用之必勝!?

偏ってますけど、反面、何でも「あり」ってこってす。 ぽりしぃ薄いッスけど、とりあえず、「横浜」贔屓です。

後手後手ゴテゴテ

2011年06月21日 21時57分22秒 | 放射能?
放射線量高い地区、13世帯が先行避難 福島・伊達市 ( 朝日新聞 ) - goo ニュース

2011年6月20日(月)11:14
 東京電力福島第一原発事故の影響で局所的に放射線量が基準を超える恐れがある「特定避難勧奨地点」の候補地の一つ、福島県伊達市霊山町の石田地区で20日午前、指定に先だって避難する住民に、避難先となる市営住宅のかぎが引き渡された。独自に実施した意向調査に基づいて市が支援した。
 石田地区は、避難を求められる「計画的避難区域」外だが、比較的放射線量が高い状態が続いていた。市は5月下旬から、44世帯160人を対象に避難するかどうか意向を調査。13世帯44人が市内の別地区への避難を希望したため、市営住宅の準備を進めていた。
 市営住宅の家賃は無料で、エアコンとカーテンなどを市が独自に支援。日本赤十字社が仮設住宅の入居者らに提供している冷蔵庫やテレビなどの家電セットについても提供を受けた。


みにつまされる話.....。
まじめにたいおうしようと思ってるように見えない.....。

政府、「避難勧奨地点」指定へ…住居単位で(読売新聞) - goo ニュース

2011年6月16日(木)20:46
 枝野官房長官は16日の記者会見で、東京電力福島第一原子力発電所周辺の警戒区域、計画的避難区域より外側の地域で、局地的に年間の積算放射線量が避難の目安となる20ミリ・シーベルトを超える可能性がある場所について、住居単位で「特定避難勧奨地点」に指定し、住民への注意喚起や避難の支援を行う方針を発表した。
 枝野氏は特定避難勧奨地点を指定する意義について、「一番大きな効果は、避難を希望する人について、今までの指定地域と同様、国がしっかり支援することを明確にすることだ」と強調した。
 具体的な対象世帯は、文部科学省が実施している放射線量の調査をもとに、年間の 被曝線量が20ミリ・シーベルトを超えると推定される場合、放射性物質の除染が可能かどうかを検討し、困難と判断した時に、政府が福島県や関係市町村、住民と協議したうえで指定する。
 指定された世帯に対し、市町村は放射線の影響や生活上の注意点などの情報を提供し、避難した世帯には被災証明を発行する。
 現在、福島県伊達市と南相馬市の一部で、局地的に年間20ミリ・シーベルトを超える場所が見つかっており、指定に向けた調査がすでに始まっている。
 これらの地域では、地域全体で放射線量が高い数値を示している警戒区域や計画的避難区域とは違い、放射線量が高いのは局地的な狭い地点に限られているため、地域単位ではなく住居単位で指定する方針だ。


20ミリシーベルト超「ホットスポット」4地点 住居単位で避難支援(産経新聞) - goo ニュース

2011年6月17日(金)08:00
 政府の原子力災害対策本部(本部長・菅直人首相)は16日、東京電力福島第1原発周辺の警戒区域、計画的避難区域の外の地域で、局地的に事故発生からの年間累積放射線量が20ミリシーベルト超が推定される地点(ホットスポット)について、住民避難を住居単位で支援、促進する「特定避難勧奨地点」に指定すると発表した。同日、原子力安全委員会(班目春樹委員長)に報告し、安全委は了承した。
 これまでの調査では、福島県伊達市霊山(りょうぜん)町石田、同町上小国と、南相馬市原町区大原の3地域4地点が対象になる。
 今後、モニタリングで年間被曝(ひばく)線量を調査。現地災害対策本部が県や関係市と協議して指定の可否を決める。指定地点の居住者にはモニタリング結果や活用できる支援措置などを説明、避難先を紹介した上で被災証明を発行する。
 枝野幸男官房長官は16日の会見で「政府として一律に避難を指示したり、産業活動を規制したりすべき状況にはない」と述べ、基本的には避難を求めないとの考えを強調した。ただ、妊婦や子供が生活している世帯には避難を促すという。

今さらなんだけど.....

2011年06月20日 22時47分43秒 | 放射能?
IAEA「複雑な組織、対応遅れる可能性」 福島報告書 ( 朝日新聞 ) - goo ニュース

2011年6月18日(土)15:00
 国際原子力機関(IAEA)は17日、東京電力福島第一原発の事故調査のために来日した調査団の最終報告書をまとめ、加盟国に配布した。同原発の津波対策などが不十分だったことを改めて指摘し、日本の複雑な組織が緊急対応を遅らせる可能性にも言及。安全規制当局の「独立や役割の明確化」の確保も求めた。
 最終報告書は、調査団が1日に日本政府に提出した概要版により詳細な説明やデータを加えて構成。付録を含めて計約160ページからなり、15の結論と16の教訓を挙げている。20日からウィーンで始まるIAEA閣僚級会合で報告される。
 福島第一原発について報告書は、2002年以降に見直された津波の高さの想定が「過小評価」で、規制当局も追加的手段が必要と評価しなかったと指摘。複数基で同時に起きる事故への対応策についても「不十分だった」とした。


フクシマを教訓に安全策協議 IAEA閣僚級会合が開幕 ( 朝日新聞 ) - goo ニュース

2011年6月20日(月)19:41
 東京電力福島第一原子力発電所の事故を教訓に、原発の国際的な安全強化を話し合う国際原子力機関(IAEA)閣僚級会合が20日、5日間の日程でウィーンで始まった。原発事故に対するIAEAの機能強化、各国の原発の安全対策を相互評価する制度の導入などを柱とする閣僚宣言を採択する。立場を異にする国々が一致した具体策を示せるかが焦点となる。
 天野之弥(ゆきや)事務局長は冒頭演説で、「脱原発」を選んだ国々も含め各国が一致して原発安全強化に取り組むよう訴えた。その具体策として、IAEAの安全基準を津波など複数の重大な災害に対応できるよう12カ月以内に強化すると明言。
 また、原発事故の国際原子力評価尺度(INES)の見直しを検討するよう指示したことを明らかにした。福島の事故が1986年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故と同じ最悪の「レベル7」と認定されたが、各国にチェルノブイリとの違いがうまく伝わらなかった反省からだ。


そう言えば、ブログ再開したとたんに震災に遭った.....から、ここまで続けられたのかなぁ.....。
三月を節目に違ったアプローチ考えようと思ってたけど、やっぱりそううまくはつながらない.....。
まぁできることから、積み上げないとね.....。

正しさにも限度があるか.....

2011年06月15日 21時31分51秒 | 放射能?
安全の必要十分条件は何か --正しく怖がる放射能【9】 ( 日経ビジネスオンライン ) - goo ニュース

2011年6月15日(水)09:00
 少し先の話になりますが、7月8日に開かれる「福島以降」を考える東京大学シンポジウムに登壇することになりました。
 そこでお話しようと思っている内容を、少し噛み砕いてご紹介してみたいと思います。東大のシンポジウムは一般に入場料などはとらず、当日はフロアからのご質問も併せて議論を進めて行く、ということです。今回は大学内ですので、やや複雑な話も値引きなしにするつもりでおるのですが、その場でいきなり聞いて30分後に質疑、ということですと、質問の大半が初歩的な内容になってしまうことが懸念されます。またもちろん、当日お運びいただける方は限られてもおりますので、初歩的な内容から噛み砕いて、ネット上でお話してみたいと思います。不明点などは私のツイッターでも補いますので、ご質問下さい。

◆ 「確率的影響」再考

 既にこのシリーズでも幾度か記した事柄ですが、放射線の人体への影響は2つに大別されます。

1つは「確定的影響」と呼ばれるもの
もう1つ「確率的影響」と呼ばれるもの

 「確定的影響」とは、被曝した直後に現れる直接的な症状を指します。例えばしばらく前に報じられた「ベータ線熱傷」、これは要するに「やけど」ですね。被災の直後に診断可能な症状で、改めて言うまでもないかもしれませんが「因果関係が明確」であるのが「確定的」な影響の特徴と言えるでしょう。
 何をわざわざ改まってそんなことを、と思うかもしれませんが、これは第2の「確率的影響」と併せて考えるとき、実はとても重要なポイントになると思うのです。
 この、放射性物質が健康に与える「確率的影響」とは、被曝の直後には必ずしも明確でなく、5年、10年経ってから症状が出てくるもの、典型的なのは「ガン」でしょう。また一時に集中的に浴びた場合以外に、長期にわたって少しずつ放射能を浴びる「低線量被曝」の影響も、実はよく分かっていない。医師たちの間でも意見が分かれているのも、既に多くの方がご存知の通りと思います。
 さて、しかしここでちょっと考えてみていただきたいのです。
 例えば2011年から2020年まで10年間の死亡統計を見た時、特定の地域、例えば原発事故のあった地域で、そのほかの場所より発ガン率が高かった、低かった、という議論は可能でしょう。
 問題は、一人ひとりの患者さんについて、本当に「そのガン」の発症原因が、原発事故による放射性物質であった、と立証できるか、というところにあると思うのです。

◆ 物的証拠で後づけられるか

 例えば今、かつて原発で働いていた人が亡くなったとします。「その死因が何であったか」と問われた時、もし「直接的影響」が非常に明確なものであれば・・・、例えば、放射線によるやけどがあるとか、あるいは明確な放射線病の症状を表していたとか・・・、死因の特定に困ることはないでしょう。
 そうではなく、普通の生活をしていても発症し得る病気、例えばガンなどであったとしたらどうでしょうか。
 例えば、ヨウ素131を大量に体内に取り込んでしまい、これが甲状腺に蓄積して、明確な内部被曝が確認できる(例えば甲状腺内からヨウ素131が検出される、など)とすれば、確率的影響であっても、病因の特定に困ることはありません。
 しかし、放射線の影響はこうしたものだけには留まりません。

◇純粋に外部被曝だけであったなら・・・
→ 症状に特徴が残っていなければ、病因の特定ができない可能性があるでしょう。

◇しかも、それが極めて低線量の長期被曝によるものであるなら・・・
→ とりわけほかに、病因となり得るもの(喫煙、飲酒その他の発ガン因子)があるなら、やはり「放射性物質だけでガンになった」とは言いにくいでしょう。

◇極めて微量の、強い放射線を出す物質を取り込む内部被曝していたなら・・・
→ 没後の病理解剖で患部を取り出し、中から放射性物質をしっかり取り出すことなどができれば物的証拠をもって立証することができるかもしれません。しかし、もし特定できなければ、死因はガンと記されるとしても、「では、そのガンの原因は?」と尋ねられた時、事故による被曝が原因だった、と科学的に立証することは、なかなか難しいことだと言わねばなりません。

◆ 統計的事実と1つしかない命

 このようにみてきた中に、とても重要なポイントがあります。放射性物質の健康への影響など、医療統計を扱う学問分野は「疫学」と呼ばれますが、こうした統計は一つひとつの臨床カルテの積み重ねによって形づくられてゆくものです。
 しかし、逆は必ずしも真ではありません。つまり、疫学統計のデータから判明することは、必ずしも一つひとつのカルテを説明するとは限らないのです。
 これくらいの被曝があれば、一般にこれくらいの人が亡くなる、という予測は立ちます。しかし、実際に亡くなった人一人ひとりについて、それが本当に放射線の影響であるかどうかは、必ずしも定かではない。
 しかし、私たちにとって大切なのは、たった1つしかない自分や家族、知人友人などの命であり、健康にほかなりません。
 だとすれば、何をどう考えればよいでしょうか。ここに私の取る姿勢の基本があります。つまり私が、寺田寅彦から借用して「正しく怖れる」とこのシリーズで書いている姿勢、端的に言えば「最悪のリスク評価を念頭に、それを十分カバーするだけの安全策を逐次、判断する」という姿勢が、重要であると思うわけです。
 寺田寅彦は浅間山の噴火について、むやみに怖れるのもかえって危険だし、楽観視して噴火している最中の火口に「こんなの平気だよ」と近づくような行動も厳密に戒めています。これと全く同じことを考えるように、その都度、努力する必要があるのではないか、というのが、私の主要なポイントです。
 例えば福島第一原発現場での6月中旬のリスクを考えてみましょう。放射性物質の漏出と並行して、建屋全体の倒壊という危険性が指摘されています。大量の使用済み核燃料の入ったプールが建物の高い位置にあり、膨大な量の汚染水も入っているわけです。仮にこれが倒壊することがあるなら、周囲の現場の作業も滞りますし、放り出された使用済み核燃料は冷却できませんから「3次災害」というべき状態を引き起こしかねません。
 実はドイツでこの手の話を耳にするのですが、あまり日本では報じられない。こうしたことを「正しく怖がる」というのは、本当に倒壊の可能性がどれくらいあるのか、きちんと現場を調査して、必要な手を打つことにほかなりません。そうでなければ「やみくもに恐怖する」状態と言うべきでしょう。
 あるいは、原発事故現場ではなく、より離れた地域の放射性物質による汚染を考えてみましょう。「低線量被曝の健康への影響」は定かではない、と言われています。今回の事故後の医療データが、これから先、21世紀の疫学に役立つだろう、といったことも語られます。実際、広島、長崎の原爆投下直後の診療データは、必ずしも直後に現地の被害者の役に立ったわけではありません。時間をさかのぼって考えるなら、スリーマイル島やチェルノブイリの原発事故後の医療データも、必ずしも、おのおのの現場でフル活用できたわけではありません。逆に言うなら、これら過去の疫学データを参考に、いま福島の現場を的確に考えてゆく必要がある。実に当たり前のことですが、データへの向き合い方を誤ると、せっかくの疫学情報も意味を成しません。

◆ 安全の必要条件と十分条件

 ここで私が強調したいのは、シンプルな論理の骨格を明確にすべきだ、という1点に尽きます。具体的には「必要・十分条件」という問題です。
 高等学校の数学で教える内容ですが、必ずしも世の中できちんと理解されているかどうか定かでない、大切な基礎の1つです。このロジックを確認しておきましょう。
 必要条件とは、AであることがBであるために必ず必要だ、ということを意味します。
例えば、今、極めて普通の意味で考えて、

【ある人が「(B)母親である」ためには「(A)女性である」ことが必要】ということができるでしょう(難しいジェンダーの問題などは、ひとまずさておくとします)。
 これを「(A)女性であること」は「(B)母親であること」の必要条件になっている、と言います。
 では、この逆は成立するでしょうか。つまり、
【ある人が「(A)女性である」なら、必ず(それだけの条件で十分に)「(B)母親である」】
 と言えるでしょうか。そんなことはありませんね。まだ小さな女の子であるかもしれないし、子供をもうけない人もおられるでしょう。つまり上の文章は真ではない、これを、
「(A)女性であること」は「(B)母親であること」の十分条件ではない、と呼ぶわけです。

 さて、いま私たちが考えたい1つは「安全」のために何が「必要条件」か、ということなのですが、もう1つ「安心」のためには「何が十分条件か」ということが、明確に分かっていなければならない。このあたりのロジックが、極めていい加減になっているのをよく目にするように思います。例えば小学校の校庭における「20ミリシーベルト/年」という空間線量は、子供の健康を保障するという意味で「必要条件」でも「十分条件」でも、全くありません。それをもとに「気に病まず外で遊ぼう」などという狂気の沙汰も、閣僚の言葉として報じられた通りです。
 シンプルに、しかし厳密に考えましょう。
 安全を確保するためには「これが必要だ」という条件は、とてもたくさんあります。使用済み核燃料がきちんと冷却されていること、建屋が壊れていないこと、格納容器などが壊れていないこと・・・。一つひとつ挙げ始めたらキリがありません。

◆ 行政に求められる「安全の十分条件」

 しかし、では私たちは、どうしたら「これだけそろっていたら<十分に>安全だ」と言うことができるでしょうか。ここが問われているのです。
 低線量被曝の問題が、どうにも煮えきらず気持ち悪いのは、きれいさっぱりと「これで絶対安全」と言い切れないところにあります。
 また「民意」としては「いい加減、どうにかしてくれ!」というフラストレーションもためてしまいがちです。ここで勢い、実際には危険な線量なのに「安全」などと言ってしまう、現在のような状況は、愚民的政策と明確に言う必要があります。このところ欧州連合(EU)各国の有識者と話す機会が多いのですが、こうした状況、率直に呆れてものが言えないという人が大半です。
 ではどう考えればよいのか。物理学や数学では「極限操作」ということをします。似たように考えて、極端な条件、つまり「これならどう逆立ちしても大丈夫」という条件を出してきて、そこから現在の状況へと、少しずつ漸近してゆく、というアプローチを考えてみるわけです。
 あるいは「明確に大丈夫」というラインと、「ダメ」というラインと、双方から挟み撃ちにする、というような作戦もあります。これらも大学入試の数学で問うような高校レベルのお話です。
 一つひとつの現場で「十分に安全」といえる「上界」あるいは「下界」をその都度、設定してゆくこと。これに尽きると思うのです。もしかしたら、もう少し弱い条件でも、安全が確保されるかもしれない。でも、まずもってこの「十分に安全な値」を前提に、対策を立ててみる。
 「【十分】に安全な基準値」に対して「その値である【必要】性があるのか」と問うのは、まったく論理的でもなければ科学的でもない、ということに注意する必要があります。
 なぜそのように【十分】的でなければならないか。なぜならば、一度損なわれた健康は容易に戻ることがないから、にほかなりません。
 日本国憲法にのっとって、行政が国民の健康と安全を考える際、施策に求められるのは「十分な安全性」として確保される「安心」であること。この根本は、絶対にないがしろにされるべきではありません。
 こうしたシンプルな原則を、徹底して守り、決してブレないことが一番大切だと思います。

 妙に理屈っぽい話になってきたね.....。

事実並べただけでも.....

2011年06月15日 06時23分32秒 | 放射能?
内部被ばく100ミリ超は作業不可…東電に指導(読売新聞) - goo ニュース

2011年6月14日(火)15:25
 東京電力福島第一原子力発電所の事故で、緊急作業時の 被曝量の上限250ミリ・シーベルトを超えた恐れのある作業員が、計8人になった問題で、厚生労働省は14日、内部被曝量が100ミリ・シーベルトを超えた可能性のある作業員についても、緊急作業を行わせないよう同社に指導した。
 同省は13日までに、3月中に従事した作業員約2300人分の内部と外部被曝量の暫定値の報告を同社から受け、計200ミリ・シーベルトを超えた恐れのある14人について緊急作業から外すよう指導していた。
 今回、緊急作業から外される作業員は15~20人になる。同省は今回の指導について「精密検査で被曝線量が確定するまでは、健康のため、作業から外すべきだと考えた」としている。

イタリア国民投票、原発反対票94%に(読売新聞) - goo ニュース

2011年6月14日(火)12:02
 【ウィーン=末続哲也】イタリアで12、13日に行われた原発再開の是非を問う国民投票は14日、開票作業が終了し、内務省によると、投票率は54・79%、原発再開への反対票は94・05%に達した。国民投票は成立した。
 伊ANSA通信によると、ベルルスコーニ首相は13日、「政府と議会は結果を完全に受け入れる義務がある」と述べ、「原発再開反対」の民意に従う意向を示した。
 2008年に政権復帰した同首相は原発再開方針を表明したが、福島第一原発事故後の反原発世論の高まりが国民投票にも反映された。原発推進派は与党側の棄権の呼びかけに応じ、投票を見送ったとみられる。
 国民投票では首相らに与えられている公判出廷免除の特権の是非も問われ、「免除反対」の民意が確認された。ベルルスコーニ首相は未成年買春罪と職権乱用罪などに問われている。

相馬の酪農家自殺、「原発なければ」と書き残し(読売新聞) - goo ニュース

2011年6月14日(火)03:09
 福島第一原発の事故で、牛を処分して廃業した福島県相馬市の酪農家男性(50歳代)が「原発さえなければ」と書き残して自殺していたことが13日、わかった。
 関係者によると、男性は今月11日、小屋で首をつった状態で見つかった。小屋の壁に白チョークで「仕事する気力をなくしました」「残った酪農家は原発にまけないで」と記していた。
 男性が住む地区は当初、加工前牛乳が出荷停止となり、男性は乳を搾っては捨てていた。今月初旬までに約30頭を処分した。男性は親の代から酪農を続けており、姉は本紙の取材に「(弟の死は)子どもたちのことを思えば話したくない。しかし、原発の件は訴えたい」と語った。
 酪農家仲間だった男性(51)は「避難区域ではないため、補償はないだろうと繰り返していた」といい、農業男性(53)は「連絡をとるたびに『原発ですべてを失った』と悩んでいた」と話した。

 変わり映えしない.....

そうだそうだ!

2011年06月14日 23時58分39秒 | 放射能?
 “思いつき”のエネルギー政策では国が壊れる!日本が復活を賭けて目指すべき[ポスト原発」の選択肢 ( ダイヤモンド・オンライン ) - goo ニュース

2011年6月14日(火)08:40
◆ 浜岡原発停止も電力供給策は見えず思いつきのエネルギー政策に募る不安

 菅首相の発言を見ていると、深い考えがなく、そのときの思いつきで言葉を発しているように思えることが多い。なかでも、わが国のエネルギー政策に関する発言は、特にそう感じる。
 福島原発事故の後、菅首相は原子力発電中心のエネルギー政策の見直しを宣言した。また、地震などの危険性を理由として、静岡県の浜岡原子力発電所の全面的な停止を中部電力に要請した。
 浜岡原発を止めること自体には、住民の安全性を考えると、相応の説得力があるだろう。しかし、原発停止を実施したときに、電力供給の対応策などが明示されることはなかった。
 そうした菅政権のエネルギー政策に関して、エネルギー専門家の中には、「菅政権の思いつきのエネルギー政策では、日本という国が壊れてしまう」と厳しく批判する声もある。わが国にとってとても重要なエネルギーの問題を、いとも簡単に結論を発する姿勢に対しては、専門家ならずとも疑問が湧くのは当然だ。
 もともと国内に資源の乏しいわが国にとって、エネルギー問題は経済に大きな影響を与えると同時に、国民の生活に直結するファクターだった。それは、1970年代の2回のオイルショックや、2000年代に入っての原油価格高騰などを振り返ると、明らかである。
 また、地球温暖化問題の高まりによって、化石燃料に代わる代替エネルギーの開発が注目されたこともあり、わが国にとって、エネルギーは極めて重要な問題だ。国のリーダーたる首相が、中長期的な展望を持つことなく、“思いつき”とも言われるようなエネルギー政策を口にすべきではない。

◆ オイルショック後の効率向上を実現した「原発依存」体質から、逃れられない日本

 国内に資源の乏しいわが国は、多くの天然資源を海外からの輸入に依存せざるを得ない。その中でも、エネルギー資源の8割以上は海外に頼っているのが実情だ。それを強烈に再認識させられたのが、1970年代に起きた2度のオイルショックだった。
 その後、わが国のエネルギー政策の柱は、必要とする絶対量を確保することが至上命題になった。そのため、中東の産油国との友好関係を維持するなどの方策がとられることになった。
 一方、エネルギー資源の消費を抑えるために、民間企業を中心に、エネルギー効率を高める懸命の努力がなされた。その努力はかなりの成果を上げ、世界の主要国の中でもエネルギー効率の高い国と評価されるに至った。
 その後、地球温暖化問題が顕在化するに伴って、二酸化炭素の排出量を減らすため、原油などの化石燃料の消費を減少すべきとの議論が盛り上がった。それで注目されたのが、二酸化炭素の排出量の少ない原子力発電だった。
 原子力発電は、大規模な発電が可能になるため、化石燃料による火力発電に代わる有効な手段として認識された。
 そうした事情を反映して、つい最近までわが国の中長期的なエネルギー政策の中心に据えられていたのが、原子力発電だった。2009年時点で総発電量の約61%を占める化石燃料を、2030年までに20%に引き下げると同時に、29%の原子力発電を同時期までに50%まで引き上げるプランだった。
 つまり、わが国のエネルギー政策は「原子力重視型」だったのである。しかも、そのエネルギー政策は、自民党政権だけではなく、民主党に政権が代わってからも明確に認識されてきた。

◆ 震災後のエネルギー政策に必要な2つの視点ロードマップに国民の声を取り入れるべき

 国のエネルギー政策を考えるとき、政府が考えなければならない点が2つある。1つは、今自国の企業や国民に、エネルギーに関して不自由させないことだ。企業が経済活動を行なうためには、必ず電力などのエネルギーを必要とする。電力供給に不安があると、自由な経済活動が阻害されることになる。
 特に、クリーンルームと呼ばれる特殊な施設が必要な精密機械やIT分野では、
電力の安定供給は必要不可欠な要件になる。そうした分野は、他にも枚挙に暇がない。
 また、国民生活にも電力供給は欠かせない。毎日の通勤・通学で電車が動かない状況は考えにくい。また、家電製品の普及を考えると、電気のない生活は1日たりとも考えられないだろう。政策当局は、短期的にもエネルギーが不足する状況をつくり出してはならないのである。
 もう1つは、エネルギーに関する中長期的な視点だ。エネルギー供給については、海外からの調達先を含めて、短期間に回答を見つけることが難しい分野だ。しかも、国内で発電施設を建設するとなると、数年、あるいはさらに長い時間を要する。
 そのため、政府は中長期的な需要・供給の予測や、代替エネルギー資源の開発など、長い目で見たプランづくりが必要不可欠になる。具体的には、現在利用可能な化石燃料などを効率良く利用しながら、太陽光や風力、地熱といった天然エネルギーなど、代替資源の開発を目指すことになる。
 問題は、それぞれのプランの実現可能性や効率性などを考慮して優先順位を付け、実現に向けて推進することが必要なのである。政府は国民の声を聞きながら、しっかりしたロードマップをつくらなければならない。

◆ 資源に恵まれない国でも過度な悲観は不要エネルギー問題は逆にわが国復活のチャンス

 ただし、資源に恵まれないわが国は、エネルギー問題について過度に悲観的になる必要はない。何故なら、今後の代替エネルギー開発について、わが国の高い技術力を生かすことができれば、わが国経済にとって大きなビジネスチャンスになる可能性があるからだ。
 太陽光発電や燃料電池などでは、わが国企業が高いノウハウや技術力を持っている分野が少なくないと言われている。特に、太陽光パネルの生産については、わが国は有力な生産国の1つであり、スペインなど海外の大規模なプロジェクトでも受注実績がある。
 太陽光発電は、今のところコストが高いため、一般家庭などでの普及が、期待されたほど進展していないという指摘はある。とはいえ、今後一段の技術開発や量産効果によって、コストを軽減することができれば、状況は大きく変化することも考えられる。
 また、電池の精度向上などによって、発電した電気を大容量で貯めておくことも可能になるはずだ。それが現実のものになると、エネルギーを巡る景色は変わる可能性が高い。リチウムイオン電池などを実用化した実績があるわが国の企業とっては、蓄積してきた技術力を発揮する大きなチャンスになるはずだ。
 単体の企業でそのチャンスを生かすことが難しいのであれば、政府が音頭を取って、複数の企業が技術や知恵を持ち合ってコンソーシアムを作り、それを使って世界市場で高いシェアの獲得を目指せばよい。わが国の企業再編のよい“きっかけ”になるはずだ。
 今まで、資源の乏しいわが国は、蓄積してきた技術力や知恵、ノウハウを使って、世界有数の経済国の地位を勝ち取ってきた。エネルギー問題は、政府や企業の対処の仕方によっては、わが国が世界に対して強さを発揮する好機になるかもしれない。ぜひ、それを期待したい。

 国に任せてても仕方ない.....ってのが、一番『こわい』考え方かも.....。

やぁぁぁなニュース.....

2011年06月13日 22時37分56秒 | 放射能?
 高濃度のストロンチウム検出 福島第一の地下水や海水 ( 朝日新聞 ) - goo ニュース

2011年6月12日(日)21:41
 東京電力は12日、福島第一原発の地下水や周辺の海5カ所から、放射性ストロンチウムを検出したと発表した。海では基準の濃度限度の240倍の地点もあった。ストロンチウム90は半減期が約29年と長いうえ、体内に入ると骨にたまる傾向がある。
 これまで原発敷地内の土壌からは検出されていたが、地下水から見つかるのは初めて。5月18日に採取した1号機付近の地下水からは、ストロンチウム89が1立方センチあたり0.078ベクレル、90が0.022ベクレル検出された。2号機付近の地下水は89が19ベクレル、90が6.3ベクレルだった。原発事故で放出され、雨水などとともに空気中や地表から流れ込んだとみられるという。
 5月16日に採取した1~4号機の取水口近くの海水でも、ストロンチウム89が基準の濃度限度の26倍、90が53倍を検出。2号機取水口付近ではそれぞれ67、117倍、3号機取水口付近では80倍、240倍を検出した。

 数字にビビって騒いでみても意味ないんだってわかっちゃいるんだけどね.....。 こんな話も併せて考えると、ついつい寂しさ募って.....いてもたってもいられなくなる.....。
 汚染水浄化装置の不具合解消 本格稼動は遅れる見込み ( 朝日新聞 ) - goo ニュース

2011年6月12日(日)21:06
 東京電力福島第一原子力発電所にたまっている高濃度の放射能汚染水を浄化処理する施設の装置で、水がうまく流れない不具合が発生した問題で、東京電力は12日、配管の弁などを点検したところ不具合は解消したと発表した。ただ、今月15日前後としていた施設の本格稼働は数日遅れる見通しという。不具合の原因について「弁の開閉が適切でなかった可能性がある」としている。
 東電によると、不具合が見つかったのは汚染水中の放射性セシウムなどを取り除く米キュリオン社製の浄化装置。11日夜に通水試験を実施し、水の流れ具合を確認したところ、4系統のうち1系統で、本来は毎時12トン流れるはずだが、0.5トンしか流れなかった。
 12日に配管の弁を点検して再試験したら毎時12トン流れるのを確認した。一部の弁が開ききっていなかった可能性がある。13日にも再び水を流してチェックする。問題がなければ、処理施設全体の試運転を5日間かかけて実施したうえで本格稼働する。試運転の短縮も検討を進めているという。

 なるようにしかならないよね.....。

春樹さんに一票.....

2011年06月12日 15時22分02秒 | 放射能?
 「東電、20年間放置 人災だ」 IAEA元事務次長「福島第1に欠陥」(産経新聞) - goo ニュース

2011年6月12日(日)08:00
 【ロンドン=木村正人】1993~99年に国際原子力機関(IAEA)の事務次長を務めたスイスの原子力工学専門家ブルーノ・ペロード氏が産経新聞のインタビューに応じ、福島第1原子力発電所事故について「東京電力は少なくとも20年前に電源や水源の多様化、原子炉格納容器と建屋の強化、水素爆発を防ぐための水素再結合器の設置などを助言されていたのに耳を貸さなかった」と述べ、「天災というより東電が招いた人災だ」と批判した。
 日本政府は7日、事故に関する調査報告書をIAEAに提出、防止策の強化を列挙したが、氏の証言で主要な防止策は20年前に指摘されていたことが判明し、東電の不作為が改めて浮き彫りになった。
 氏は「事故後の対応より事故前に東電が対策を怠ってきたことが深刻だ」と述べ、福島第1原発が運転していた米ゼネラル・エレクトリック(GE)製の沸騰水型原子炉マーク1型については、1970年代から水素ガス爆発の危険性が議論されていたと指摘した。
 スイスの電力会社もマーク1型を採用したが、格納容器を二重にするなど強度不足を補ったという。当時スイスで原発コンサルティング会社を経営していた氏は改良作業を担当し、1992年ごろ、同じマーク1型を使用している東電に対して、格納容器や建屋の強化を助言した。
 このほか、水源や電源の多様化▽水素ガス爆発を防ぐため水素を酸素と結合させて水に戻す水素再結合器を建屋内に設置▽排気口に放射性物質を吸収するフィルターを設置-するよう提案した。しかし、東電は「GEは何も言ってこないので、マーク1型を改良する必要はない」と説明し、氏がIAEAの事務次長になってからもこうした対策を取らなかったという。
 一方、2007年のIAEA会合で、福島県内の原発について地震や津波の被害が予想されるのに対策が十分でないと指摘した際、東電側は「自然災害対策を強化する」と約束した。
 しかし、東日本大震災で東電が送電線用の溝を設けるなど基本的な津波対策を怠っていたことが判明。氏は「臨時の送電線を敷いて原発への電力供給を回復するまでに1週間以上を要したことはとても理解できない」と指摘し、「チェルノブイリ原発事故はソ連型事故だったが、福島原発事故は世界に目を向けなかった東電の尊大さが招いた東電型事故だ」と言い切った。

 昨日の投稿の続きのような話にはなるが、どちらかと言えば、私は寺島氏の主張を『受け入れている』部類の人間だ。 報道ステーションでの発言は、タイミングを外した観は否めないものの、何より彼は主張が『ぶれない』一貫性を感じさせる人なので、バランスの点から言えば、考え方にはシンクロし易いのだろう。
 殊に『日本の技術力は類を見ない』『エネルギー政策の根幹から考え直す時期で、そこに産業をリンクさせることこそ日本の未来だ』『原発に対する報告を行うのであれば、他国の言語を使って直接訴える形でないと無意味だ』といった私の考え方は、寺島氏の提言に端を発している。
 残念ながら、原子力に関する考え方には大きな差があり、稼働を受け入れることを『現実的』とするならば、単純に『反対』を繰り返す私の考え方の方が『子ども』と言われても返しようがないか.....。
 昨日、ハリケーン対策しかしてない原発の非常用電源が、津波に耐えられるはずもない.....ってな話を投稿したが、問題なのは、その事実や、それを受け入れた後に、対策を施していなかったことばかりではない。 今回の話にもある通り、福島第一原発の事故は、どう解釈しても『人災』なのだ。 そして、事象や経緯に足元をすくわれると、改めて大きな『見落とし』に突き当たる危険性がある。
 つまり、『新技術』とか『技術革新』とかといった言葉には、必ず相応の『リスク』が伴う点を度外視して、議論を先に進めるべきではないということだ。 言われるまでもない話に響くかもしれないが、考えて欲しいのは、原子力に関して言えば、時間の経過とともに、殊更新たな技術だとの見方が廃れていると言えるのではないかと思える点だ.....。 新しくない技術であれば、利用に躊躇は消える.....使い方が荒くなる.....認識が尊大となる.....。
 新車との認識があるうちは、気を使ってスピードにも留意して土禁にしてまで美しく乗ろうとした車であっても、五年十年経過してしまえば、ちょっとしたバンパーの傷には、見向きもしなくなるだろう。 目前で事故が発生してから、『ブレーキがきかない!』ってな整備不備に気付いても.....遅いのだ.....。

 そんな訳で.....どんなに子ども扱いされても、『触らぬ神に祟りなし』だと思うことにした.....。
 ついでに言えば、原子力が『効率』面からも『原料』面からも、それほど優れてないって話は、前にも書いたけど.....。

間抜けと思う前に.....

2011年06月11日 23時56分50秒 | 放射能?
 「地下に非常電源」米設計裏目に ハリケーン対策だった(朝日新聞) - goo ニュース

2011年6月11日(土)15:00
 東京電力福島第一原発が40年前、竜巻やハリケーンに備えて非常用発電機を地下に置く「米国式設計」をそのまま採用したため、事故の被害が大きくなったことが関係者の証言でわかった。原発は10メートル以上の津波に襲われて水につかり、あっけなく全電源を失った。
 風速100メートルに達する暴風が原発に襲いかかる。周辺の大木が根こそぎ吹き飛ばされ、ミサイルのように建屋の壁を突き破り、非常用電源を破壊する――。1960年代初頭、米国ではこんな悪夢のシナリオを想定して原発の災害対策が練られた。非常用発電機は原子炉建屋ほど壁が厚くない隣のタービン建屋に置かれた。「木のミサイル」から守るためにより安全なのは地下だった、と東電関係者は解説する。米国ではハリケーンに男女の名前を交互に付ける。津波よりも身近な災害だ。
 東電初の原発だった福島第一の1号機は、ゼネラル・エレクトリック(GE)など米国企業が工事を仕切った。「東電は運転開始のキーをひねるだけ」という「フル・ターン・キー」と呼ばれる契約で、技術的課題は丸投げだったという。
 東芝や日立など国産メーカーの役割が増した2号機以降の設計も、ほぼ1号機を踏襲。津波など日米の自然災害の違いをふまえて見直す余裕はなかった。旧通産省の元幹部は「米側の仕様書通りに造らないと安全を保証しないと言われ、言われるままに造った」と振り返る。

 言われた通り造ったんだから、安全性を保証しろよ!って、一人ボケツッコミかましてる場合ぢゃなさそう。 だいたい、日米の自然災害の違いをふまえて見直す余裕なしって、どんだけ慌てて建設する必要があったんだろうって話だよな。 メーカーの責任問う前に、明らかに政治に責任あるだろ? 現状の自民党責めたところで、さっきのボケツッコミ同様何等意味はないし、結局、このテの怒りとかって行き場失うんだよね.....。
 震災から丸々三月経ったってば、掘り返すとこんな話ばっかり出てくる。 今朝村上春樹氏に感動して以降、なるべく明るめの話題探したものの、出てきそうもない.....。 心底残念な話だ。
 昨日の晩の報道ステーションで、コメンテーターの寺島実郎氏が、村上氏の演説の後に、この先原発に関する技術を日本の『売り』とすべき.....といった論旨のコメントをしたとかで、折角村上氏が原子力利用全般に『NO!』を突き付けたってば、何考えてるんだ!?的な批判が広がってるとかって話を耳にした.....。 確かに米国丸投げで建設した原発の何売るんだ!?とは思うね。 それから何年経ってると思うんだ!?なんて反論する人も中にはいるのかも知らんけど、何ら見直しもせずに、放置した罪は逃れようもない。
 何度も言うけど、制御し切れんもん使うのはやめるべきだろ!?

政治が機能しない国の不幸

2011年06月11日 14時51分30秒 | 放射能?
 『震災も過去の話』と化し始める三月経過..... の割には、一向光明の見えない生活を余儀なくされている人が山盛り残された状況が続いている.....。 こと原発に関しては、未だ情けない話ばかりが並ぶ.....。
 世界の情報孤児になる日本:上杉 隆(ジャーナリスト) ( Voice ) - goo ニュース

2011年6月10日(金)16:00
■ 女性と子供の安全を守ろうとしない国
 日本の信頼が揺らいでいる。このままでは近い将来、先進国の地位から脱落するかもしれない。そんな不安さえ頭をよぎるほど、日本はいまピンチに直面している。いったいどのような理由で、日本は世界中からの不信を買おうとしているのか。それは説明が要らないほど明白である。
 3月の東京電力福島第一原発の事故以来、日本は、放射能を地球全体にばらまき続けている。にもかかわらず、その事実を重視せず、逆に、情報を隠蔽しようとしてきた。結論からいえば、日本への信頼低下は、それがすべてである。
 「被災地で救援活動を行っていた民間団体『フメディカ』の救援チーム5人は14日、急きょ帰国した。広報担当者のシュテフェン・リヒター氏は地元メディアに対し、『日本政府は事実を隠蔽し、過小評価している。チェルノブイリ(原発事故)を思い出させる』と早期帰国の理由を語った。
 メルケル首相も記者会見で『日本からの情報は矛盾している』と繰り返した。ザイベルト政府報道官は、『大変な事態に直面していることは理解している。日本政府を批判しているわけではない』と定例記者会見で釈明したが、ドイツ政府が日本政府の対応にいらだちを強めていることは間違いない」(『読売新聞』2011年3月16日付)
 これは2カ月前の記事である。地震発生直後に掲載されたこの記事は、その後の日本政府の事故対応を象徴するものとなった。
 なにもドイツの不信感が特別なのではない。その直前には、クリントン米国務長官も自身の記者会見で、日本政府は情報をきちんと出していない、と不満を爆発させている。
 この2カ月間、放射能漏れを隠し、海洋汚染を隠し、事故を隠し続けてきた日本に対して、同情的な見方をする国は多くない。むしろ先進国であるにもかかわらず、責任逃れに終始し、にわかには信じ難い情報隠蔽を行なう信用のならない国というレッテルを貼られている。
 それは、次の3つの「事件」で明らかだ。
 5月、WHO(世界保健機関)総会に出席していた大塚耕平厚生労働副大臣は次のように謝罪した。
 「大気・海洋中に大量の放射性物質を放出したことを、国際社会の一員としてお詫びしたい」
 だが、世界の反応は冷たい。それも当然だろう。日本はこれまで、WHOの求める子供と妊婦に対しての対応を、事実上、無視し続けてきたのだ。
 子供が放射能を浴びると甲状腺など、その体内に取り込みやすい。また、胎児の場合は死亡や奇形などといった、より重い障害を発生する可能性が増す。
 記者クラブによって情報統制がされている日本では国民の意識が薄いが、放射能事故に関する世界の見方はきわめて厳しい。とくに子供と女性の安全を守ろうとしない日本政府に対しては、世界中の科学者たちのあいだから怒りの声すら発せられている。

■ あまりに馬鹿げた安全性のアピール
 二つ目はIAEA(国際原子力機関)に対する姿勢だ。IAEAの調査に対しても日本政府は、一貫して拒否する姿勢をとってきた。
 3月、原発周辺の立ち入りを許可しなかったのを皮切りに、福島県飯舘村の放射線環境基準値のレベルが上がり、IAEAから避難要請が出されても、なお日本政府はそれを事実上、放置してきた。
 それが5月半ばに突如、受け入れを表明する。そのあまりに唐突すぎるタイミングに、6月からウィーンで開かれるIAEAの閣僚級会議をにらんでの動きではないかと欧州諸国からみられている。
 なにしろ、過去にIAEAの「査察」を断ったのは、北朝鮮、リビア、イランくらいだ。原子力の扱いに関して、日本はそうした国々と同列で扱われてもおかしくない振る舞いを繰り返してきたのだ。

 そして三つ目として、4月以来、国際環境保護NGOグリーンピースによる海洋調査を拒否しているのも、世界の海洋学者からの不信を買っている。
 グリーンピースによる海洋調査は、国連を含め、世界中で認められたものである。少なくとも日本政府によるお手盛りの調査よりは数倍、信頼度が高い。にもかかわらず、いまなおグリーンピースによる調査は拒否されている。その代わりに日本政府は、魚の「頭」と「内臓」と「骨」を除くという、世界でも例のない調査方法によって、無意味な安全性をアピールしている。
 このあまりに馬鹿げている振る舞いで、世界の信用を得ることは不可能だろう。いうまでもなく、さらに日本政府への不信感が倍増しているのが現状だ。
日本はどこに向かうのか。記者クラブ制度に守られているがゆえ、三つの国際機関に歯向かった現実さえ国民は知らないだろう。もはや日本は、世界の情報孤児になりつつあるのだ。

 総じて『情報発信の拙さ』が問題で、起こってしまった事故を収束させようとする現場の動きを、取り立てて批判したところで何もイイことはないと思える。 だいたい『動き』が遅過ぎる!! 復興基本法案、衆院通過 柳田・参院新委員長に野党反発( 朝日新聞 ) - goo ニュース

2011年6月10日(金)19:56
 民主、自民、公明3党が修正合意した復興基本法案が10日の衆院本会議で、3党と社民、たちあがれ日本の賛成多数で可決した。共産党、みんなの党は反対した。17日にも参院で可決、成立する見通しだ。 基本法案は自民、公明両党の主張をほぼ取り入れ、復興政策の企画・調整から実施までを担う「復興庁」の設置▽復興特区の新設▽復興財源として復興債の発行――を盛り込んだ。
 討論で共産党の高橋千鶴子氏は「生活基盤の再建が復興の土台であるという肝心な点があいまいだ」、みんなの党の柿沢未途氏は「復興財源を名目に増税に向かってレールが敷かれている」と反対理由を述べた。
 参院は13日の本会議で、基本法案を審議する特別委員会を設置する。民主党は新委員長に柳田稔元法相を内定したが、柳田氏は昨年11月に「答弁は二つ覚えておけばいい」との発言が批判されて法相を引責辞任している。自民党は反発して委員長ポストを要求し、対立候補の擁立を決めた。

 単純に『阪神淡路』の時と比較しても無意味とは思うけど、あん時だって復興『基本』は一月で成立してるぞ!! あんまりにも悠長に過ぎるだろ!?
 挙句.....やっぱり.....と感じてしまうようなニュースも出てきた.....。
 原発事故調「骨抜き」の動き 経産省画策、首相が拒否(朝日新聞) - goo ニュース

2011年6月11日(土)03:00
 東京電力福島第一原発の事故調査・検証委員会(事故調)について、政府の国家戦略室が経済産業省の影響下に置く構想を菅直人首相に提示していたことがわかった。首相の辞任表明後に提示したもので、首相は原発を推進してきた同省が事故調の「骨抜き」を画策したとみて拒否した。
 同戦略室は民主党政権下で新設された組織で各府省の職員が出向し、内閣官房に置いているが、エネルギー政策については経産省の影響力が強い。今回の動きは、経産省が事故調の調査結果に影響力を行使しようと巻き返しを図った形で、今後、新政権が事故調の中立性をどう担保するかが問われそうだ。
 菅内閣は5月24日の閣議で事故調の設置を決定。事故調は内閣官房に置いて独立性と中立性を確保し、東電の監督官庁である経産省から離れた形で検証させるようにした。

 いつまでこんなくだらないネタばっかり発信し続けるつもりだ!!

 ちょっと口直ししときましょか.....
 村上春樹さん「原子力、拒否すべきだった」(読売新聞) - goo ニュース

言葉の力

2011年06月11日 07時48分02秒 | 放射能?
 村上春樹さん「原子力、拒否すべきだった」(読売新聞) - goo ニュース
 久々に『一気に読める読み物に出会った』ようだった.....。

【バルセロナ共同】9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文は次の通り。(原文のまま)

 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。
 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1・8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)

 やっぱり表現力が並みでない。 手抜きの言い訳をする訳ではないが、これ以上何を書き足しても無意味だ。 この投稿は、ここまでとしよう.....。