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確率を観測する (2)

2021-03-20 05:52:30 | 科学論
 前回の記事では、我々がサイコロの出目の場合に1~6の確率は全て等しいと自然に仮定してしまうのは、「一般的にするためにあえて漠然とした言い方にすれば、同じものは確率も同じはず、と考えるからだ」と書きました。この文章が漠然としているのは、同じものとはなんだろう?ということが漠然としているからです。ここでは、サイコロの各面は6つの個別のものには間違いないけれども形とか質量とかが同じだという意味になるでしょう。一般的には対象というものは観測される属性により認識されるのであり、それらの属性のいくつかが同じだというわけです。もしもすべての属性が一致していたら、それは1つのモノです。確率もそうですが、色が同じとか質量が同じとか、別個のモノ同士の何らかの属性を比較して、同じとか違うとか認識するものなのです。

 では何かが別個のモノなのか同一物なのかはどうやって判断するのでしょうか? 我々が視覚的動物だからなのかも知れませんが、同じ位置にあるものは同一物と判断しているような気がします。少なくとも異なる位置に見えるものは別個のものとみなすでしょう。もちろん蜃気楼や鏡像や重力レンズ現象のように、2つに見えて実は同じものだったということもあるのですが、この場合も、元のものの2つの像が異なる位置を持っていたのであり、2つの像は別個のものと我々は認識します[*1]

 こうしてみると、位置という属性は何か特別な属性に思えます。使うのが視覚でも聴覚でも触覚でも、同じ位置にあるものは同一物以外の何物でもありませんし、別の位置に検知できるものは一応別のものと認識するはずです。むしろ、視覚ならば偽物の像というものの存在もありえますが、触覚で位置が違えば別物の可能性はかなり高いと判断するのではないでしょうか?

 視覚と言うと可視光線だけに思えますが、それ以外の電磁波でも、また電子やニュートリノや重力波でも、対象から出てきたほぼ直線移動する粒子線や波を離れたところから検知するという性質は同じです。そして移動の状態によっては偽物の像のありうることも同じで、これらはすべてひっくるめて視覚的観測手段または遠隔観測手段と呼んでもいいでしょう。するとある像が偽物か本物かはどうすれば見分けられるでしょうか? ここで本物とは、「像の位置と本体の位置とが一致している像」と定義してみましょう[*1]

 天体観測のように視覚的観測手段しか使えない場合は見分ける手段がないことは明白です。なにしろ異なる視覚的観測手段で得られた像が同じ本体のものかどうかは、両手段での像の位置が一致するかどうかで判定するのです。まあ、光子や重力波は同じように歪んだ空間での直線上を移動するという性質がわかっているということも大きいのでしょうが。

 地球上など手の届く範囲のことならば、まさに手を伸ばして触ってみるという手段が取れます。手を伸ばして本体の形とは異なる壁みたいなものに触ったとしたら多分それは鏡でしょうし、何も触らずに突き抜けたら、光が曲がって来ていたのでしょう。これは言い換えると手は直線状に移動したけれど、本体から出た光はそうではなかったということです。とすれば、光とは異なる軌道を取ることもあるとわかっているもの、例えば弾丸を飛ばすという手段も考えられます。

 そもそもは、このように軌道が異なることもある複数の手段で確認することを多数回やっていて、光というものは何らかの理由がない限りは直線移動するものだという経験則を我々は得ていて、通常は光による像の位置を本体の位置と同一視しているわけです。もしもそれが手や弾丸などによる観測と食い違った場合は、単に光による像が偽物だったというだけでは終わらず、どうしてそのような偽物の像が生じたのかにも合理的な理由を求めることでしょう。

 さて本体は位置を変えます。つまり運動します。位置が変わるのに同一物だと判断するのは、同じ形状の像は同時刻には1つだけであり、以前の位置の像は消えているからです。前回の記事でも「粒子P1の時刻tの位置X1(t)が粒子P2の時刻tの位置X2(t)といきなり入れ替わるなどということは起きず、あくまでもX1(t)という連続関数になり、それはX2(t)とは異なると想定されているのです。」と書きました。そして何らかの理由がない限りは、粒子P1の像が2つに別れたりまたくっついたりとかすることはないという経験則を我々は得ています。そして像が移動する途中の軌道が隠されていても、始めと終りの軌道が見えていれば、途中の軌道も推定します。これはヒトだけではなく多くの動物の脳(視覚系)が自然にしていることと考えられています。

 しかし量子力学が関わる2重スリット実験などでは、観測されていない途中の軌道は複数と考えられる、いやむしろ可能な軌道の連続的な分布であるというのが量子力学の理論です[*2]。2重スリット実験では軌道は観測されません。1個の粒子が観測されるのは軌道のゴールである検出点においてだけで、光源から出発したところも観測されません。光源と検出点との間の経路の設定から、どんな経路を通ったかを推定し、その距離とゴールでの検出時刻からスタート時刻を推定しているだけです。

 しかしマクロの世界では形や色やが一定の像が連続的に位置を変えるという現象が常に観測され、"同一物体が空間を移動する"という認識が正しいことが常に経験されています。"同一物体が空間を移動する"という理論の正しさが常に検証され続けていると言えるでしょう。"世界は同一物が合同変換するようにできている"という理論とも言えるでしょう。

 さて先に「もしもすべての属性が一致していたら、それは1つのモノです。」と書きましたが、逆に「1つのモノであること」の判断に「すべての属性が一致していること」を使うのは原理的に不可能です。"すべての属性"などというものは無限にあるからです。実際には1つまた少数のいくつかの属性で「1つのモノである」と判断せざるを得ないはずですが、我々はそれを「位置という属性が一致していること」としているように思えます。というか、そもそも、ひとつの位置の1種類の属性は、ある瞬間にはひとつの値しか取れません

 世界を3次元空間座標と時間座標の4次元座標として認識すれば、時空間の各点では1種類の属性はひとつの値しか取れません。2つの値が観測できるならば、それは別の種類の属性と認識できます。例えば質点の速度はxyz方向の3つの値で示せますが、この3つは3種類の属性と認識できます。単に1種類の属性が3つの成分に分解できたということであり、1種類の属性が別々の3つの値を取っているのではありません。例えばひとつの位置での色を考えても、色の三属性とか三原色とかで表せますが、やはり1種類の属性が別々の3つの値を取っているのではありません[*3]

 世界を3次元空間座標を固定して認識すれば、各点は唯一の存在であり、その属性が時間的に変化している、というのがいわば我々が認識できる生データと言えるでしょう。そして複数の3次元空間点の集合に対して、我々は"形""大きさ"という属性を認識します。さらに、いままで同じ"形"のモノが占めていた場所の隣の場所がその同じ"形"に変化し、いままでの場所はただの"背景"になる、という現象を見て、我々は「一定の"形"のモノが空間を移動した」と認識します。各点から得られる生データを"解釈する"というわけです。換言すれば、「運動とは脳内の幻であり、空間の各点が変化した現象を解釈しているだけである」と言えます[*4]。とはいえ、その解釈を使うことで世界にうまく対応できて生き残ることができるのですから、単なる幻ではなく正しい真実でもあると言っても構わないと私は思います。

 ところで「いままでの場所は"ただの背景"になる」と何気なく書きましたが、この"ただの背景"の存在が結構大事な気もします。ひとつの質点の運動を認識しているとき、我々はその質点以外の空間のすべての点を"背景"という均一な点集合の要素とだけ認識しているのです。というか認識から外しているという方がピッタリするかも。実際には我々が目にする背景は決して均一ではなくてゴチャゴチャとした風景に満ちていますが、視線方向を考えると視線が何かに遮られるまでの空間は均一な透明空間だと認識されます。水中では透明性も均一性もかなり怪しくはなりますが。

 つまりは3次元的拡がりの中で見れば多くの部分が均一な空間になっているおかげで、均一ではなく特徴的な属性を持つ点の塊を我々は物体として認識できるということなのでしょう。単純化のために、色覚がなく白黒の濃淡だけで世界を見ているとした場合、空間の各点は明度というひとつの属性を持ちます。点の塊、つまり空間のある部分が明度の違いにより背景と区別でき、その点の塊の中でも明度の違いがあることでしょう。例えば、立方体(サイコロ状)の各辺が濃い黒で各面が灰色の物体の像をイメージするとわかりやすいでしょう。面の中でも明度がなたらかに違っているかも知れません[*5]

 そして背景とは異なる明度を持つ点の集合が、互いの位置関係、つまり互いの距離を一定に保ちながら座標を変えていくと認識します。つまり点の集合が(物体)が形と大きさを一定に保ちながら運動していると認識します。しかしこれは、座標系に固定された各点の明度が時間とともに変化しているという見方もできます。座標と物体の相対性とでも言いましょうか(^_^)。ここで点の集合の各点の互いの位置関係、つまり形と大きさが一定に保たれているということが、この点の塊を"ひとつの同じ物体"と認識できる所以(ゆえん)でしょう[*6]

 さて我々は、例えば力学において"モノの属性"を考えるとき、モノとしては物体や質点などを想定し、それらの位置や速度や質量、さらには形や大きさや色などを属性として思い浮かべます。いわば物体や質点を主人公にしているのですが、座標と物体の相対性により座標を主人公にすればどうなるでしょうか?

続く

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*1) 本体の位置とはむろん、3次元空間座標で本体が実際に居る点のことなので、像の位置は光が本体から目まで完全に直線移動したと仮定したときに本体の位置と推定される点のことと定義するのがいい。光がまがったり2本に別れたりすると、この推定位置が実際の位置と異なるということになる。レンズや鏡の光学では実像と虚像というものがあるが、どちらも本体とは異なる位置にある。
*2) 本ブログ場・波・粒子-3.4-二重スリット(2019/12/30)
*3) 言葉づらだけボーッと追っていると、案外と混乱することもあるので注意。ある量とその成分とは別のものであり、あるモノの集合とそのモノ自体(集合の要素)とは別のものである。
*4) いや運動してるとしか見えない、というのが普通でしょうけど、ディスプレイを考えれば理解できるのではないでしょうか。ディスプレイの各画素は動いてはおらず、色や明るさという属性を刻々と変えているだけです。そして我々の視覚的認識自体の本当の生データは実は、網膜の視細胞の時々刻々の変化です。
*5) 本当は点の塊の表面を2次元的に見ているのだが、立体視は当然のこととしておこう。
*6) 霧や煙は形も大きさも変わる。これは物体とは呼ばない。

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