林泉寺(りんせんじ)。山形県米沢市林泉寺。
2024年9月6日(金)。
旧米沢城本丸跡から南西方向に移動。林泉寺の駐車場に到着。受付小屋へ行くと、境内拝観100円、堂内拝観300円。境内拝観を希望し、障害者割引を尋ねると無料になった。司馬遼太郎の「街道をゆく」にも直江兼続の墓を参拝したことが記されており、必須の見学場所である。
受付の人から境内案内図をもらうと、大体の順路を教えてもらった。
林泉寺は、曹洞宗の寺院で山号は春日山(かすがさん)。米沢藩上杉家の菩提寺であり、また同藩士直江兼続の菩提寺でもある。江戸時代初期に上杉家が移封先の米沢城下に建立した。関ヶ原の戦いの後に米沢に移った上杉景勝の実母(上杉謙信の姉、長尾政景の妻)仙洞院が元和3年(1617年)に越後春日山城下の林泉寺14世・万安大悦を招聘して同号の寺を建立した。
林泉寺は、藩主上杉家の菩提寺として尊崇された。また、歴代藩主の墓は廟所が別個に造営されたために寺内には設けられなかったものの、藩主の正室や子女の墓が安置されるとともに上杉家代々の菩提寺であったことから米沢藩内では大きな影響力を持ち、寛文4年(1664年)には当時米沢藩を構成していた3郡(置賜・信夫・伊達郡)の僧録に任じられ、藩内の全ての宗派・寺院に対して統制を加えることが可能であったと言われている。
寛永14年(1637年)、絶家となっていた重臣直江氏の菩提寺であった徳昌寺と僧録の地位をめぐって争った結果、徳昌寺は廃絶となり住職は越後時代の所在地である与板(新潟県長岡市)に追放された。徳昌寺の寺域は林泉寺に併合され、米沢藩は徳昌寺にあった直江兼続夫妻の墓を林泉寺が管理することと決めた。このため、林泉寺は兼続夫妻の墓を林泉寺内に改葬した。
伽藍は越後林泉寺の古規にしたがい元和5年(1619年)に境内整備を完了した。享保17年(1732年)の火災により伽藍の大半が焼失したが、その後元文5年(1740年)に再建され現在に至っている。
現在の林泉寺境内には仙洞院、武田信玄の娘で景勝正室の菊姫をはじめとする歴代藩主の夫人、菊姫の弟で上杉家に仕えた武田信清などの上杉家の子女・縁者や、分家である米沢新田藩の歴代藩主、米沢藩重臣の墓がある。また上杉治憲(鷹山)側室お豊の方の墓も林泉寺境内に設けられている。
歴代藩主の夫人たちが眠る上杉家の墓所は塀で区画されている。のちほど見学。
武田信清の墓。
武田信玄の六男。米沢武田家の初代当主。永禄10年(1567年)、信玄の命により巨摩郡加賀美(南アルプス市加賀美)の法善寺に入り、玄竜と号した。後に兄・勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の旧族である安田氏の名跡を継承し安田信清と名乗り、海野城主となる。
天正10年(1582年)3月の織田信長の甲州征伐による武田氏の滅亡後、高野山無量光院に逃れる。同年、上杉景勝の正室となっていた異母姉・菊姫の縁を頼って上杉氏に寄寓し、3000石を与えられた。会津時代には3300石を賜る。米沢藩時代には、藩主親族、高家衆筆頭として遇され、1000石を領した。寛永19年(1642年)80歳(もしくは83歳)で死去。
信清の墓は、本堂の南側に位置する武田家墓域の中で最大の五輪塔である。高さ2.3メートル。一番下の地輪の一辺は0.77メートルと大きく、各輪に禅の公案である「祖師西来意」の5文字を刻んでいる。
直江兼続夫妻の墓。
直江兼続は、初め樋口与六といい、永禄3年、越後魚沼郡上田庄坂戸城に生れた。父は同城主長尾政景の長臣樋口惣右工門兼豊で、母は山東郡与板の城主で直江大和守親綱の娘。天正9年(1581年)に直江家を継いで山城守兼続と称した。
兼続は幼少より才気群を技き、上杉謙信・景勝の信任が厚く、数十年の間藩政を一身に統括した。慶長3年に景勝が会津120万石を領した時、兼続は米沢6万石を領し、諸侯としての待遇を受けた。
慶長5年、関ケ原の戦いで西軍が敗れ、同6年上杉家は120万石から米沢30万石に移封となった。
兼続は風采堂々、躯幹長大、弁舌爽やか、かつ博学多識で、殊に文を好んで詩歌をよく詠み、天文地理・軍学・経済学等、皆達しないものはなく、米沢における学問は兼続に発したといわれる程で、身を保つことも謹厳、また、その才略は実に雄大で、米沢城市の建設、荒蕪地の開拓、さらには水利の疏通、産業の開発、学問の興隆等、まさに直江は米沢開拓の大恩人といわれる。
元和5年12月19日、江戸鱗屋敷において60才にて逝去した。将軍秀忠より香奠として銀七十枚を賜わった。
兼続は生涯、側室を持つことがなかった。兼続の死後、兼続の息子の早世や本多政重(後に加賀藩前田家家老5万石)との養子縁組の解消などが原因で、直江家は断絶した。「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に意図的に兼続が直江家を断絶させたとする説がある。
お船の方。
越後与板の城主、直江大和守景綱の娘。初め与兵衛信綱に嫁したが、信綱の逝去後、直江兼続に再嫁。その人となりは、賢明にして胆力があった。63才の時、夫と死別し薙髪して貞心尼と号した。
以後禄3千石を受け、寛永14年江戸鱗屋敷において81才にて逝去した。
兼続の死後、再び未亡人となったお船は養子を迎えなかったため、お船の死を以って直江宗家は断絶した。
会津夫人媛姫(はるひめ)の墓。
会津若松藩主、保科正之(徳川秀忠の子)の娘。承応3年四代綱勝公と縁組、4年目万治元年、19才にて逝去。その6年後、寛文4年に藩主綱勝が夭折した。しかし、老中職であった保科正之の力添えによって、半知15万石を領しお家存続となった。
鷹山側室お豊の方の墓。
米沢藩中興の祖と仰がれる十代鷹山の側室。五代綱憲の子勝延を父に、寛保元年1月17日米沢に生れた。明和7年、治憲公の側室となった。
正室幸姫(九代重定の娘)は天明2年、32才で逝去。その後は正室に代る賢夫人として有名。
また、麗之(れいし)と号し文学詩歌等にも秀で、恭順貞淑にして琴瑟相和して藩政改革に内助の功実に偉大であった。文政4年12月17日米沢において逝去。
仙洞院の墓。
上杉謙信の姉で、長尾政景に嫁して二代景勝(政景二男)を生んだ。慶長14年2月15日、米沢城二の丸において82才にて逝去。
越後、会津、米沢と激しい転封によって財政緊迫となっていたが、米沢に林泉寺を建立することに尽力したことから、林泉寺中興開基と称している。
法名 仙洞院殿知三道早首座。
甲州夫人菊姫の墓。
武田信玄の四女で、天正6年二代上杉景勝と縁組、非常な賢夫人であった。慶長9年2月16日伏見邸において47才にて逝去した。始めは、京都妙心寺中亀仙庵に葬られ、後に林泉寺に改葬された。
法名 大儀院殿梅岩周香大姉。
上杉駿河守勝周の墓。
上杉勝周(かつちか)は、米沢新田藩の初代藩主。元禄9年(1696)9月10日生、童名は千之助。五代綱憲公の子(四男)で、麻布様と称した。享保4年(1719年)、兄・吉憲から1万石を分与されて米沢新田藩を立藩した。米沢新田藩の江戸藩邸(上屋敷)が麻布にあったので「麻布様」と呼ばれた。
なお、米沢新田藩の江戸藩邸は宗家米沢藩の中屋敷の一部を与えられたものである。また、藩主は支侯とも呼ばれた。享保7年(1722年)に兄が死去して幼年の宗憲が家督を継ぐと、その後見役を務めた。享保8年(1723年)に鍛冶橋門番や駿府加番を勤める。
延享4年(1747)7月2日52才にて逝去。
米沢新田藩の藩主は代々駿河守を称し、駿府城加番役を務めた。米沢城内に新田藩の役所や藩主御殿があり、特定の領地や城地を持たないだけでなく、支配機構や財政、家臣団、居住地、さらには後継者まで全て宗家の米沢藩に依存しており、江戸幕府の御三卿にかなり近い藩内分家であった。
明治維新後、米沢藩内部では、明治2年中に米沢新田藩を谷地藩 (やちはん)と改称した。
このあと、近くにある旧米沢高等工業学校本館の見学に向かった。
ました。私のご先祖は第4次川中島の戦いで
武田本陣の右翼を守った浅利の家臣です。
武田と戦いましたが上杉謙信は尊敬する
武将です。窮地になった敵に塩を送るとか、武田信玄が信頼する方だったのが良くわか
ります。何時か其処を訪れたいと思います