例会から予定より早く帰ったので、IWAニュースの編集作業をしていた。
意外な問題が発覚し、作業に没頭。母を迎えに行く時間(午後5時)を忘れていた。
急いで行くと、母はのんびりした顔で待っていた。帰り際、「またお願いしますね」などと、
一昨日とは打って変わって担当者ににこやかに挨拶をしている。
出先の塩原に電話が入らなければ良いがと心配していたが、杞憂だった。
誰にでも気持ちの波があるということなのだろう。
障害を持った人には、こうあってほしいという期待を、多くの人が持っている。
私も、母には(世話をしているのだから)従順な老人であってほしいと思っている。
一般の障害者にもそのような役割期待を持ってしまいがちだ。
だから、障害者が主張をすると、何か違和感を持ってしまう。
知り合いの障害者の、そのまた友人は、最重度の車椅子利用者。
食事もトイレも入浴もボランティア(20年以上前の話)に完全依存状態。
それでも、そのボランティアが気に入らないと追い返してしまうそうだ。
その地域では、介護の体制ができており、本人もネットワークを持っているので、
綱渡り状態ながら独居生活を続けていた。
その話を始めて聞いたとき、そんなわがままを言っていて大丈夫なの?と思った。
彼はかわいい障害者であることを拒否し、自分を殺さないで、最適な生活を受けたいと、
障害者個人を無視するような対応、介護には徹底的に反抗している。
それでも介護の手が途切れないのは、彼の対応に筋が通っていて、
ボランティアの甘えを気づかせてくれる得がたい存在だったからだろう。
ボランティア、介護の提供は、当事者を無視してはあり得ないのが原則だ。
ただのわがままは別にして、下手な介護、個人の尊厳を無視する対応は、
拒否されてもしかたがない。
障害者に幅広い選択を認めるのは思いの外難しいことである。
危なっかしい吊り橋を渡るような状況にはまだ至っていない。
いずれにしても、誰でも、覚悟を決めておかなければ、会は回っていかない。
私の介護はなっていないと、常々思っているところに、こんな言葉にであった。
昨日、テレビでも紹介されたそうだ。新聞の書評で関心を持ち注文した。
さっそく今日届き、読み始まった。書名は『ユマニチュード入門』
帯に書いてある言葉に、なるほどと思った。
この本には常識しか書かれていません。しかし、常識を徹底させると革命になります。
介護しているときに、相手が騒いだり、怒ったり、拒否したりということはよくある。
施設では、時間内に終わらせたいので、相手の意向を知らんふりして作業をする。
私は、わかった上で、自分の都合を優先する。
ここに書かれている「常識」とは、相手を徹底して人間として遇することだけ。
反省することばかりだが、父母には適用できないと思うのは、なぜだろう。
他人だったら、できそうだ。わが親だとどうして、適用できないのか。
わがままだと思う。身近な人にはわがままを通してしまう。
他人にはできて、身内にはできない、この落差は、仕事かどうかなのか。
そんな気がしているが、家族にもできている人はいる。
個人差なのだろう。
当たり前のことを「やり通せば」、大きな変化を生む。
ちょっと卑近に過ぎる例かもしれないが、例会において、後ろから声が聞こえたら、
近くのろう者の肩や腕に触れ、後ろを指さす。それだけだが、80%の会員がやったら、
革命になるかもしれない。
母は、息子の私に「お願いします」と言うことがある。
母は、週3回のデイサービス、月1~3回のショートステイを利用している。
「ホスピタリズム」とは、施設の利用による、高齢者への精神的影響をいうわけだが、
通常は長期入所による影響をいうことが多い。
本来は、乳幼児期に、長期に渡って親から離され施設に入所した場合に現れる、
情緒的な障害や身体的な発育の遅れなどを総称していうもので、
「施設病」「施設症」ということもある。母の場合、まだ痴呆は現れていないが、
4年あまりの施設利用経験から、ホスピタリズムが現れたか?
台所で夕食の準備をしながら、母に呼ばれトイレ介助をしていた。
台所に戻り、再度呼ばれていくと、息子に言う口調でなく、「お願いします」という。
母の介助は内心面倒に思っている。
「お願いします」と言う母と、時に苛ついて声を荒げる母とは、
自分の中でどう折り合いをつけているのだろう。
将来、私が、息子に「お願いします」と言う場面を想像すると、ぞっとする。
テレビで紹介されていたのは10代、20代の未婚の介護者だったが、解説の中では、
小学生の介護者もいると報告されていた。<今晩のクローズアップ現代>
学業が送れたり、介護していることをからかわれ、クラス内での関係が悪くなったり。
しかし、英国では10年ほど前からサポート態勢が取られていると聞き、感心した。
親や祖父母の介護のために資格取得を諦めたり、就職1年で退職に追い込まれたり、
過酷な境遇に涙が流れた。
どうしてこんな若者たちがいるのかと思う。けなげに若年性痴呆の母や父を支え、
自分の選択に迷いはないと、涙を流しながら言っていた。
さらに、介護の程度はかなりの重度で、私の状況はその比ではない
私など、自由な時間がかなりある中での比較的軽度の介護である。
こんな事例を知ると、自分ははるかに恵まれた境遇にいると思い、恥ずかしくなる。
大きな都市では、高齢者が孤独死したり、痴呆になり生活に行き詰まる例が多い。
地域や親族による保護が行き届かない、都市独特の現象だと思われる。
東京都は、基準に満たない施設を認めない方針をとり始まった。
悪徳商法に似た、介護・福祉を金儲けの手段としている組織が増えているので、
対応策の1つではあろう。
しかし、真剣に問題に取り組んでいる弱小施設も数多いと思う。
ある施設は、見捨てるわけにいかず、施設のできる範囲で苦労しながら対応している。
この施設は、今日ニュースになったので、あるいは認知度が上がり、
特例が認められるかもしれないが、多くの施設が運営の継続が困難になりそうだ。
不正介護・福祉事業者の摘発に力を割かれ、細やかな対応が難しいというのが実情だ。
私の将来も、必ずしも安泰ではなく、状況によっては、一人になるかもしれない。
貯蓄残金が少ないので、突発的な出来事によっては、生活保護を利用するしかない。
生活保護を受給するには、車を売って、子どもたちには面倒を見ることは拒否してもらう。
一応扶養調査はあるが、成人した子どもには、絶対的扶養義務はないので、断ってもらう。
その辺を悪用し、扶養を迫る担当者もあると聞くが、我が子は、皆貧乏な子どもたちである。
不動産も持っていないので、残金を数万円にすれば、間違いなく保護受給可能である。
私は、以前、生活保護担当をしていたことがあるので、上に書いたことは間違いがない。
さらに、生活保護担当者をしていた時、1年ほど保護基準で生活した経験もある。
かなり辛かったが、生きることはできる。~断っておくがかなり苦しい
事実誤認による思い込みや、噂に浮かれ保護受給者を否定する論調には気をつけたい。
動植物の世界と同じということなのだろう、介護保険の幕開け時によく言われた。
程度の悪い業者は、介護保険業界で自然に選ばれなくなり、淘汰され撤退すると。
本来の自然淘汰は、千年万年をかけて、 変化、消滅していく確率が高いことをいう。
程度の低い業者に泣かされながら、苦り切っている家族には何の助けにもならない。
そのためのケアマネージャーであるが、万能ではないし、時間もかかる。
その間に利用者は死んでいくか、他に移る。
程度の低い業者でも、かなりの時間、業界にとどまり、税金を貪ることが可能になる。
問題点を指摘し、改善を求め、結果を待つにはかなりのエネルギー消費が必要だ。
飯能市は、参加者2万人目標を掲げ、2日間で18,741人と目標達成まであと1歩。
昨年は、13,669人であったので、5,000人の増。驚異的な数字、人気を誇る。
古河の花桃は、今回微増であったが、参加者に見放されないよう頑張らねば!!
「気づいた人には責任がある」と、映画監督が言っていた。今回連載4回目なので、
前から気になっていたフレーズ。女性の監督で、苦労をしてきた方だ。
私自身すべての状況でそう思うわけではないが、
基本的にはそのように思っている。
世の中万能の人はいないが、優れた人が前にいると、気後れすることはある。
私も、時として自信喪失に陥ることがある。
それでも、自分に判断できたり、ちょっと頑張れば対応可能かなと思うことはある。
そんな風に気づいたときは、できる範囲で動き出してほしいと思う。
もちろん、「できる範囲」で良いのだ。
「できる範囲で」と言っても、信じてもらえないのはこちらの力不足なのだろう。
「できる範囲はできる範囲」で、まったく言葉通りなのだが、
その、「言葉」を受け入れてもらえなければそれまでである。
多くの人が、力の出し惜しみをしていると思うことが多く、残念に思うことが多い。
デイサービスから帰った母に「ここは家か」と聞かれた。
ぎょっとしたが、思い違いをしたらしい。
その後、警戒して会話をしたが、心配するほどではなかった。
子どもや孫の名前を忘れたり、体調の訴えには度を超していると思うことが多い。
その内、「どちら様?」と聞かれる日がくるだろうか。
育ててくれた人が、守るべき人になっていくのは、なかなか平静ではいられない。
京都・醍醐寺では、奇祭「餅上げ力奉納」が行なわれている。
古河にも「提灯竿もみまつり」という、関東の奇祭がある。
竿もみには若いときに1回だけ参加したことがある。
結構面白かったが、2度参加したいとは思わなかった。
京都の「餅あげ」は、民間で小さな道場を作り、優勝を目指し、頑張る人たちがいる。
NHKでこれに挑戦する人たちを紹介していた。
何の取り柄もないからと、自分を変えるために道場に通う女性もいる。
夫婦で道場を切り盛りし、優勝を目指す人たちもいる。
距離を置いて見る人からは、理解できない行動だろうと思う。
私も、小さな事を長い間毎日続けていることがある。
1.温度、湿度、天候、などの記録~3年2ヶ月
2.ブログ~2年9ヶ月
3.門前の椅子~雨以外はほとんど
自分が変わるというほどではないが、先の「餅上げ」の女性にしても、
何事かに挑戦しようとする、「その心意気や良し」と、思う。