ソフィスト(4)の続き
ソクラテスがひっかかることとは、「正義と節制(分別)と敬虔とは徳の別々の部分なのか、それとも名前が違うだけで同じものなのか」というものでした[p64]。そしてすぐ後に知恵と勇気も徳の部分として登場します[p65]。
プロタゴラスは、知恵と節制(分別)と勇気と正義と敬虔とは徳の別々の部分であり互いに異なるものだと答え、その説に対してソクラテスは矛盾に導くような問答を行います。が、結論には至らずに終わります。ただ、正義と敬虔とは「同じものであるか、もしくは最も相似たもの[p70]」であるという見解表明と、知恵と分別は同一であることを不承不承ながらプロタゴラスに同意させた[p75]という記載はあります。ですからソクラテス自身はこれらの5つの部分が、「金塊の部分のように~互いに少しも異ならないようなもの[p65]」と考えているという推定はできます*1)。ただしそう考える理由についての明確な見解は示されていません。
では、正義と敬虔との同一性に至るソクラテスの演繹を示します。
1.正義と同じ性格をもつものは正義以外にはない。他も同様。
2.正義とは正しい性格のもの。敬虔とは敬虔な性格のもの。
3.すると、敬虔とは正しい性格のものではない、正義は敬虔な性格のものではない。
4.でも私ソクラテスは、正義が敬虔な性格のものであり、敬虔は正しい性格のものであると主張したい。
プロタゴラスは「そこにはやはり何か差異があるように思われる。」と言いつつも有効な反論を繰り出せません。そう、あなたの直観は正しいよ、プロタゴラス。まったく同じだったらわざわざ別の名前をつけたりしないよね。
そもそも正しいとか敬虔なとかいうのは名詞ではなく形容詞です。何らかの具体的な人の行為に対して、その行為は正しいとか敬虔だとか形容する言葉、すなわち何らかの具体的な人の行為の性格(属性)を示す概念なのです。そして形容詞が名詞化された正義とか敬虔とかいう言葉が示すものは抽象的なものであり実体のある対象ではありません。
私が思うに正義とは何かという問題は実は、我々が人生で直面する行為の選択のひとつひとつが正しいのか正しくないのか、という具体的な問題なのです。その判断はむろん個別に判断しなくてはならず、正義という抽象的な何かについていくら深く考えても、この個別の選択には必ずしも役立たないのではないでしょうか*2)。
「そして正義と敬虔とは同じものか」という問いは上記の理解を踏まえれば、正しい行為の集合と敬虔な行為の集合とは一致するのか、という問いになります。まあ常識的に答えれば、「かなりの部分が共通集合をなすけれども完全に重なってはいない」となるのは明らかてしょう。そう、プロタゴラスの言葉は正しい。完全に一致するか、さもなくば別物だ、という○×テストみたいなソクラテスの前提が間違っているだけなのです。
ソクラテス/プラトンの考えを好意的に見れば、「徳の教育可能性を考えるにはまず徳とは何かをきちんと考えねばならず、その一環としてまず、徳の部分をなすという5つのものが何かということをきちんと考えねばならない」という問題意識だと考えられます。でも、だったらこんな詭弁的論法を使わずに正面から堂々と議論してほしいです。
ソフィスト(6)へ続く
=======注釈=======
*1) 金塊のたとえは「分割できるが分割された各部分は同一物」という意味だろうから、なかなか興味深いたとえだと思う。
*2) もっともプラトンは、抽象的なイデアこそが本当に実在するもので、個々の具体的なものはイデアの影である、と考えていたから、彼ならこのような考えには反対するかも知れない。
ソクラテスがひっかかることとは、「正義と節制(分別)と敬虔とは徳の別々の部分なのか、それとも名前が違うだけで同じものなのか」というものでした[p64]。そしてすぐ後に知恵と勇気も徳の部分として登場します[p65]。
プロタゴラスは、知恵と節制(分別)と勇気と正義と敬虔とは徳の別々の部分であり互いに異なるものだと答え、その説に対してソクラテスは矛盾に導くような問答を行います。が、結論には至らずに終わります。ただ、正義と敬虔とは「同じものであるか、もしくは最も相似たもの[p70]」であるという見解表明と、知恵と分別は同一であることを不承不承ながらプロタゴラスに同意させた[p75]という記載はあります。ですからソクラテス自身はこれらの5つの部分が、「金塊の部分のように~互いに少しも異ならないようなもの[p65]」と考えているという推定はできます*1)。ただしそう考える理由についての明確な見解は示されていません。
では、正義と敬虔との同一性に至るソクラテスの演繹を示します。
1.正義と同じ性格をもつものは正義以外にはない。他も同様。
2.正義とは正しい性格のもの。敬虔とは敬虔な性格のもの。
3.すると、敬虔とは正しい性格のものではない、正義は敬虔な性格のものではない。
4.でも私ソクラテスは、正義が敬虔な性格のものであり、敬虔は正しい性格のものであると主張したい。
プロタゴラスは「そこにはやはり何か差異があるように思われる。」と言いつつも有効な反論を繰り出せません。そう、あなたの直観は正しいよ、プロタゴラス。まったく同じだったらわざわざ別の名前をつけたりしないよね。
そもそも正しいとか敬虔なとかいうのは名詞ではなく形容詞です。何らかの具体的な人の行為に対して、その行為は正しいとか敬虔だとか形容する言葉、すなわち何らかの具体的な人の行為の性格(属性)を示す概念なのです。そして形容詞が名詞化された正義とか敬虔とかいう言葉が示すものは抽象的なものであり実体のある対象ではありません。
私が思うに正義とは何かという問題は実は、我々が人生で直面する行為の選択のひとつひとつが正しいのか正しくないのか、という具体的な問題なのです。その判断はむろん個別に判断しなくてはならず、正義という抽象的な何かについていくら深く考えても、この個別の選択には必ずしも役立たないのではないでしょうか*2)。
「そして正義と敬虔とは同じものか」という問いは上記の理解を踏まえれば、正しい行為の集合と敬虔な行為の集合とは一致するのか、という問いになります。まあ常識的に答えれば、「かなりの部分が共通集合をなすけれども完全に重なってはいない」となるのは明らかてしょう。そう、プロタゴラスの言葉は正しい。完全に一致するか、さもなくば別物だ、という○×テストみたいなソクラテスの前提が間違っているだけなのです。
ソクラテス/プラトンの考えを好意的に見れば、「徳の教育可能性を考えるにはまず徳とは何かをきちんと考えねばならず、その一環としてまず、徳の部分をなすという5つのものが何かということをきちんと考えねばならない」という問題意識だと考えられます。でも、だったらこんな詭弁的論法を使わずに正面から堂々と議論してほしいです。
ソフィスト(6)へ続く
=======注釈=======
*1) 金塊のたとえは「分割できるが分割された各部分は同一物」という意味だろうから、なかなか興味深いたとえだと思う。
*2) もっともプラトンは、抽象的なイデアこそが本当に実在するもので、個々の具体的なものはイデアの影である、と考えていたから、彼ならこのような考えには反対するかも知れない。
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