日常的文章は必ずしも論理式のようにすっきりしたものではありません。たとえ通常の解釈では論理的に誤解の余地の少ない文章の場合でもです。表面上は「∨(または)」に見えても、内容的には実は「∧(かつ)」であるような文章があります。
例えば、次の文章を考えてみます。
1a) この薬は高血圧または糖尿病の人に効く
=この薬は、[高血圧の人]∨[糖尿病の人]という人達に効く
=(この薬は[高血圧の人]に効く)∧(この薬は[糖尿病の人]に効く)
=この薬は高血圧にも糖尿病にも効く
≠この薬は高血圧または糖尿病のどちらかに効く
いつのまにか、∨(または)が∧(かつ)に逆転してしまいました。恐らく最後の文章のように解釈する人は少ないと思います。なぜでしょう? 類似の文章をいくつか例示してみます。
1b) この薬が効くのは、高血圧または糖尿病の人だ
=この薬が効く人は、高血圧の人または糖尿病の人だ
2) この病院では、犬または猫を治療できる
3) この学校ではフランス語または中国語を学ぶことができる
1bは最初の例文1aを少し明確にしてみました。2、3を聞いて、もし枚挙したどれかができないと言われたら、多くの人は「詐欺だ」と言うでしょう。ひとつの考え方として、これらの文章は集合について語っているのだという説明があります。例えば2番で言えば、[この病院で治療できる対象]という集合が[犬という集合]∨[猫という集合]である、と言っているのだと解釈するわけです。これに対して、よく命題論理の例題として出る次のような文章はどうでしょうか?
ポチは犬または猫である
主語のポチが固有名詞であり、犬や猫という言葉で示される集合の要素を示していることは明らかなので、(ポチ∈[犬∨猫])=(ポチ∈犬)∨(ポチ∈猫)であると解釈できます。では次の文章はどうでしょうか?
チワワは犬または猫である
今度はチワワも個体の集合になるので、(チワワ⊂[犬∨猫])=(チワワ⊂犬)∨(チワワ⊂猫)であると解釈できます。これに対して、例えば3の例は次のように解釈できます。
[犬∨猫]⊂[この病院で治療できる動物]
全く逆の解釈です。しかしなぜこういう違いがでるのかというと、実は、[犬]⊂[この病院で治療できる動物]ということはあり得ても、[この病院で治療できる動物]⊂[犬]ということが表現されることはほとんどない、という知識を我々が持っているからです。原理的には[犬]の一部だけが治療できるのだということはあり得ますが、通常「この病院で犬が治療できる」と言えば、全ての犬が治療できることを意味します。それに対してチワワは犬や猫の下位集合であることを我々は知識として知っているので、チワワ⊂[犬∨猫]と解釈するわけです。日常言語表現とはかくも曖昧で前提知識に依存しないと解釈が多義的になるものなのです。
さてまた別の考え方をしてみます。(この病院では犬を治療できる)または(この病院では猫を治療できる)という解釈だと、実際には何を治療できるのか不明確だということになります。なぜなら実際に犬を連れていったときに治療してもらえるか否かがかわからないからです。普通日常の表現では不明な点があればそうと言うはずで、単に例文2のような文章だけならこの病院で治療可能な動物は全てわかっているという前提で解釈するでしょう。すると犬も猫も治療できるという解釈しかできなくなります。1や3も同様で、この薬が高血圧に効くかどうか不明な状態で、この薬と高血圧との関係に言及するとは普通は考えにくいし、フランス語は学べないのに学校とフランス語との関係に言及するのも考えにくいことです。
ところで∨から∧への逆転自体は論理法則で示せます。
(P∨Q)→R ⇔ (P→R)∧(Q→R)
論理学の本でもあまり取り上げられることは少ない定理ですが、正しいことは考えればわかるでしょう。これが∧の場合は、複数の前提を入れ替えてもよいということを示す形で取り上げられることがあります。
P→(Q→R) ⇔ (P∧Q)→R ⇔ Q→(P→R)
また分配律として知られる下記の定理では逆転は起きません。
R→P∨Q ⇔ (R→P)∨(R→Q)
R→P∧Q ⇔ (R→P)∧(R→Q)
なお、例文3の語学校の例ではこんな解釈もできます。ある人が学ぼうとしたときに、フランス語だけ学ぶ、中国語だけ学ぶ、両国語同時に学ぶ、という3つのやり方があります。ここでこの学校では、例えば時間が重なっているとかいう理由で、1人の学生が両国語同時に学ぶことはできないかも知れません。もちろん論理学における「または」の厳密な意味は両国語同時に学ぶことも含んでいるのですが、日常言語では「または」に排他的論理和の意味を含ませていることはよくあることです。
また、ちょっと似た状況のこんな例はいかがでしょうか。DVDやBLD(ブルーレイディスク)を使う機器の話です。
4) この機器はDVDまたはBLDが使える。
1つの挿入口があり、そこにDVDまたはBLDを挿入すれば使える
5) この機器はDVDとBLDが共に使える。
DVD用とBLD用の2つの挿入口があり、2つに同時に入れても使える
製品仕様や広告や特許クレームを書く際には結構問題になりそうです。
まあ「この薬は高血圧または糖尿病の人に効く」よりは「この薬は高血圧にも糖尿病にも効く」の方が明確ですから、前者の表現はあまり使わない方が良いのでしょう。とはいえ世の中には、もっと曖昧な「この薬は高血圧または糖尿病に効く」という表現だってあふれていますから、解釈には注意が必要ですね。まあ論理式ばかり眺めていると、日常言語が瞬間的に解釈できなくなるという副作用が出るかもしれませんので御注意を。
例えば、次の文章を考えてみます。
1a) この薬は高血圧または糖尿病の人に効く
=この薬は、[高血圧の人]∨[糖尿病の人]という人達に効く
=(この薬は[高血圧の人]に効く)∧(この薬は[糖尿病の人]に効く)
=この薬は高血圧にも糖尿病にも効く
≠この薬は高血圧または糖尿病のどちらかに効く
いつのまにか、∨(または)が∧(かつ)に逆転してしまいました。恐らく最後の文章のように解釈する人は少ないと思います。なぜでしょう? 類似の文章をいくつか例示してみます。
1b) この薬が効くのは、高血圧または糖尿病の人だ
=この薬が効く人は、高血圧の人または糖尿病の人だ
2) この病院では、犬または猫を治療できる
3) この学校ではフランス語または中国語を学ぶことができる
1bは最初の例文1aを少し明確にしてみました。2、3を聞いて、もし枚挙したどれかができないと言われたら、多くの人は「詐欺だ」と言うでしょう。ひとつの考え方として、これらの文章は集合について語っているのだという説明があります。例えば2番で言えば、[この病院で治療できる対象]という集合が[犬という集合]∨[猫という集合]である、と言っているのだと解釈するわけです。これに対して、よく命題論理の例題として出る次のような文章はどうでしょうか?
ポチは犬または猫である
主語のポチが固有名詞であり、犬や猫という言葉で示される集合の要素を示していることは明らかなので、(ポチ∈[犬∨猫])=(ポチ∈犬)∨(ポチ∈猫)であると解釈できます。では次の文章はどうでしょうか?
チワワは犬または猫である
今度はチワワも個体の集合になるので、(チワワ⊂[犬∨猫])=(チワワ⊂犬)∨(チワワ⊂猫)であると解釈できます。これに対して、例えば3の例は次のように解釈できます。
[犬∨猫]⊂[この病院で治療できる動物]
全く逆の解釈です。しかしなぜこういう違いがでるのかというと、実は、[犬]⊂[この病院で治療できる動物]ということはあり得ても、[この病院で治療できる動物]⊂[犬]ということが表現されることはほとんどない、という知識を我々が持っているからです。原理的には[犬]の一部だけが治療できるのだということはあり得ますが、通常「この病院で犬が治療できる」と言えば、全ての犬が治療できることを意味します。それに対してチワワは犬や猫の下位集合であることを我々は知識として知っているので、チワワ⊂[犬∨猫]と解釈するわけです。日常言語表現とはかくも曖昧で前提知識に依存しないと解釈が多義的になるものなのです。
さてまた別の考え方をしてみます。(この病院では犬を治療できる)または(この病院では猫を治療できる)という解釈だと、実際には何を治療できるのか不明確だということになります。なぜなら実際に犬を連れていったときに治療してもらえるか否かがかわからないからです。普通日常の表現では不明な点があればそうと言うはずで、単に例文2のような文章だけならこの病院で治療可能な動物は全てわかっているという前提で解釈するでしょう。すると犬も猫も治療できるという解釈しかできなくなります。1や3も同様で、この薬が高血圧に効くかどうか不明な状態で、この薬と高血圧との関係に言及するとは普通は考えにくいし、フランス語は学べないのに学校とフランス語との関係に言及するのも考えにくいことです。
ところで∨から∧への逆転自体は論理法則で示せます。
(P∨Q)→R ⇔ (P→R)∧(Q→R)
論理学の本でもあまり取り上げられることは少ない定理ですが、正しいことは考えればわかるでしょう。これが∧の場合は、複数の前提を入れ替えてもよいということを示す形で取り上げられることがあります。
P→(Q→R) ⇔ (P∧Q)→R ⇔ Q→(P→R)
また分配律として知られる下記の定理では逆転は起きません。
R→P∨Q ⇔ (R→P)∨(R→Q)
R→P∧Q ⇔ (R→P)∧(R→Q)
なお、例文3の語学校の例ではこんな解釈もできます。ある人が学ぼうとしたときに、フランス語だけ学ぶ、中国語だけ学ぶ、両国語同時に学ぶ、という3つのやり方があります。ここでこの学校では、例えば時間が重なっているとかいう理由で、1人の学生が両国語同時に学ぶことはできないかも知れません。もちろん論理学における「または」の厳密な意味は両国語同時に学ぶことも含んでいるのですが、日常言語では「または」に排他的論理和の意味を含ませていることはよくあることです。
また、ちょっと似た状況のこんな例はいかがでしょうか。DVDやBLD(ブルーレイディスク)を使う機器の話です。
4) この機器はDVDまたはBLDが使える。
1つの挿入口があり、そこにDVDまたはBLDを挿入すれば使える
5) この機器はDVDとBLDが共に使える。
DVD用とBLD用の2つの挿入口があり、2つに同時に入れても使える
製品仕様や広告や特許クレームを書く際には結構問題になりそうです。
まあ「この薬は高血圧または糖尿病の人に効く」よりは「この薬は高血圧にも糖尿病にも効く」の方が明確ですから、前者の表現はあまり使わない方が良いのでしょう。とはいえ世の中には、もっと曖昧な「この薬は高血圧または糖尿病に効く」という表現だってあふれていますから、解釈には注意が必要ですね。まあ論理式ばかり眺めていると、日常言語が瞬間的に解釈できなくなるという副作用が出るかもしれませんので御注意を。
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