前回の続きです。
数学的プラトン主義に対立するものとしてよく取り上げられるのが形式主義(Formalism)です。これは以下の立場です。
1.数学の諸対象は存在しない。または意味がない。
2.数学は単に,公理,定義,定理といった一連の公式および規則からなる(これらを公理系と呼ぶ)。それらは単なる記号の系列に過ぎず、意味というものはない。つまり真偽もない。
3.公理系は「実在の」モデルに適用されると意味を持つ。
これはヒルベルト(D.Hilbert)に始まり、ブルバキ(N.Bourbaki)によりさらに押し進められた立場だと言われていますが、本当はどこで数学的プラトン主義と対立しているのかというのは曖昧にも思えます。というのも、公理の説明で上記のモデルの例に挙げられるものの多くは、例えばユークリッド幾何学の図形とか「現実の?」自然数とかの数学的対象であり、これらを実在モデルとみなすことは、まさに数学的プラトン主義に他ならないように、私には思えるのです。ただ、ヒルベルト流に言えば、これらのモデルでは「有限の操作で真偽を確認できる諸性質」のみを確認しているのだということなのかも知れませんが。
さらにブルバキですが、実は数学的プラトン主義に戻っているのではないかとも私には思えます。私はとてもブルバキの著作そのものを読む力はないので他人の評価で判断するしかないのですが、どうもその評価が人によりまちまちです。
林晋(ref4;2010/01/02記事)によれば、ブルバキの構造主義数学は、数学の基礎付けの確立にこだわるというヒルベルトの限界を乗り越えて、もしくは断念して、現代数学の主流的立場になったという風に読めます。その部分を引用すれば、
「そしてブルバキが「数学のアーキテクチャ」で強調したように、ブルバキ公理論つまり「構造主義」は、ヒルベルトの、この証明中心の公理論から決別することにより生まれた。」
「そして、この「公理的思惟」から引退の一九三〇年までの一〇数年間を、ヒルベルトは彼の公理論の数学的洗練にささげる。証明論である。しかし、それはやがて訪れる二〇世紀数学の主流、ネーター、フレッシュ、ブルバキ的な抽象数学からの乖離に棹さすものでしかなかった。」
そうではなくブルバキはすたれたという人もいますが、今のところ私が見つけたのは断片的な発言だけですので信頼性のほどは不明です。
林晋の述べる構造主義数学象を私が理解したところでは、以下のものです。
1.数学的対象、例えば、群、環、体、位相空間、実数体、ユークリッド空間などは「構造」として捉えることができる。「構造」とは、ある集合の要素間にある関係を導入したものである。それらの関係の性質は、定義や公理で示される。
2.公理系を変えると「構造」がどう変わるか、様々な「構造」の間の関係はどうなっているのかを調べるのが数学である。
3.従って、公理系とは「構造」を調べる道具であり、公理系自体の真理というものには意味がない。
私には「構造という数学的実在がある」、極端には「構造こそが真の数学的実在である」と言っているように見えるのですが、どうなんでしょうね。まあ多くの数学者は構造全般ではなくて群とか体とかいう特定の構造を取り上げて扱っていることが多いはずで、その際に構造というさらに広い観点で見ると見通しがよくなることがある、ということだろうと思います。つまり構造は数学研究の道具である。これは群という抽象的対象の考察が、方程式論や図形の分類などの道具になるということや、数学が自然科学研究の道具になることと対応していますね。おや、この言い方だと上記3と逆になりました。まあどちらが道具でどちらが目的かは好みや局面によるのかも知れません。
続く
数学的プラトン主義に対立するものとしてよく取り上げられるのが形式主義(Formalism)です。これは以下の立場です。
1.数学の諸対象は存在しない。または意味がない。
2.数学は単に,公理,定義,定理といった一連の公式および規則からなる(これらを公理系と呼ぶ)。それらは単なる記号の系列に過ぎず、意味というものはない。つまり真偽もない。
3.公理系は「実在の」モデルに適用されると意味を持つ。
これはヒルベルト(D.Hilbert)に始まり、ブルバキ(N.Bourbaki)によりさらに押し進められた立場だと言われていますが、本当はどこで数学的プラトン主義と対立しているのかというのは曖昧にも思えます。というのも、公理の説明で上記のモデルの例に挙げられるものの多くは、例えばユークリッド幾何学の図形とか「現実の?」自然数とかの数学的対象であり、これらを実在モデルとみなすことは、まさに数学的プラトン主義に他ならないように、私には思えるのです。ただ、ヒルベルト流に言えば、これらのモデルでは「有限の操作で真偽を確認できる諸性質」のみを確認しているのだということなのかも知れませんが。
さらにブルバキですが、実は数学的プラトン主義に戻っているのではないかとも私には思えます。私はとてもブルバキの著作そのものを読む力はないので他人の評価で判断するしかないのですが、どうもその評価が人によりまちまちです。
林晋(ref4;2010/01/02記事)によれば、ブルバキの構造主義数学は、数学の基礎付けの確立にこだわるというヒルベルトの限界を乗り越えて、もしくは断念して、現代数学の主流的立場になったという風に読めます。その部分を引用すれば、
「そしてブルバキが「数学のアーキテクチャ」で強調したように、ブルバキ公理論つまり「構造主義」は、ヒルベルトの、この証明中心の公理論から決別することにより生まれた。」
「そして、この「公理的思惟」から引退の一九三〇年までの一〇数年間を、ヒルベルトは彼の公理論の数学的洗練にささげる。証明論である。しかし、それはやがて訪れる二〇世紀数学の主流、ネーター、フレッシュ、ブルバキ的な抽象数学からの乖離に棹さすものでしかなかった。」
そうではなくブルバキはすたれたという人もいますが、今のところ私が見つけたのは断片的な発言だけですので信頼性のほどは不明です。
林晋の述べる構造主義数学象を私が理解したところでは、以下のものです。
1.数学的対象、例えば、群、環、体、位相空間、実数体、ユークリッド空間などは「構造」として捉えることができる。「構造」とは、ある集合の要素間にある関係を導入したものである。それらの関係の性質は、定義や公理で示される。
2.公理系を変えると「構造」がどう変わるか、様々な「構造」の間の関係はどうなっているのかを調べるのが数学である。
3.従って、公理系とは「構造」を調べる道具であり、公理系自体の真理というものには意味がない。
私には「構造という数学的実在がある」、極端には「構造こそが真の数学的実在である」と言っているように見えるのですが、どうなんでしょうね。まあ多くの数学者は構造全般ではなくて群とか体とかいう特定の構造を取り上げて扱っていることが多いはずで、その際に構造というさらに広い観点で見ると見通しがよくなることがある、ということだろうと思います。つまり構造は数学研究の道具である。これは群という抽象的対象の考察が、方程式論や図形の分類などの道具になるということや、数学が自然科学研究の道具になることと対応していますね。おや、この言い方だと上記3と逆になりました。まあどちらが道具でどちらが目的かは好みや局面によるのかも知れません。
続く
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