明け方、ふと目が覚めた。5:45だった。
いつも6時に起きて朝食の支度をするので、「しめしめ、後15分寝られるぞ」と思って、毛布を被った。
すぐに、我が家の側に飛行機が不時着したんじゃなかろうかと思う程の衝撃があった。ベッドの上で5cmは浮いた(気がした)
すぐに、家全体が、トランポリンに乗っているように、ぐらぐらと揺れだし、寝室は一瞬「ひし形」になった。
当時3人の子はまだ就寝中。一番下は、まだ8歳。すぐに廊下を伝ってその子の所へ行こうとした。
彼は2段ベッドの上で「ボーゼンとしていた。「大丈夫?怪我していない?」こくこくと頷く。
あ、他の子は!2階だ!と2階に駆け上がろうとしたとき、長男が眠い目をこすりこすり降りて来た。
「大丈夫?怪我してない?」「ん?大したことないけど・・・・頭にキンチョールが落ちてきた」とぼそり。
そこから、ひっきりなしの余震。17日の余震は多分3000回以上あった。ついでに電話が不通。
今みたいにスマホがある訳じゃなし、こんな時は公衆電話しか通じない。我が家に公衆電話なぞ無い。
17日は月曜日だった。当時殺人的な忙しさで、殆ど休みもなく働いていた。
本来は某コンビニの開店作業を受けていた。
お施主さんは、「月曜日に開けたいから、16日の日曜日に看板付けてくれへんかなあ」なぞと無理を言う。
土日祝日に職人を呼ぶと、日当は2,5割増しになる。それは全てこちら持ちになるので、土日の仕事はなるべく避けたい私は、かなり粘ったけど、どうしても「月曜日に開店したい」とおっしゃるので、承諾した。
職人に頭を下げ、翌日月曜日は代休でええから、日給はちゃんと2割五分増しで払うからと頼み込んで、めでたく看板は完成した。
月曜日、会社は休みでも、子供達は学校に行く。私はいつものように、6時に起きて、6時半に朝ごはんとお弁当を作って、夫々に持たせた。
台所に立っている間も床が柔らかいゴムみたいになっているようで、めまいがするようで、何かが小刻みに揺れているようで、気分が悪かった。
小学2年の末っ子が、不安そうに、「お母さん、ボク学校行くの?」と聞くので「そうよ、学校から、来ちゃダメって言われてないでしょ?」と言うと。俯いて「ワカッタ」
家は校区の外れにあり、彼の足で30分は歩く。小さな体に大きなランドセルをしょって、とぼとぼ歩いて行く彼を見送っている間にも、電柱と電柱の間の電線が「大縄跳び」みたいに揺れていた。
NHKは寝ぐせのついたアナウンサーが「神戸で地震がありました」と繰り返していた。丁度「明石大橋の土台を作っている時だった。
土台が崩れていないかしらと・・・思う暇なぞない。ひっきりなしに来る余震。ベッドに寝たまま、私に指図をする夫。
神戸にはお得意様が沢山いらっしゃるので、安否を聞けと。
その度に公衆電話に走っていった。何往復したかなんて、覚えていない。食事をしたかどうかも覚えていない。
家と公衆電話を往復する間にも、足元が揺れる。池に浮かんだ切り株の上を歩いているようだった。
もしも、何百回と叩かれたら、痛みも消失するように、そろそろ揺れるのも飽きて?きた。
神戸があんな大災害になっているとは思わず、それでも刻々とテレビに流れる悲惨な場面。
神戸の得意先は、「水が欲しい」と言われたので、4トントラックで、ありったけの水をポリタンクを買って入れて運んだ。
いつもは片道30分はかかる所が、往復で8時間かかった。体調の悪かった夫は、それで又入院した・・・
災害は恐ろしい。けど、何もできない。甘んじて受けとめなくちゃいけない。
それには、日頃の備えが大事。それは分かる。分かるけど、何から手を付けて良いやら、途方に暮れている。
転勤で関東に行った「元小学2年生」は、もう地震には慣れたやろか?
私は、今でも「震度1」でも、心臓がわし掴みにされたような感じになる。
長男曰く「なるようにしかならん」 そらその通り。
いつも6時に起きて朝食の支度をするので、「しめしめ、後15分寝られるぞ」と思って、毛布を被った。
すぐに、我が家の側に飛行機が不時着したんじゃなかろうかと思う程の衝撃があった。ベッドの上で5cmは浮いた(気がした)
すぐに、家全体が、トランポリンに乗っているように、ぐらぐらと揺れだし、寝室は一瞬「ひし形」になった。
当時3人の子はまだ就寝中。一番下は、まだ8歳。すぐに廊下を伝ってその子の所へ行こうとした。
彼は2段ベッドの上で「ボーゼンとしていた。「大丈夫?怪我していない?」こくこくと頷く。
あ、他の子は!2階だ!と2階に駆け上がろうとしたとき、長男が眠い目をこすりこすり降りて来た。
「大丈夫?怪我してない?」「ん?大したことないけど・・・・頭にキンチョールが落ちてきた」とぼそり。
そこから、ひっきりなしの余震。17日の余震は多分3000回以上あった。ついでに電話が不通。
今みたいにスマホがある訳じゃなし、こんな時は公衆電話しか通じない。我が家に公衆電話なぞ無い。
17日は月曜日だった。当時殺人的な忙しさで、殆ど休みもなく働いていた。
本来は某コンビニの開店作業を受けていた。
お施主さんは、「月曜日に開けたいから、16日の日曜日に看板付けてくれへんかなあ」なぞと無理を言う。
土日祝日に職人を呼ぶと、日当は2,5割増しになる。それは全てこちら持ちになるので、土日の仕事はなるべく避けたい私は、かなり粘ったけど、どうしても「月曜日に開店したい」とおっしゃるので、承諾した。
職人に頭を下げ、翌日月曜日は代休でええから、日給はちゃんと2割五分増しで払うからと頼み込んで、めでたく看板は完成した。
月曜日、会社は休みでも、子供達は学校に行く。私はいつものように、6時に起きて、6時半に朝ごはんとお弁当を作って、夫々に持たせた。
台所に立っている間も床が柔らかいゴムみたいになっているようで、めまいがするようで、何かが小刻みに揺れているようで、気分が悪かった。
小学2年の末っ子が、不安そうに、「お母さん、ボク学校行くの?」と聞くので「そうよ、学校から、来ちゃダメって言われてないでしょ?」と言うと。俯いて「ワカッタ」
家は校区の外れにあり、彼の足で30分は歩く。小さな体に大きなランドセルをしょって、とぼとぼ歩いて行く彼を見送っている間にも、電柱と電柱の間の電線が「大縄跳び」みたいに揺れていた。
NHKは寝ぐせのついたアナウンサーが「神戸で地震がありました」と繰り返していた。丁度「明石大橋の土台を作っている時だった。
土台が崩れていないかしらと・・・思う暇なぞない。ひっきりなしに来る余震。ベッドに寝たまま、私に指図をする夫。
神戸にはお得意様が沢山いらっしゃるので、安否を聞けと。
その度に公衆電話に走っていった。何往復したかなんて、覚えていない。食事をしたかどうかも覚えていない。
家と公衆電話を往復する間にも、足元が揺れる。池に浮かんだ切り株の上を歩いているようだった。
もしも、何百回と叩かれたら、痛みも消失するように、そろそろ揺れるのも飽きて?きた。
神戸があんな大災害になっているとは思わず、それでも刻々とテレビに流れる悲惨な場面。
神戸の得意先は、「水が欲しい」と言われたので、4トントラックで、ありったけの水をポリタンクを買って入れて運んだ。
いつもは片道30分はかかる所が、往復で8時間かかった。体調の悪かった夫は、それで又入院した・・・
災害は恐ろしい。けど、何もできない。甘んじて受けとめなくちゃいけない。
それには、日頃の備えが大事。それは分かる。分かるけど、何から手を付けて良いやら、途方に暮れている。
転勤で関東に行った「元小学2年生」は、もう地震には慣れたやろか?
私は、今でも「震度1」でも、心臓がわし掴みにされたような感じになる。
長男曰く「なるようにしかならん」 そらその通り。