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釧路市立博物館。釧路市春湖台。
2022年6月12日(日)。
チャシはアイヌ語で「柵・柵囲い」の意味を持ち、アイヌ文化期に構築されたものである。築造・使用年代はおよそ16世紀から18世紀にかけてと考えられ、1条または数条の壕(ごう)を持つものが多く、かつては戦闘用の砦として解釈されてきたが、砦としての役割のほか、聖地、資源監視場や談合の場所など、地域や時代ごとにいろいろな機能があったと考えられている。
釧路市内ではモシリヤチャシ跡、鶴ヶ岱チャランケチャシ跡が国史跡に指定されている。発掘調査例では桂恋(かつらこい)フシココタンチャシなどがあり、発掘調査では柵列の跡やウミガメを埋葬した施設も見つかっている。
釧路市フシココタンチャシは、海に臨む崖の上に所在し、半円状の壕が1条掘り込まれている。壕の幅は約6~11m、深さは2~3mを測る。
長さ27mの壕が半円状に掘り込まれている。壕の両斜面には、逆茂木状のものが在ったと考えられている。壕の内側には、柵列と考えられる柱跡が、1,5m前後で 21 ヶ検出されている。もっとも深いのは1mちかくもある。
アカウミガメ、ガラス玉、船釘、大量のシカの骨、陶磁器片が出土している。注目されたのはアカウミガメで、浅く掘られた土坑に頭部を海に向けた状態で埋葬されていた。カメは「海を所有する神」として崇められている。このことから、このカメは霊送りをされたと考えられており、祭祀をおこなったことが理解できる。18 世記の築造とされている。
(「北海道東部のチャシ」豊原熙司から)
モシリアのチャシに係わるヲニシトムシから続くタサニシの家系図である。この中で、メンカクシ(精一郎)が文献にはよく出てくる。
安政5(1858)年,釧路を訪れた松浦武四郎は,その地の乙名(首長)メンカクシ(和名精一郎)から,いわゆる釧路アイヌの先祖の活動の様子を聞取りしている。
トミカラアイノ,タサニシ,ヘケレニシの三名については,他の文献にも登場し,実在の人物であることが確かである。
二代目トミカラアイノの名は,「松前志」(松前広長,天明元年=1781年)にみることが出来る。すなわち宝暦中東部夷地のクスリノ酋長「トヒカライン」と云へる夷人福山(現松前町)に来て領主へ謁す」とあり、宝暦6(1756)年のことという。
文化6(1809)年の「東行漫筆」(荒井保恵)に,『安永8(1779)年頃のこと,タサニシは釧路アイヌの長で あり,彼自身が将となって桂恋のチャシに軍を集めたという。
「寛政蝦夷乱取調日記」寛政元年(1789)に、「クスリの長人タシャニシ病気・・・」とあり、クナシリ・メナシの戦いの時には釧路の首長であったことがわかる。
文化5(1808)年の「久寿里場所大概書」には,『久寿里乙名ヘケレニシ』とある。
桂恋のチャシについては、「東行漫筆」によると、タシャニシとクナシリのツキノエとの戦場とんあっとみられる。「かつらこいの昼休所を出て直に坂を登る。山道になる。此坂の上右之方海岸に出張たるにチャシあり、これは三十ケ年以前くなしりのツキノエクスリの乙名タシャニシと申ものたかひにあらそいてツキノエのいかたよりたから物をうばひに来るとき急てクスリの夷人タシャニシを大将として弓矢竹槍を持て此チャシに集まりたると云」。
仕掛け弓(罠猟)
12時30分ごろから1時間ほど見学し、出るときにチャシ見学について尋ねると学芸員が対応した。モシリヤチャシは事前予約が必要だという。崖が急だという。ハルトリチャランケチャシは、ここからすぐ北近くにあり、駐車場もあるという。春採台でビッグとダイソーに寄る予定もあったので、雨が降ってはいるがハルトリチャランケチャシへ行くことにした。