年7月、郡区町村編成法が発布されると、この長井市付近一帯は西置賜郡に合併され、郡として役所を建設することとなった。そのため、この段階まで着工していなかった第九大区小十区役所建設を郡役所建設に振り替えることとし、明治11年11月、県内の郡役所としては最も早く、西置賜郡役所が、かつて小桜城があったとされる高台で水はけが良い町の中心地に建てられた。建築費用3千5百円は西置賜郡46ヵ村で調達した。

その後、明治22年4月施行の町村制を経て、大正12年4月の郡制廃止まで、隣接する郡会議事堂(明治22年新築、明治44年10月改築)とともに、西置賜郡の行政の中心となった。

郡制廃止後は大正12年4月に長井土木出張所がおかれた。昭和17年から西置賜地方事務所となり昭和57年まで使用されていた。昭和57年以降は建設省東北地方建設局長井ダム工事事務所や民俗資料等収蔵施設倉庫となったが、平成に入ると歴史的建造物の利活用が求められる時代となり、周辺環境とともに復元工事が行われ、市民の公募により「小桜館」と名を改めて2010年から市民の文化・芸術の場として利用されている。

2003年より翌年にかけて改修工事を実施した際、正面広場の土壌から、当時(明治11年頃)施工されたと思われる石畳が発見されたが、石畳は地下に埋め戻された。

旧長井小学校第一校舎。国登録有形文化財。長井市ままの上。

小桜館から道の駅「長井」の方向へ向かうと、長井市役所に隣接して旧長井小学校第一校舎がある。

切妻造桟瓦葺で、幅 92.82m(東西方向)、奥行 10.92m(南北方向)とする東西に長い木造総2階建の学校建築。切妻造妻入の正面玄関を中心とする左右対称の外観とし、階段など内部の造作もよく残す。

昭和8年(1933年)建築で、鮮やかな赤味の外壁建物中央にある大階段舟底天井の長い廊下が特徴的である。大規模な木造校舎は全国的にも珍しく貴重な歴史的建造物である。

2015年(平成27年)まで現役の校舎として活躍したのち、耐震工事を兼ねたリノベーションを行い、2019年「学び」と「交流」の拠点としてオープンした。

中央階段

舟底天井の長い廊下

このあと南へ向かい。川西町の下小松古墳群と天神森古墳を見学しようとしたが、前者は雨とクマのために、後者は位置が分からず見学できなかった。

暗くなりかけたので、道の駅「米沢」へ向かった。翌日は、米沢市の滑川温泉と姥湯温泉入湯である。

山形県南陽市 国史跡・稲荷森古墳 山形県最大 日本海側内陸部最北


山形県南陽市 国史跡・稲荷森古墳 山形県最大 日本海側内陸部最北

2025年02月08日 07時24分52秒 | 山形県

国史跡・稲荷森古墳。山形県南陽市長岡稲荷森。

2024年9月15日(日)。

 

山形市の芋煮会で芋煮を食べたあと、時々激しくなる雨の中、南へ進んで南陽市の赤湯温泉へ向かった。赤湯温泉の公衆浴場は烏帽子湯が120円、赤湯元湯が240円で、赤湯元湯に行くことにした。温泉街の目抜き通りは工事中で、場所が分からなくなり、付近を探して道路沿いの駐車場に駐車した。道路から50mほど入った場所になるので目立たない。受付で料金を払おうとすると、祭りの日なので無料だった。浴場は2階にある変わった温泉だった。湯質はとりたてて普通である。

その後、南へ進み、人家が少ない地区に入ると、稲荷森古墳が整備された状態で現れた。

稲荷森古墳は、墳丘長約96mの大型前方後円墳で、山形県では最大、東北地方では第7位の規模の古墳で、大型古墳としては日本海側内陸部で最北に位置する。4世紀末(古墳時代中期初頭)頃の築造と推定されている。

最上川を遡った内陸部に米沢盆地がある。この地域は、古くは置賜郡として陸奥国に属し、出羽国の成立とともに出羽国に属したもので、福島県・宮城県方面との文化的交流も深く、弥生時代中期以降の農耕文化を示す遺跡や横穴式石室をもつ古墳群の存在も知られていた。この盆地の東北方に当たる平野部にある低丘陵を利用して営まれた前方後円墳が稲荷森古墳である。

この古墳は、西南方に向かって連なる小さな低丘陵の一つを利用し、前方部を南々西・米沢盆地中央の方角に向ける。後円部の東北方には丘陵が遺存する。この付近は古墳時代中期ころ(南小泉式期等)の集落跡となっている。

墳丘は半ばは丘陵を利用し、その上に盛土したものである。後円部の3段のうち、1段目はかなり高くほぼ地山から成り、2段目・3段目は版築から成る。

墳丘は後円部が3段築成、前方部が1段築成で、旧状を良好に遺存する。墳丘長は約96mを測る。墳丘外表で葺石・埴輪は検出されていないが、墳丘内部から土師器が出土している。また周濠も存在していないが、墳丘の周囲一定範囲にテラス帯が認められている。埋葬施設は未確認で明らかでないが、一説には石室を持たない木棺直葬と推測される。

墳形および出土土師器を基に4世紀末頃(古墳時代中期初頭)の築造と推定されている。本古墳の築造以前には米沢市域・川西町域・南陽市域の3地域で前方後方墳を主とする古墳(天神森古墳・宝領塚古墳など)が営まれていたが、稲荷森古墳によってそれら3地域が統合された様相を示すため、稲荷森古墳はそれらを統合した首長(置賜地方の王)により記念碑(象徴)的に築造されたものと考えられている。しかし稲荷森古墳に続く首長墓はなく、置賜地方の中心地は米沢市域に移ったとされる。

墳丘長は約96m。後円部は3段築成で、直径約62m、高さ約9.6m。前方部は1段築成で、長さ約34m。高さ約5m。墳丘は、後円部に比べて前方部が低く短い「銚子式(銚子形)」という古相の形状を示す。

調査により葺石の一部や後円部築成前に破砕された土師器の脚部が検出されている

 

強い雨が続いていたので、水溜まりも多く、墳丘には登らなかった。

このあと、北西にある長井市の小桜館(旧西置賜郡役所)へ向かった。

山形市 日本一の芋煮会フェスティバル


山形市 日本一の芋煮会フェスティバル

2025年02月07日 08時51分58秒 | 山形県

日本一の芋煮会フェスティバル。山形市緑町。馬見ヶ崎川河川敷。

2024年9月15日(日)。

 

本日は、山形市の河川敷での芋煮会である。毎年全国ニュースで放映されるので、是非とも体験したかった。2023年9月に山形旅行の計画時点で思いついたが、9月第3日曜日という暑いなかの開催日に決断できず日程調整のため1年遅らせることにし、代わりに新潟県を旅行した。

芋煮の引換券は、「teket」による事前予約制または当日券だが、7月6日に第1回目の9時30分券を当日券より100円安い500円で購入しておいた。

天童市の道の駅で起床。駐車場を山形県庁にしようか、霞城公園にして商工会議所からの無料バスを利用しようか迷ったが、北の山形ビックウイングにした。天候は予報通り雨になったが、仕方がない。

7時過ぎに、山形ビックウイングに着いたが、まだ誰も参加客がおらず、シャトルバスの発着所に近い場所を見つけることに苦労したが、発着所を設営しているスタッフに確かめた。

バス待ち列の先頭を確保しながら、傘だけでなく、ノースフェイスの雨具も用意した。

8時のバスに乗車し、15分ほどで着いたが、会場近くの県庁や商工会議所からは10分で着くので、それ以外の方法で会場に来た人も合わせて多くの人ですでにあふれていた。

係員に場所を尋ねながら9時30分の第1回目用のテントに着いた。テントは本来熱中症対策用だが、雨天用になるとは考えていなかっただろう。足元は芝生なので水溜まりができかけている所もあった。

大鍋の煮込み所と配膳所。準備状況は、雨の止み間に見ることができた。

配膳所。高校生のボランティアがいる。

9時20分ごろステージで来賓の挨拶があり、アトラクションが始まった。

川の仮設橋を渡った向こう岸には、展示ゾーンや屋台ゾーンがある。川は増水しないらしい。

9時38分ごろ、ようやく受け取りの順番が来た。

芋煮と七味。ちょうど雨が止んでいたので助かった。美味い。

大鍋の中味。

大鍋に水・里芋・こんにゃくを入れ、薪に点火し、沸騰するまで約1時間半。そこから山形県民にはおなじみのいつもの行程で、醤油・砂糖・かくし味の日本酒を入れ、牛肉とネギを順次投入しながら、じっくりと大鍋で煮炊きしていく。調理時間はおよそ4時間

フェスティバルで用いるサトイモは県内産でまかなおうと、9月に収穫できる品種の栽培も行われている。現在では、砂糖以外の食材はすべて県内産のものを使用している。

なお、山形県村山地方、最上地方、置賜地方は「牛肉しょうゆ味」、庄内地方は「豚肉みそ味」である。

日本一のスケールで調理される芋煮。大鍋と重機で、約30,000食分を超える食材を一気に調理する。

調理する際には、大鍋に対応して大型重機(バックホー)専用大型調理器具を用いるなど大掛かりとなる。人の口に入る食べ物を作るため、大型重機は工事現場で使われたことがない新品に芋煮会専用のステンレス製バケットを使用し、油圧作動油や潤滑油にも食用油脂を用いており、衛生上問題が起きないよう配慮されている。

日本一の大鍋として、初代は直径5.6メートルの大鍋が制作され、それから3年後、1992年の第4回目には一回り大きい直径6メートルの二代目大鍋が作られた。そして、2018年に第30回目のフェスティバル開催を記念して、クラウドファンディングを実施、全国的に協力を募り、直径6.5メートル・重さ4トンの「三代目 大鍋・鍋太郎」が誕生した。

大鍋「鍋太郎」は、保管場所からの運搬、会場での設置、調理、撤去作業、洗浄など、すべての作業に10トンクレーン車が必須で、調理中の蓋の開け閉めもクレーンを使って行う。

バックホーの大型バケットが「ひしゃく」に変わり、バックホーを駆使して美味しい芋煮を盛り付ける。

雨が激しくなってきたので、9時50分過ぎにはバスに乗って、山形ビッグウィングへ戻った。

 

そのあとは、南へ向かい南陽市の赤湯温泉へ向かった。

山形市 裏・山寺「峯の浦・垂水遺跡」 村山市・最上徳内記念館 寒河江市郷土館・寒河江城跡


山形市 裏・山寺「峯の浦・垂水遺跡」 村山市・最上徳内記念館 寒河江市郷土館・寒河江城跡

2025年02月06日 08時13分43秒 | 山形県

最上徳内記念館。最上徳内の胸像。山形県村山市中央。

2024年9月14日(土)。

 

河北町の道の駅で起床。翌日の山形市芋煮会に合わせて行程を調整したため、本日は余裕があったので、準予定地であった最上徳内記念館をまず見学した。9時に入館し、1時間ほど滞在した。室内は撮影禁止であったので、北海道を模した島がある庭園に置かれた最上徳内の胸像と移築された市内の古民家を撮影した。

最上徳内(1755年~1836年)は村山市楯岡出身で、江戸時代後期の北方領土探検家である。江戸幕府の蝦夷地検分隊の一員として蝦夷地(北海道)に赴いたのが最初で、その後、択捉・国後などの北方諸島を含めて生涯で9回も訪れ調査をおこない、探検家として高い評価を受けた。この偉大な業績を後世に伝えていくため1993年に開館し、書物・測量器・北方の地図・択捉島に建立した標柱などの資料を展示している。

最上徳内は、農業のかたわらたばこ栽培を営み、青年期には隣町谷地の津軽屋に奉公し、仙台・南部・津軽まで行商に出かけた。そのころに、「蝦夷一円、本朝開闢以来人倫の教導なしと聞いているが、願わくば一度かの地に入り、かの土人に本朝農民のごとくに耕作の諸事を教え蝦国を上国の風に習わしたい。」と語り、二十歳の時、東にそびえる甑岳に登り武士となる決心をしたという。

天明元年(1781)江戸に出た徳内は、たばこ屋に奉公しまもなく幕府の医官山田宗俊(図南)について医学を学び、その後、徳内の生涯の師となる本多利明の音羽塾に入門し、天文、測量、航海術を学んだ。

天明4年(1784)幕府内では、ロシアの南下対策として蝦夷地の開拓と交易を目的とした蝦夷地検分・蝦夷地開拓の議が持ち上がり、老中田沼意次は蝦夷地探検隊を組織し、天明5年(1785)山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎・皆川沖右衛門・青島俊蔵の5人の普請役を蝦夷地に派遣することとなり、俊蔵と親しかった本多利明も参加することになっていたが、急病のため利明の代理として最上徳内が、竿取りという身分で参加した。これ以後1809年まで9回の幕府蝦夷地探検に従事した。

天明6年(1786)の探検で徳内は、単身エトロフ島に渡り、滞在していたロシア人から千島が列島であることや欧州地誌を教えられた。徳内はウルップ島の最北端まで渡り、日本で最初にウルップ島に渡海した人物となった。

寛政10年の蝦夷地探検では、幕府が蝦夷地を直轄地にするため、近藤重蔵が隊長となりクナシリ島からエトロフ島を回り渡海した徳内と重蔵一行は蝦夷舟でエトロフ島に上陸し「大日本恵登呂府」の標柱を建立した。歴史上初めてとなるエトロフ島までの日本領土宣言であった。

晩年徳内は、長崎から江戸参府としてオランダ商館長に随行してきたオランダ商館医師シーボルトに出会い、会談の中で、日本・支那・西洋の数学やアイヌ民族の風俗・カラフトの地図などを渡した。徳内は数十日間シーボルトとアイヌ語の共同編纂を行った。後にシーボルトは「尊敬すべき老人」「尊敬すべき老友」「今世紀における最も卓越した探検家」と高く評価した

徳内は天保7年(1836)浅草の田原町で82歳の生涯を閉じた。彼の墓は現在、本郷駒込蓬莱町の蓮光寺に葬られており東京都の指定文化財となっている。

山寺芭蕉記念館。山形市山寺字南院。

俳人松尾芭蕉は元禄二年(1689)『おくのほそ道』行脚の途上、出羽国山寺を訪れ、名句「閑さや岩にしみ入蝉の声」を詠んだ。

予定地の一つだったが、旅行前に調べたら空調改修工事に伴い8月30日から11月1日まで休館だったので、往路は山寺に立ち寄らなかった。帰路は時間があったので、とりあえず現地に行くことにしたが、やはり、休館であった。

山寺(宝珠山立石寺)を眺めるビューポイントではあった。

裏・山寺。峯の浦。垂水遺跡。蜂の巣状の岩肌と鳥居の造形美。山形市山寺千手院。

「山寺」は山形県を代表する観光地のひとつであるが、さらに奥地に”裏・山寺”と呼ばれるエリアがあることを「るるぶ」で知った。山寺は既に1990年代後半に登っているし、心臓病患者の私には辛いのでパスした。

裏・山寺は正式名称を「峯の浦」といい、かつて山寺を開山した慈覚大師円仁が山寺の構想を練った場所といわれている。裏山寺では、1千年以上にわたり、僧侶や苦行者が、峯の浦として知られる山寺の先で瞑想し、修行をしてきた。

入口は千手院観音堂の境内下にあり、数台が駐車できる。人気があるエリアなので土曜日でもあり数十人の入山者を見かけた。

鳥居をくぐって階段を登ると、仙台と山形を結ぶJR仙山線の線路が目の前に現れる。

階段を上ると千手院観音堂の左に茶店があり、トイレもある。

千手院観音堂の右に、峯の浦の全体MAPが書いてある看板がある。看板の隣には協力金箱が設置されている。観音堂の右から入山する。

千手院観音堂を出て森の中の登山道を20分近く登っていくと、蜂の巣状の巨大な岩肌と鳥居の造形美が目の前に現れて、垂水遺跡に着く。

垂水遺跡には、水の浸食によって形成された、蜂の巣状の穴がたくさんある巨大な岩壁がある。

中には、古峯神社の鳥居と稲荷神社が立っている。

少し右奥に行くと、円仁宿跡というほら穴のような場所に行き着く。円仁とは、山寺を開山した慈覚大師のことである。大正時代までは、修験者がこの円仁宿跡に訪れていたという。

近くの割れ目には、不動明王が祀られている。

蜂の巣のような小さな穴が集まる大きな岩の割れ目には、修験跡や五輪塔窟などの遺跡も残る。

散策路をさらに左奥へ進むと城岩七岩と呼ばれる7つの岩が並んでおり、城岩七岩の先では、特徴的な岩に囲まれた神道の特別な祭事に使われていたと考えられる広場に出るというが、クマ注意の看板と歩行の疲れにより立ち入ることはせずに、往路を戻った。

駐車場からの往復見学時間は1時間ほどであった。

寒河江市郷土館。旧西村山郡役所。山形県指定有形文化財。寒河江市寒河江字長岡丙。

4月第2土曜日から11月第2日曜日までの土、日、祝のみ開館。

擬洋風建築の旧西村山郡役所と旧西村山郡会議事堂は、寒河江公園内の西側に「寒河江市郷土館」として移築復元され、地域の歴史や当時の文化を語り継いでいる。旧西村山郡役所では、郡制時代における西村山郡の政治や経済、文化をテーマとした展示が、また郡会議事堂では西村山郡内で出土した縄文土器や石器などの考古資料の展示が行われている。室内は撮影禁止である。

旧西村山郡役所は、木造2階建、両翼1階建で、面積は319.7㎡の建物である。玄関には洋風の建築柱やバルコニーを施し、窓はバロック風ガラス窓(ファンライト)で、屋根は銅板葺きになっている。玄関ポーチ付近の細部装飾や、軒蛇腹などの細部装飾は意匠的価値がある。内壁は和紙貼りで、寄棟造りの和洋折衷様式である。

1878年(明治11)、太政官布告による郡区町村編制法の公布に伴い、幕末の代官所があった寒河江村南町に西村山郡役所が建てられた。

同年8月10日には建築棟梁を任命し、12月4日に落成、12月7日に開庁するという、驚くべき速さで工事が進められた。この建築は、地元寒河江の棟梁富樫伊久助が中心になって施工された。

竣工当時は、西村山郡の郡役所として、その後寒河江町役場や西村山地方事務所として利用された。

現存する郡役所建築としては、全国でも3番目に古い。

旧西村山郡会議事堂。山形県指定有形文化財。

旧西村山郡会議事堂は、木造2階建、寄棟造、銅板葺で、正面に玄関及び脇玄関ポーチを取り付けた、面積147.8㎡の擬洋風建築である。明治19年(1886年)8月末竣工。竣工当時は西村山郡の議事堂として郡役所の隣に建設されたが、旧制寒河江中学校(現・寒河江高校)校舎本館や本郷村(現・大江町の一部)役場庁舎として移転を繰り返した。

この建物は、現存する郡会議事堂では国内最古のもので、同郡役所と一組で存在している点でも、たいへん貴重な遺構である。

寒河江公園つつじ園(展望広場)。

11種類約4万3千株のつつじを有する東北最大級のつつじ園からは山形盆地と蔵王を一望できる。

寒河江城跡。寒河江市丸内。

現在の寒河江城のある地域(寒河江市丸内)に最初に館を建てたのは源頼朝の要請により鎌倉幕府公文所(のち政所)の初代別当となった大江広元嫡男大江親広であったとされる。大江氏は古代豪族土師氏の後裔で、菅原道真が出た菅原氏と同族の学者の家系である。広元の四男季光は長州藩主家・安芸毛利氏の祖である。

大江親広は承久3年(1221年)承久の乱において後鳥羽上皇の側に付き、敗れると寒河江荘に潜居したという。鎌倉を離れ現地を直接治めるようになったのは5代元顕のときからである。

寒河江城を城として整備したのは寒河江大江氏として初めて寒河江氏を名乗った8代寒河江時氏とされる。築城年代は南北朝時代末期から室町時代初期にかけてであり、当初は方形単郭の平城であった。その後二の丸・三の丸が築造され、天文3年(1534年)までには三重の堀を持つ連郭式平城となった。

この時の規模は、本丸:東西110m南北180m、二の丸:東西250m南北330m、三の丸:東西400m南北550mというもので、寒河江城を中心として城下町が形成されていた。

天正2年(1574年)最上氏の内訌である天正最上の乱に巻き込まれた寒河江氏は、天童氏・白鳥氏・蔵増氏・野辺沢氏、さらには同族の白岩氏・溝延氏・左沢氏により攻められ、本丸を残して攻め崩されてしまう。

天正12年(1584年)6月最上義光が寒河江城攻撃の態勢を整え押し寄せると、寒河江氏家来衆は態勢を立て直す余裕もなく最上氏に下り、18代当主の寒河江高基は御館山(現・大江町)で自害し、寒河江氏嫡流は滅んだ。

その後、寒河江城は最上義光の直轄地となったが、文禄年間(1592年~1596年)嫡男最上義康に与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い・慶長出羽合戦では城主義康が伊達氏の救援要請や米沢からの上杉軍主力との対決のため留守にし、長崎中山氏(藤原北家花山院流)が守る城は庄内上杉軍によって攻め落とされたが、関が原の敗報に触れた庄内上杉軍は寒河江城から引き上げた。

慶長7年(1602年)頃から弟家親が城主となり、慶長14年~15年(1609年~1610年)頃家親が山形城に移ると、旧寒河江氏家臣の寒河江肥前が2万7000石で在城した。慶長19年(1614年)最上義光が病死し寒河江肥前が殉死すると最上氏蔵入り地となった。

元和8年(1622年)に最上氏が改易になると山形城主鳥居忠政の預かりとなるが元和9年(1623年)から翌寛永元年(1624年)にかけて本丸を残して廃城とされた。

現在は跡地の大部分が寒河江市立寒河江小学校および住宅地となっており、わずかに石碑と堀跡を残す。

 

このあと、翌日の芋煮会に備え、天童市の道の駅へ向かった。

山形県河北町 紅花資料館